ツインレイの縁結びと縁切り理論
ツインレイの縁の結び方にも色々あるようである。
この世には2種類の縁がある。
- 現実世界での縁
- 精神世界での縁
現実世界での縁は、現実的に会うことができる縁。結婚できる縁。
もうひとつの精神世界での縁は、精神的に結ばれていく縁。相思相愛の縁。
私たちは、このふたつを手に入れようと考える。やっぱり相思相愛の人と結婚したいと思うものである。
しかし、現実的にこのふたつを手に入れることはなかなか難しい。
そして、ツインレイ——。彼らがしようとしているのは「無縁」の問題にある。
現実世界での無縁により、インターネットで出会う二人がいる。惹きあうことができるが出会うことができない。
精神世界での無縁により、現実で出会えようが精神的に結ばれることができない。出会うことができるのに惹きあわない。
どうして、私たちは「現実」または「精神」のどちらかが無縁として出会ってしまっているのか。
その理由が「ありのままの自分」ではないこと、そして「ありのままの環境」を受け入れることが出来ないからこそ、無縁を生み出してしまっている。
少しでも自分を魅力的な女性に魅せようとスカートの丈を短くするような。そんな恋の仕方しか知らない。だけど、あなたに見合う男性は「スカートがもう少し長い方があなた」なのかもしれない。
こんな風に少し背伸びしてみたり、自分を偽ってみたりしているからこそ、ツインレイは結ばれていくことができない。
現実世界での偽りがツインレイを無縁にし、精神世界での偽りがツインレイを無縁にさせているということ。
そのために、ツインレイたちはサイレント期間に「ありのままの自分」に戻っていく必要性がある。
少なからずこれは「ありのまま」をさらけ出すことがツインレイの相手にできないという、小さな恋心の火種を抱えている人たちの話である。
現実世界で出会えるツインレイは「精神への偽り」があり、精神世界で出会えるツインレイは「現実への偽り」がある。いいや、これを思い込みとして考えてもいいのかもしれない。
恋って面白くて、どうしても嫌われたくないものである。そして嫌われたくないから偽っては見栄を張る。そしてそれを見透かすのもツインレイである。
ツインレイたちの多くが「自分のことが許せない」けれど「相手のことは許せる」という状態である。このふたつの葛藤を抱え、自分を許せないでいる領域から抜け出すことができないでいる。
ありのままの自分をまっすぐに見ること。それは「環境」「自分の姿」そのすべてをダイレクトに見つめてみるだけでいい。
そのなかで本当にやりたいことが見つかる人もいるし、そのなかで何も変わらない私のような人もいる。色々。無理があるところは外していかなければならないし、無理がないのであればそのままにされる。
本当はどうしたいのかの部分に自ら気づいていき、自分で自分らしくいられる場所へ導かれ、自分らしい姿をするようになる。
無理をしない、これは楽をするわけではない。
無理とは理に反しないということ。理とは何か——である。理とは神の法則だよ。多くの人たちが反抗期の為に謀反を起こしている。
そのまま大人になれず、神さまのままの子供を維持している。何でもできると思っている小さな子供のまま。だけど、何者にもなれない自分を受け入れていくとき、私たちはなんて無力で小さな糸ミミズなんだろうって気づく。
だけど、藻のおふとんかぶってぬくぬく過ごしている糸ミミズをみて「なんて幸せなんだろう」って私は思ったよ。幸福って「無力」「無価値」のなかにしかない。
私たちはツインレイを選べない。なぜならば等身大の自分を拒否しているからである。そして、大人になれないまま大人になってしまった人たちがいる。その人たちはツインレイによって「大人」になっていく。
ツインレイ女性たちは子供を産むことを受け入れ、ツインレイ男性たちは生活という無価値を受け入れていく。
大人になることが受け入れられない理由は「不安」「恐怖」という感情が隠れている。
あなたが不安や恐怖を抱えているとき、私たちは自分が持つ無価値なる自分を受け入れることができない。そして人が織りなす営みに没頭することも出来ないのである。
ツインレイの縁結びをするにあたって、先ずは一度「縁を切る」必要性がある。
現実的なつながりがある人たちは、現実の縁切り。
精神的なつながりがある人たちは、精神の縁切り。
どちらも「もう二度と会うものか」という、絶縁的な感覚にあるだろう。この感覚が一度必要とする縁切りにある。
最初にどちらかが切り、もう片方がそれを受け入れらるまでの間がサイレント期間にあたる。
それが「精神的な縁切り」と「現実的な縁切り」にある。
一度目の出会いはきっかけに過ぎない。淡い初恋に過ぎない。
青年期にひとつ経験する大人になるために恋がある。その恋は自分の心を成熟にさせるために必要なトリガー。これにより多くの人が「異性性」を内包することになる。
ツインレイとは、この「心を成熟にさせるためのトリガー」であり「結婚する」という概念を生み出すものである。
大人になってから、この青年期を迎える人たちもいるってこと。というか、たぶん、ほとんどの人がこの青年期を迎えることが出来ないまま「姿かたちだけが大人になる時代」となっていて、私たち自身が経験しているものは従来では当たり前のことだったんじゃないかなと思う。
小学生ぐらいの精神レベルでも子供は産めるよってことだな。
そして、初恋は実らないものである。なぜならば「うまくいかない」からである。そこには必ず子供から大人になる過程で必要な縁切りがある。
私たちは親に隠し事をする。それは「自分」である。自分を隠しては自分を表現しないことが親への愛情である。
ありのままの自分であることが許されなかった人たちがいる。ありのままの自分を表現し、生きることが出来ずに苦しい人たちがいて、その人たちは恋をしていない。
恋をすることは大人になる一歩であること同時に、通過儀礼なのである。
しかし、当初の出会いでは「偽り続けている親への自分」を社会へ向けるため、ツインレイの相手へも「偽っている自分」を提供する。
だけど、本当はどんな自分なのか——。本当は、その「本当は」の追求の為に、ツインレイたちは縁切りを必要とする。
私たちは本当の自分を探すために、今の親への愛情を抱えたままの自分と縁切りするのである。
つまり、ツインレイの相手に対して「二度と会いたくない」っていう意識は「二度と親への愛情を抱えたまま、会いたくない」わけで、いわゆるこれもひとつの好きって意味なんだとは思っている。かなりの湾曲した理解だけれども。
縁は「ある」から「切る」ことができる。
そして、縁は「ない」から「結ぶ」ことができる。
ので、ツインレイたちは先ず「切る」必要性がある。ツインレイの相手との縁を切っていく必要性があり、この縁切りは上記の通り、親への愛情を抱えたままの自分との縁切りである。
そして次は「結ぶ」必要性がある。理由は、縁がないからである。切ったものはなくなる。だからこそ私たちは「やべ、縁がないな」ってことに気づいていく必要性がある。
その縁は「ありのままの自分と結ぶ縁」である。
この順序をいかなるカタチであれども踏んでいくことになる。
私たちは、縁切りによって「親による縁(家系の縁)」を切る。次に「ありのままの自分」になったあと「自分による縁」を結ぶ。
そして、この「親による縁」と「自分による縁」が同じであるケースがある。
これがツインレイである。親(系譜)と自分によるふたつの概念が結び付けられることにより「ツインレイ」というツインの概念が成立するのである。
誰も否定しないよ、親を否定しないし、自分をも否定しない世界。
で、この親と自分の縁が別であるケースをトリプルレイとか呼ばれているけれども、それはトリプルではなく男女である。そもそも概念は二個そろっていない時点で、ツインではない。
概念を数えよ、個数で数えるから三次元なんだよ。抽象化させて概念を数えることにより視点が得られたとき、本質的にモノを見ることができるようになるよ。
ツインの良さは「ふたつの違う概念」を「おなじ」にするところ。その力。
初恋を実らせるとは、親の恋と自分の恋の両方を実らせることに繋がっている。ツインレイが実るとは親の恋と自分の恋の両方が実ること。
途中で「ありのままの自分」に変化する過程の前に存在する恋が重要である。
あなたは「誰」を異性性として吸収したのかである。異性性のビジョンそのままを私たちは異性として認めるだろう。
ツインレイ。それは「恋」として異性性を吸収したそのままの相手を受けいれることにより、初恋が実るのである。
最終的に、自分の家系とか、自分の親とか、自分の肉体とか、自分が育った環境とか。そのすべてを受け入れる決断をした人たちはツインレイと結ばれる。だけど、自分のなかにある何かを否定するとき、ツインレイを選ぶことができない。
で、私はすべてを受け入れた。から、何も変わらない。ずっと受け入れているから。
もし何かを否定するために決断をしている何かがあるとき、親に似るへ変化する。
ツインレイと再会しても、結ばれない人たちがかなり多いみたい。縁結びが出来ない。