理ってなんだろう。
なんとなく、書いておこうかなと思ったこと。
私的な理解の理。
理は「ことわり」。簡単に言えばこの世のルールや法則性や仕組みのこと。私はこれを追求していた人。どういうメカニズムなのかが知りたかった、それだけかも。
たとえば、信号の赤のときは止まりましょう。青のときは渡ってもOK。これがルール。
大人になると暗黙の了解となっているし、このルールに対してとやかく思うこともないと思う。これが「ルール」であることを受け入れられている。
だけど、子供の場合、赤のときに渡りたいから駄々をこねる。ママに手を掴まれて「渡っちゃダメ!」と怒られながら泣いている。青のときに渡りたくないと駄々をこねる。ママに手を引きずられながら「渡るのよ!」と怒られて泣きながら渡っていく。
これがそのまま、理にも適用される感じ。
この世の理に対して駄々をこねるとは「自分に人生に対して不満がある」「自分そのものに対して不満がある」「思い通りにいかないことに対して不満がある」という状態であって、信号機が「人生」とか「この世界」とか、抽象化されたものや概念的な理解へとさせたものにたいして不満や感情を抱くことが度々あるわけである。
普通に「信号機が赤だったらとまる」ならば、大人になればできるわけなんだけど、神ベクトルのルールだと「信号機が赤だったらとまらなきゃいけないことに文句が生まれる」とかになる。
そもそもそれがルールってことがわからないし、知らないから。
この世のルールに対して「とやかく思う」っていうのは「信号機の赤と青のルールにとやかく駄々をこねている子供」とそうたいして変わらないことだったりする。
で、この世のルールに対して私は、特に何も思っていない。残酷だとか、思い通りにならないとかも、特に思っていない。
だから無情にも、この世のルールについて考えたりもするんだと思う。
とはいえ共、不備はあるのが理。
新しい人種が入ってきたら、新しい人種のためにルールを産みだしたりもする。最初からずっと同じルールが続いているってわけじゃなくて新しいルールもうまれてくる。これをやっているのが理のベクトルの神さんたち。
たとえば、青と赤の信号だけじゃちょっと急すぎるから黄の信号サインをつくるってことが後から出来る。
で、この不備があった場合は、基本的に神さんのほうで「なんとかしなきゃ」になる。これもまた困っている人が増えてきたら、それに対して対処していかなければならない。
政治と同じ、困っている割合が増えてきちゃったら、その割合が増えれば増えるほど、理は新しくしないといけない。
でも、これは神による善悪により判断されている事であって、人による善悪により判断されて構築されていない。
ゆえに「信号機をなくしてください」とか、誰かから案件だされても「それじゃ困る人いっぱいいるから無理」とかになる。
この地球そのものは「理から学ぶ」ことが必要であって、その理を受け入れることから学習が進む。これが神という大人になることでもある。
つまり、信号機が赤のときは止まりましょう! なんのために? 交通事故があったら困るからだよってことを理解することができて、ようやく自分の為なんだ、皆の為なんだって理解する。
理も同じ、最終的には「自分の為」「みんなの為」に生み出されている。神は子が可愛い、子のために理をつくっている。それに対して「なにかしら感情的に思うこと」は、魂レベルのワガママって感じに思える。
信号機の前で赤だからママに手を掴まれて泣いている子いるじゃないですか。そんな状態の人がいっぱいいる。
神さんという母が、人の手を掴んで立ち止まっているとき、人は駄々をこねて「わたる~わたる~!」とか言っている感じの人がいっぱいいる感じ。
神さんがなんで手を掴んでそこにいるのか。なんでこの理のルールがあるのか。それを理解したとき、ようやく魂の大人になるんだと思う。
すべてはあなたが交通事故を起こさないためにである。これが愛やねん。
ワガママを通さないのが神という母なのよ、すべてはあなたが交通事故にあって不幸にならない為。これが愛。で、神さん的にも「大人になったらわかるわよ。」って言ってるんじゃないかな・・・・。
でも、神の手を振り切って走っていく魂がいたら、交通事故、起きちゃうよね。起きちゃうよね?
なとり的にめちゃくちゃ簡単に説明するとこんな感じ。