悪魔の契約と悪魔の実態を解説
悪魔は人をさしているわけではない。
私たちは『悪魔のような人』という比喩を使うことがあるが『あの人は悪魔だ』と言葉にすることはなかなかの憎しみが込められているときである。
悪魔は人の心を巣食う存在であるが、悪魔に心を巣食われる人は悪魔を神と思い、心を救われていく。
それは悪魔に心を差し出していくことである。
心を手に入れた悪魔は、代わりに人の願いを叶えるが、これは等価交換であり、悪魔はそうやって『人の心』を手に入れる——のではなく『人の肉体』を手に入れることになる。
いわば、悪魔は人の心を肉体から追い出し、肉体のなかに悪魔という自身が入り込むことにより『自分』を手に入れることになるのだ。
もっともこれを『悪魔は人の魂を等価交換の品に選ぶ』のではなく、人の魂の代わりに自分が魂となって肉体を持つことができるように働くことになる。
これが『悪魔』の所業である——。
悪魔に憑かれている程度について
悪魔が人を乗っ取るにあたり、程度が存在している。
悪魔が叶える願いの大きさによって、悪魔は人の心の代わりに自身が働くことができるわけである。
しかし、悪魔も『一時的な悪魔』も存在すれば『永住的な悪魔』も存在している。
- 悪魔に憑かれている人
- 悪魔に乗っ取られている人
の二種類に悪魔の程度は違うことになる。
たとえば、悪魔に憑かれている人は『表面的に憑かれている人』であり、悪魔に肉体を差しだしたわけではない。
いわば悪魔に憑かれている人の問題は『疲れている』。しかし、心がすさんでいるわけでもなく、いわば、これからすさんでいく状態になっている。
ジリジリと悪魔が今か今かと歩み寄るために、悪魔によって状況が悪化していく人たちが、『悪魔に憑かれている』のであるがゆえに疲れやすい状態になっている。
しかし、悪魔に乗っ取られている人は『悪魔の契約』を終えている。
悪魔の契約とは『自分の願い』と引き換えに、自分の肉体を明け渡すことになる。代わりに自分の心という良心を失い、悪魔の心を手に入れることになる。(悪魔の心が心と言えるものかどうかは甚だ疑問ではあるが。)
悪魔の契約と引き寄せの法則
アニメやマンガでは多く『悪魔の契約』が描かれていることがある。
多くが『悪魔に心臓を差し出す代わりに契約を結ぶ』という形で描かれ、契約の代わりに力を手に入れることになる。
芸術に関することがらは多くのファンタジーかと思われるかもしれない。しかし、あながち間違っていない情報も多く存在している。
悪魔の契約は、自分の願いと引き換えに自分の肉体を差しだすことである——と私は前項にて書いているが、この契約をもっと深く掘り下げてみると、引き寄せの法則が当てはまることになる。
引き寄せたい。そのように思うことこそが『願い』なのである。
引き寄せたいからこそ強く願う。そのとき、引き寄せる根本になる願いは『欲求』である。
考えてみてほしい。引き寄せたいものは『自分が幸せになるために必要なものを引き寄せたい』のであり、それは欲求であり、欲求により引き寄せることができる存在とは『悪魔』でしかないのだ。
- 幸せになりたい
だなんて、ぼんやりした願いを持っている人もいるかもしれないが、引き寄せの法則ではもっと『幸せを具現化するように』と言われている。
- かっこいい相手と結婚して幸せになりたい(自分にとって都合の良い相手と結婚がしたい)
- 思い通りになる人生となりたい(自分の都合以外はすべて悪である)
というような——。本心にまで至ってみれば、欲まみれとなっているのが人である。
「引き寄せの法則、うまくいかない。」
と言っている人たちの中には『欲求以外の本心を持っている』のではないだろうか。
さて。
もし、この『願い』を叶えられたとき、人は何を差しだすことになるのだろうかということである。
すべてにおいて等価交換であるがために、願いを叶えた代わりに何かを差しださなければならない。それは『自分という犠牲』なのか『ツインレイという犠牲』なのかはそれぞれの願いにより違うだろう。
自分の肉体を明け渡すのか、それともツインレイの相手を誰かに明け渡すのか。それは知る由もない。
悪魔が叶える願いごと
願いという根源について考えてみなければならない。
願いを叶えられたら、きっと『嬉しい』と思うかもしれない。もちろん、悪魔はあれやこれやと多くのことを引き寄せ、多くの願い事を叶えてくれる存在である。
しかし、悪魔が叶える願い事の裏側に存在しているのは『支配』というエネルギーである。
支配エネルギーは『人を無意識下で操作して支配する』という操作が可能になるが、現象としては『勝手に人を動かし自分の都合通りにさせる』ということでもある。
いわば、悪魔が叶えた願いの多くは、支配のもとで奴隷をつかって願いを叶えているのが現状だ。
たとえば『お金持ちの結婚相手が欲しい』と願ったとしよう。それは自分が豊かな生活をし、お金に不自由のない生活がしたいがゆえである。
その願いが悪魔に聞き遂げられたとき、お金をもった結婚相手がやってくる。それは『自分にお金を捧げてくるATM』だ。
そのATMである結婚相手と結婚することになるが、お金を持った結婚相手に尊厳はない。なんなら奴隷である。その状態にまで悪魔はその人の心を奪い、スッカラカンにして支配し、願いを捧げた人のところへ連れていく。
これにて完了である。否、これでは悪魔が本当に欲しいものは手に入っていない。肉体である。
肉体のなかから心が抜き去られ、悪魔が肉体の中にいつくことにより、これから長い間、結婚相手を支配し続けていく悪魔の能力を手に入れた人物の完成だ。
これは『最終的には自身が悪魔となる』形になり、悪魔に身を捧げることでようやく、長期間における結婚相手をATMとして手に入れることができる計画なのである。
つまり、人の願いとは『自身の心を差しだすこと』までが含まれ、支配者となり果てていくところまでが『願い』と考えられる。
悪魔という実態と天使の関係性
存在そのものが悪である。そのように悪魔のことを考えうることもできるが、悪魔とは『人の願いを叶えている』存在でもある。
しかし、その願いはどのような願いなのかについてをよくよく考えてみる必要性がある。
天使も同じように『人の願いを叶える』存在である。
どちらも根本は同じこと。『人の願いを叶える』存在なのである。
悪魔と天使の対比できる箇所は『悪魔は欲求による願いを叶える』ことができ『天使は心からの願いを叶える』ことができる存在であることだ。
もちろん、悪魔も心からの欲求になるまで人に憑いていることになる。
自身のなかに『欲求』が芽生え、棚ぼたを願い、自分が成長することよりも誰かが自分の願いを叶えてくれるんじゃないかという淡い期待を持たせるようなことを象りながら、心の根に持たせるのは『怒り』と『不安』と『弱み』という感情である。
悪魔が育てている感情をスクスクと育てられ続けた人たちは、
- 自分ではなくて誰かが悪い
- 自分の不安を一人で抱えきれないでいるから誰かが背負ってほしい
- 自分の弱さを誰かにカバーしてもらいたい
というような精神状態へとなっていく。
多くが『不運』に見舞われやすい状態であり、その不運を受け止めることが出来ないがゆえに悪魔側へといざなわれていくことになる。
しかし、そのなかでも不運に見舞われていたとしても、天使側へ進む人たちもいるわけである。
- 自分が悪いと責任を終える
- 自分の不安を自分で背負う
- 自分の弱さは大事なものである
と考えるようになる人たちは、天使を味方につけていくことになる。
悪魔が天使に見える理由
多くの悪魔は『偽装』する。
天使のような姿に見えて、悪魔を見ることが多いのだとも言われている。
残念ながら私は、悪魔自体を見たこともなく、天使をみたこともないがゆえに(みたことがあるのは作務衣をきたオッサンである)悪魔はこのような姿をしている・天使はこのような姿をしていると断定することはできない。
しかし、多くの悪魔が何故、天使のように煌びやかな姿となって現れるかの理由は知っている。
悪魔は
- キンピカに輝いている
- 素敵な姿をしている(天使のような)
- 神と名乗る
- 純白の羽根をつけている
というような外見的な美を象るような形で当事者の夢に出てくることが多い。
神と名乗ったりとすることも多いが、残念ながら、神は名乗らない。(名乗る意味もなく、名乗る必要性もなければしないだろう、それが神である。名乗る目的があるときとは自己顕示欲があるとき。名前に意味があるとき。神は名乗ることに目的がないゆえに名乗らない)
悪魔も天使も『願いの具現化』を行うわけである。
悪魔は願いを持った人たちの具現化をすることができるがゆえ、当事者たちの煌びやかな思いを具現化しているに過ぎない。
夢占いとしても『輝いているような素敵な神』というような神を見たとき、自身が持っている神という理想を描いているに過ぎず、悪魔はその輝きと自身の存在によるギャップを欲求として見なしているのでもある。
悪魔に心巣食われる人たちは、自分は幸せになる権利があり、幸せになれるだけの存在であると盲目的に信じているからこそ、自身の状況とロマンにギャップを生むのである。
このギャップこそが『欲求』へと変換されていく。
夢の内容の悪魔たる存在と、現実の自身の状況によるギャップが生まれれば生まれるほど、自身のなかに『欲求が育っている状態』なのである。
最終的に、悪魔の存在が『神にみえた』とはとても危険な状態にまでいたっているとされる。自分自身の欲求の形は神であり、自身はミジンコのような存在となっているのだから。
その状態にまでいたっているとき、悪魔にすべてを心奪われるところにまで至っている状態ではないだろうか。
悪魔の目的
常闇のツインレイではオカルト的に『宇宙人説』だなんてものもあげている。
こちらである。
このなかで『悪魔』という存在がでてくるが、けっきょく、この話も眉唾的ではある。しかしとても面白い観点ではないか——と思っている。
悪魔とは『人の願い』を叶えに来ているが、その願いのうち『人の欲求』をエサにし、人の肉体を乗っ取りに来ているわけである。
対峙することになる天使は、同じように人の願いを叶えに来ているが、その願いの内容は『みんなが幸せになる』という人の願いをかなえにきた存在である。
その願いは『純粋性』にあり、私利私欲的ではなく、多くの人に還元することができる幸せを象ることである。
ここでツインレイをあげさせてもらうが(このサイトはツインレイのサイトゆえに、ツインレイのことを知っている人は多くいらっしゃるかと思うので、ツインレイについての説明は省かせてもらおう)、ツインレイは愛を振りまいて多くの人を幸せにする——ということが横行しているらしい。
では、ツインレイは愛を振りまいて多くの人を幸せにするとはどのようなことなのだろうか。私の視ている限り、自分の幸せ自慢をすることや、自分の幸せを他人に見せつけていくことをしている人が見られるが、それが『ツインレイは愛を振りまくこと』なのだろうか。
どうにも私には『自慢しているだけじゃないか』としか思えない瞬間がある。(私の心はどうやらすさんでいるらしい。)
幸せ自慢は人を幸せにするのだろうか——。
悪魔がしていることは『ツインレイはこういうふうな存在なんだよ、幸せじゃなきゃいけないんだよ』という抑圧に感じられてならない。
ツインレイの幸せの形は、人それぞれ違うものである。
その幸せの形を『見せつける』ことにより、ツインレイは幸せでなければならないという形を見つけ出しては不幸を生み出しているのではないかと思う。
幸せの形を誰かに提供してしまえば、それは自分と他人を比べる種となる。いわば『幸せ比べ』を悪魔たちは行わせようとしているのではないかと感じている。
幸せは比べることが出来ない。だからこそ、自分なりの幸せを積み上げていく必要性があるわけだが、他者にそこが存在しているだけで隣の芝生は青く見えるような出来事が起きる。
しかも、その芝生が青いと書けば、それが事実となって他者へ捉えられていく。
また、そこへ悪魔がやってきては幸せ自慢が始まり、ツインレイたちは切磋琢磨しては『自分がこの世で一番幸せなのである』という情報を提供し続けている。(依然、理論は提供されていないまま、ツインレイは幸せな結婚の象意となったわけだ。)
悪魔がしたいことはひとつである。
もちろん『自分と他者を比べる』ことをさせたいわけだが、根本にあるのは『自分が不幸である』と思わせたいことである。
- ツインレイと出会えていないことの不幸
- ツインレイと再会できていないことの不幸
- 自分にはエゴが残っている不幸
- ツインレイとうまくいっていないことの不幸
- 結婚できていないことの不幸
多くの情報は自分が不幸であり、自分は満ち足りておらず、自分は満足が出来ていないと感じさせるには最高の蜜となっている他人の幸福である。
他人の幸せ話を聞いても、心が満たされるわけがない。
だけど多くの人が言うのである。他人の幸せ話を聞いて幸せになれないことは悪である——と。
ここにも悪魔の落とし穴が偽善として存在している。偽善者とは人の自慢話を聞いて「いいですね。」って思うことである。
しかし本当の善とは、この人には幸せになってもらいたいと思うことにある。
さて聞きたい、人のツインレイ話を聞いて「いいですね。」という言葉の裏側に「うらやましい」という気持ちは生まれなかっただろうか。
羨ましいは過ぎれば毒になる。過ぎればうらめしやとなりはて、最後には人を恨む心の種となる。
悪魔のすることの恐ろしいところは、ひとつひとつの所作にある。うらやましいと思わせるなにかを持たせている情報を手に取って、私たちは『恨みの種』を自身に植え付けている状態だ。
その種が発芽した暁には、悪魔のつけ入る隙だらけとなっているだろう。
悪魔の目的なんてたったひとつなんだろう。
人の良心を追いだして、自身が肉体を持つことである。
このとき、私はウォークインという現象が起きているのではないか——と思っている。これが宇宙による奴隷計画に繋がっているのではないかということだ。
そして、悪魔とはウォークイン先の宇宙人に人間の肉体を斡旋している係なのかもしれない。