ツインレイの二元性から三元性へのアップデートとトランスサタニアン その①

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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ツインレイの自立を、それぞれトランスサタニアンにより行っているのかな? と思った次第なので、それについてを書き纏める。

図の説明:善悪二元論思想を構築する

私たちは『100(価値)』『大人』『束縛』を持って『成熟』とする。いわば、一極に偏るのである。そのとき、私たちは私たちのなかにもうひとつの一極が成立する。

価値のある大人は仕事に束縛される——というイメージ。

それが『0(無価値)』『子供』『自由』である。この三つは『未熟』である。無価値な子供が自由に遊んでいるイメージ。

このもうひとつの一極を成立させるためには、

  • 冥王星による自分のなかで価値があるものを全破壊され、0に戻されること。
  • 海王星により依存され、子供に戻されること。
  • 天王星により束縛から逃避して自由になること。

の三つにより自分自身のなかに善悪二元論思想を構築させる。

いわば、私たちは『大人だ』と思っていた存在が打ち砕かされ、次には『子供だ』と思われる人格を自身のなかに構築する。

 

これにて成熟した大人と、未熟な子供が自分のなかに成立したところで、ふたつの均衡をとる必要性がうまれる。これが三元性である。

図の説明:三元性の成立

冥王星の場合、100を破壊され再生をする。

海王星の場合、大人が依存されて創造する。

天王星の場合、束縛から逃避して革命する。

これが三元性かな? と思う。そして『0』『子供』『自由』は一元性って感じかな。

この三元性へと到達するとで『再生』『創造』『革命』が起きるのである。

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自立するとは、自分が持っている価値観を全て破壊されて再生すること。大人だからこそ誰かに依存されるからこそ創造をすること。現実に束縛されている状態から、誰かが逃避することで革命が起きる。

 

ツインレイはそれぞれトランスサタニアンから三種類存在しているのではないか? と考えられる。

まずは『再生』の場合、相手に自分が持っている価値観を全破壊されることにあり、その破壊を受け取ること。

『創造』の場合、大人側の人が子供側の人に依存され、その依存により創造が始まること。

『革命』の場合、束縛してしまうからこそ解放して自由を生み出すことで、革命が生まれること。

この機能がしっかりと三元性へにまで到達しないとき、ツインレイのふたりは『破壊の関係性』『依存の関係性』『逃避の関係性』を模す。

たとえば、ツインレイ男性が100の価値観を持っていたのであれば、その価値観をツインレイ女性による破壊を迎合することに意味がある。この破壊が100%出来たとき、自力で再生をツインレイは行っていく。

ツインレイ男性が大人であるのであれば、ツインレイ女性が子供として依存することで大人の自分を破壊して子供を背負いきることで創造がはじまる。

ツインレイ男性が束縛であるならば、ツインレイ女性が自由として逃避するとき、ツインレイたちは革命がはじまる。

それぞれ二元性の世界観でツインレイは出会い、お互いがお互いの役割を担い、その役割による実行をするとき、それぞれ『破壊』『依存』『逃避』という関係性を模す。

この関係性がひっくり返り、三元性へとなるとき、ツインレイたちは再生を始め、創造を始め、革命を始める。ふたりの関係性が。

図の説明:二元性でどっちの役割だったのか

二元性による役割によって、どっちになるのかは不明である。

冥王星は、破壊する側と破壊される側にある。価値観を破壊した側は『サイレント期間に価値観を破壊される』ことになる。そこから価値観を再生をしなければならない。

海王星は、依存する側と依存される側にある。依存した側は『サイレント期間に依存される』ことになる。依存されながら創造しなければならない。

天王星は、逃避する側と逃避される側にある。逃避した側は『サイレント期間に自己決定をする』ことになる。そこから自分の人生を革命しなければならない。ツインレイに逃げられながら、自分の人生を決定していく。

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まんま、私は「ツインレイを破壊した」し「ツインレイに依存した」し、「ツインレイから逃避した」のである。

ので、私はサイレント期間に価値観を破壊されのである。再生することになったので、ブログを再構築することになった。

そして、サイレント期間に依存されながらも創造をし続けていた。

最後はずっとツインレイに逃避され続けているので、逃避されているからこそ、自分の人生をツインレイを必要としない世界観にて樹立させることになった。

って感じだろうか。

つまり、全体的に、なとり「すこぶるヤバい人だった」ってことがわかる。でもなんでかそうなってしまったのだ。二元性で割り振られちゃうとそんな感じに陥ってしまうんだと思う。

私はそこから『自分が破壊した分だけ価値観を破壊される』わけで『自分が依存した分だけ人に依存される』わけで、『自分がツインレイから逃避した分だけ、彼から逃避される』わけである。

つまり、全部全部自分にかえってくることになる。

けっきょく、破壊されたので再構築しなければならないし、依存されたのでその分量だけ大人になるべく再構築しなければならないし、ツインレイから逃避した分だけ、自分から逃避できないのである。

そうやって、全体的に「ヤバいなとり」を「再構築」することになった。

これがツインレイの関係性なのだと思われる。そして、ツインレイの彼が「破壊されてくれた」「依存させてくれた」「逃げ出さないでいてくれた」分だけ、私は自己破壊し、自己創造し、自分と向き合うことができるのである。

これが愛情だと思われる。

これにより、実は「ツインレイの相手のことはガン無視」で自分の人生設計をするようになる。私が私を受け入れ、私が私を構築した分だけ、ツインレイの彼は私に合わせて彼が『現実を構築する』と思われる。

ちなみに「ヤバいなとり」なわけなんだが、こう客観的にみるとヤバいんだけれども、私的には、すべて彼に合わせるべくの自己破壊的なものでもあって、それはそれで愛情だったんだ。依存していたつもりもないんだが、天体的にみるとこんな感じ。

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ごちゃごちゃするけれど、お互いがお互いを破壊して、依存させて、逃避したんだと思う。

けっきょく、どっちもそうなんだけれど『男性』と『女性』だと、破壊されるもの、依存されるもの、逃避するものの意味が違うのだと思われる。

男性の人生を生きていると、女性性を破壊し、依存し、逃避するのかもしれない。女性は逆然り。

けっきょく、お互いがお互いを支え合うとき、また、それが『破壊』『依存』『逃避』でしかない。男女の真逆性とはこのような本質があるのだと思われる。

だから、ツインレイたちは、ふたりがふたりでいきる共存的な人生を『破壊された分だけ再生』させ、『依存した分だけ創造』させ、『逃避した分だけ革命』させていかなければならない。

この再生、創造、革命を個人ベクトルで行うのがツインレイ。私たちである。

 

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人は『型がない』と思っている。

私たちはどんな人にでもなれる。そこにある環境などに依存して私たちは『自分』を構築しているけれど、この環境を組み替える時、私たちはいかなる存在にでもなることができる。

私たちは、この環境のなかで過ごしているし、生きているからこその今の自分がいるけれども、いつだって自分を組み替えていくことも、自分を変えることができる。

自分を変えていくことや人生を変えていくこと。実際、労力もあるし、精神構造内もぐちゃぐちゃするし、考え方も変えていなければならない。

それは『時代に合わせた生き方をする』ような考え方でもある。

江戸時代に今の私たちが存在しているわけはなくて、やっぱり価値観が違う人たちが生きている。同じではない。

でも、私たちがもし江戸時代にトリップしたら、その時代の思想に染まることが望まれる。やっぱりその時代にはその時代の在り方があるからである。

江戸時代の思想を組み替えたり、今の思想を持ち込む必要性はない。ただ『融けこむ』になる。

それは私たちが「水」だからである。ただの水であり、私たちが「形を持っていない」からであり、生まれたての赤ちゃんは、その時代に適応し、環境に適応するようにして自我を形成していくことになる。

その適応性が問われていたような気もする。

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ツインレイ。それは自分と真逆の存在である。自分とは真逆の存在であり『破壊』『依存』『逃避』って、ふたりが最悪的な関係性を持つしか出来ない相手と恋に落ちたときの私たちは、適応するしかない。

時代へ私たちが生まれたときに適応したように、同じようにツインレイは『ツインレイへ適応する』ことが望まれている。

私たちは『自分』を守らない。自分ではなくて、状況や環境に適応し、自我を形成していく。

そのためには時代天体と言う『自分を守らない領域』『共存領域』の力を必要とするのではないかと考える。

私たちはツインレイの相手に合わせようとしても、自分が『真逆だからあわない』のであれば、その部分を組み替えればいい。

それが「破壊された場所があるならば、新しく再生させましょう」「依存してしまった苦しい部分があるならば、創造で依存を断ち切りましょう」「逃避してしまった辛い部分があるならば、辛いことは革命しましょう」ってことになる。

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いわば、ツインレイとは『適応能力の高さ』が問われたのではないか——とも思っている。

『相手と自分の関係性を二元性』として保つとき、中庸させようと『破壊』『依存』『逃避』と言う形となったが、その中庸もまた一極に偏れば、もうひとつの『再生』『創造』『革命』というもう一極が生まれてくるのである。

こうやって私たちは、何度も「共に生きる世界」を自分の精神世界を組み替えるようにして生きているのだと思う。

私たちは、共に生きることができないからこそ、ひとつにくくられては、分離させて『独立』させることで、自分の魂を成長させているのだと思う。

真逆だからこそ、私たちは結合する。繋がった部分に「相手が持っていないもの」を差し出すとき、私たちは破壊、依存、逃避することになるからこそ、私たちはお互いに破壊し合い、依存し合い、逃避し合うのである。

ないものを補い合う関係性は、破壊、依存、逃避が関係しているのだと思う。

そして、それを『異性同士』で行うとき、私たちは互いに必要なものを再生させ、創造させ、革命していくのである。

これが私たちの『統合』という思想なのだと思う。

私たちの魂は何度も繰り返されて、このように「あなたを愛してきた」のである。

破壊、依存、逃避。どれも、愛した結果による結論だが、その愛がもし、その心に通じることがあるのであれば、そのふたりは再び出会えるだろう。

だって、共存の為に私たちは統合をしているのだから。

目的が果たされるとき、ふたつの世界は融合される。そのふたつの境界線は失われ、きっと二倍の幸福を生み出すことができるだろう。