人の為も自分の為もどっちも苦しかった。
人の為に一生懸命がんばる人生も辛かった。
今回は、自分の為に一生懸命頑張って、それが結局は人の為になるように考えた。だけれど、それだって最終的には苦しい。
人の為にだって、自分の為にだって結局は苦しいしか残らなかった。
私はやってみなくちゃわからないからさ、やっぱりやってみて苦しかったし、辛かったっていう感想。
ここから考えれば、人の為に生き、それが自分の為になる——だけはやっていない。
だけどもう「人の為に生きる」のもしたくないし「自分の為に生きる」のもしたくない。何もしたくない。
この世はもうどう頑張っても苦しいな。この苦しみから逃れる方法なんてひとつもない。
だけど、前を見て生きるしかない。
ここまで泣きながら全身全霊でヒィヒィ言いながらも人生を全力疾走で生きている人も珍しいなと思う。
時に振りかえり、過去を思う時間と、それから前を向いて生きる時間があれば、人はそれだけでいいんだと思う。
私たちは過去に多くの決断をしている。その決断をするには決断をするだけの理由があった。
もちろん失敗することもあるだろう。だけれど、その決断が「いかなる心の配慮」だったのかはわからないけれど、私は過去の自分の決断をやっぱり間違えていなかったと思う。
自分の為にあれたこと、人の為にあれたこと。どっちの自分も、やっぱり誇りに思う。けっきょくは人のことばっかり考えている私がやっぱりいてな。
ああ、あかんなって思った。どうしようもない人だ、と。
だけど、残ったものもある。
経験だ。人の為に一生懸命にくるくる回り続けた自分の経験が、きっといつか役に立つ日がくるだろう。
そして心だ。私は心を手に入れた。
母がこのようなことを言っていた。
我が父は、また祖父は「変人」だと。その変人が年を重ねると「偏屈」になる。
偏屈とは人間がねじれてしまうこと。
ではいい方に転がるとどうなるの? と聞いてみた。
そうしたらこのように言われた。
「天才だよ。」
と。私の祖父は神童と呼ばれたが最後は偏屈になり、父も偏屈になった。
だけれど、我が家系、ここにきてようやく「慢心」を捨てることができただろうか。
次の子は麒麟児を育てることはできるだろうか。心を育てることはできるだろうか。
私は天才でもないし、秀才でもないし、なんなら何がしの学もない人。一番に劣っている子。
だけれど頑張った人。家系のなかで一番のド底辺の人なんだけれど、遺伝子ぐらいは残したほうがいいのかな? と思い始めている。
今まで私は自分の遺伝子は劣等していると思っていたけれど、ようやく、そうでもないのかな? と思っている。
人類に有益な遺伝子に変化したかな。
なんでかわからないんだけれど、心から「ありがとう、ありがとう」って聞こえてくる。
こちらこそ、ありがとう。
これからは、空を泳ぐくじら雲を探していくよ。
地に咲く雑草の名前を調べ、
鳥が鳴いている方へ目を向け、
春にはタンポポの綿毛を集めて、
夏には川へメダカとりにでかけ、
秋には落葉を踏み鳴らして、
冬にはストーブの上でお餅を焼くよ。
そして、誰かが呼ぶ声のほうへ振り向くよ。
そんな「生きる」ことに着眼できたらいいなって思っている。
この世界と共に、世界に融けてしまうような、どこにでもある小さな幸福を手に入れたい。
神に祈る日々を捨て、あなたを想う心だけを持って生きていきたい。
私は神の道を捨てるんじゃない。
私は私が導き出した理の道を進むだけ。それは私の人生。
名誉もない、名声もない、どこにでもある小さな幸福を守りたい。
ひとつの家庭が持つ笑顔を守るだけで、女性はいいんだと思う。
「楽しいね」「嬉しいね」「幸せだね」
あなたのそんな気持ちを守れたら、それでいいと思う。
歩く調子をゆっくりにしよう。疲れたら休憩しよう。
そして、今度は誰かの休憩する場所になれたらいいね、かえる場所になれたらいいね。
人の為に、自分の為に頑張っている人たちが、休める場所になれたらいいな。
だから私は何もしない。