第8チャクラと第9チャクラの開花について
第1~第7チャクラは人体にくっついているチャクラだが、第8チャクラは頭上の上に存在し、第9チャクラは再びその上に存在していると言う。
第8チャクラ
位置:頭頂から20cmまでの領域色 :金(ゴールド)
働き:オーラの外側を強固にします。ポジティブな思考や精神、確固たる意志を確立します。
自らの高次における目的やこの世で成し遂げるべき事柄などの情報を持っており、自らの本質を反映します。
自分らしく生きていない時や不本意な事をしている時は、このチャクラに元気がないので調整が必要。第9チャクラ
位置:頭頂より約50cm~60cm上働き:
高次の宝冠とも呼ばれ、ハイアーセルフ(高次の自己)や宇宙意識と繋ぎ、同調させます。
自らが精神的な存在であるという意識に疑問を持つことなく、この世の常識に捉われることなく、普遍的な「愛」の存在としての自己を確立させる。
この第8チャクラと第9チャクラは諸説あるようで、サイトさんたちによっていろいろな見解が書かれているため、どれが正しいのか——というよりも、未だよくわかっていないチャクラたちなんじゃないかということ。
第1~第6チャクラが整うことで、私たちのつむじのチャクラの第7チャクラが開いていくことなる。そして、より一層、低次の第1~第6チャクラが、なんらかの影響を感じ、進化していくことで第8チャクラ、第9チャクラを受け取れるようになっていくような気がする。
そして、この金色とされているチャクラが第8なのか、第9なのかがわからないのだが、たぶん、人それぞれ違うのかなと思っている。
私の場合、第8が金色になっていて第9が白って感じに構成されていると思われる。
第8と第9チャクラの位置と認識
頭上に——と書かれているケースが多いのだが、私の場合「内側に——」と書かせていただく。
瞑想中に自分の内側に落ちていくことで第8、第9チャクラへと到達する。一気に加速して第9まで進むとき空間を落ちるようにしてくぐる感覚がする。(くぐればくぐるほど「死んでいる」感覚がする。)
第7チャクラは「人と人による念が行きかっているものを理解している」場所にある。結構騒がしい領域と私は認識している。知らない人の念による話し声まで聞こえるから。
第8チャクラは、自分の人体の領域をひとつ内側に向けたときの無風空間にある。第7チャクラにおける領域では騒がしい空間だったが、もうひとつ潜るだけで物凄く静かな領域が広がっている。
この位置では「個」でしかない。この個における魂の領域では「ひとり」ゆえに、感覚的には「超静か」なのである。
第9チャクラは、集合的無意識領域と考えられているが、私的には「自分の魂の起源にまでたどり着ける場所」である。いわば、ここは「魂の道」にあり、前世の記憶がヒシッと詰まっている場所。
だけど、私的にはここで「集合的無意識」として認識したものはない。ここは「前世の記憶」だったり「魂の記憶」を引用することは出来たけれども、魂がひとつだったときの記憶にまでは到達したことがない。
集合的無意識の領域は第10チャクラなのかもしれない——し、もしかしたら、そんな領域存在しないのかもしれないという可能性については危惧しておくべきだなとは思った。
第7チャクラから第8チャクラへ
第8チャクラとは、この世におけるオーラレベルでの『魂の個』をさしているような気がしている。
その個がどのような個という主張をするのかは人それぞれなのだと思われる。私の場合、金である「確固たる意志の確立」が重要な存在だから確固たる意志が確立している感じ。
魂の個が主張をしているとき、ここのオーラが全開になったりすると思うんだが、私が座敷童子のお宿にいったとき、オーラが駄々洩れた理由は「小さい子、大好き麒麟オーラ全開」になってしまったせいなのだと思われる。。
たぶん、自分の魂がありたい存在であるとき、第8チャクラのオーラが駄々洩れる。
魂の個における領域——と書かせてもらったが、究極に『個』を指し示す場所だと思われる。その大前提として第7チャクラにおける多くの人によるエネルギーとの調和性を理解し、また念における支配や、多くの人が存在する全体性のなかに存在する個そのものを認識する必要性がある。
第7チャクラの領域では、不必要な念など、多くの念が飛び交っていることを認識することができるが、この多くの雑念が飛び交っていることを認識するためには第8チャクラへの到達性を求められる。
第8チャクラの領域に入ることで、第7チャクラにおける雑念等を認識し「人である自分という個」を理解する。
第7チャクラが「人である自分という個」だからこそ、第8チャクラが「魂である自分という個」を指し示す。
人である領域とは、構造主義にあり、また全体の中における個とは「没個性を受け入れること」にもある。集合的な人々のなかで自分と言う個を見つめるとき、私たちは「没個性」となり「存在が淘汰されかねない」わけである。
第7チャクラが閉じているから自分の存在がカスになるのではなく、そもそも自分の存在がカスであることを受け入れられないからこそ閉じているとして考える。
自分の存在がカスである事実(人による集合体から見た自分という概念)を受け入れている人は、たいてい第7チャクラの学習が住み、第8チャクラにおける「魂としての個」の概念へと進むと言う算段である。
また、第8チャクラが解脱と呼ばれている理由もここにある。
人という概念により認識したとき、私たちは「1」でしかない。いわば、人と自分は「人」と「人」であり、どちらも「同じ概念である」と認識するとき、私たちは他者と自己の違いを見つけることができない。
これがワンネスと呼ばれているような感覚にも似ているが、これは「人という概念を理解した」状態にある。
あなたと私は同じ。これが「人(あなた)」「人(私)」は、どちらも人であるという概念を理解したとき、私たちに個性など存在しないことを理解し、他者に愛情を向けることは自分に愛情を向けること(どちらも人であることに違いなし)という理解への到達性がある。
この「人の概念(一の概念という集合的理解)」があるとき、私たちは「人の概念によるワンネス」を理解する。また、その理解があるとき、他者と自分の違いが気にならないために、他人の問題にも目がいかなくなる。没個性的な理解をすることにあるためだ。
語りつかれたのでまとめると、上記の通り、第7チャクラにおける「集合的な視点から見た個人」に着眼したとき、私たちはまるで無個性である事実を受けれいたとき、第8チャクラへと進んでいく。
第8チャクラの領域では、人と人の繋がりと言う寄り現実的な繋がりよりも、魂による繋がりを重要視することになる。
また、この第8チャクラの段階において「ツインレイ」など、魂による繋がりを理解するようになる。
たとえば、第8チャクラでの理解は「人と自分が繋がっている」感覚なども理解していくが、それは第7チャクラの学習を終えているために、人である個人個人の繋がりを第8チャクラにより認識するためにある。ひとつのワンネス的な感覚でもあるが、このときの感覚は、きわめて「人」「他者」のふたつが繋がっている感覚に過ぎない。
ワンネスとは「集合的感覚」として定義するとき、人と他者のふたつが繋がっている感覚はワンネスというよりも「人」という概念の理解となっている。
第8チャクラから第9チャクラへ
第8チャクラでは『魂と言う個』に対しての理解が進んでいくことになる。この魂と言う個とは「あなたと私は別の魂であること」への理解である。
もっともツインレイたちの多くが「魂をひとつにする」という考え方にあるように思うが、逆にある。
私たちは魂を「別の魂であることの理解」が必要であり、そのうえで「別の魂であるからこそ、結合する」必要性が生まれる。
そもそもツインレイたちの大きなる勘違いが、第8チャクラの段階で「魂はみんなひとつ!」というコナン君みたいな言い分を持っている状態にある。
私たちが人の概念を手に入れて「没個性を受け入れる」という集合的感覚を身に着けたあと、魂はみんなひとつに繋がっているから魂はひとつ——と魂そのものを集合的無意識として勘違いするシーンがあるのである。
いわば、第8チャクラでは「魂の個」を理解していくために「他者の魂と自分の魂は別である」という魂による個を理解していく段階であるからこそ「魂が個であることを理解できる魂」との切磋琢磨が生じるようになる。
これが魂レベルでの依存である。魂レベルによる依存が所持るが為に、私たちは魂レベルでの依存を立ち切り、魂として独立宣言をしていかなければならない。
これが「魂の自立」にあり「神からの自立」でもある。
そして、魂の自立を宣言していく魂たちは、第9チャクラへの到達をしていく。
それが「魂のルーツ」を知ることにある。
魂のルーツとは、前世の記憶もそうだけれども「自分の魂はどこから発生したのか」にまでさかのぼることにある。
私の場合「自分の魂」と「君主の魂」によるふたつの分離するシーンをみることになった。また、最終的には「けやきの樹だった」ことも思い出していくことになる。
この思い出していく経緯自体が第9チャクラが開いていくことにより導き出されていくことに繋がっている。
前世の記憶による問題は、人であれば「前世の記憶」があるかもしれないんだが、精霊の場合、樹だったとか、石だったとかという自然のなかに自分の祖を見つけることになる。
だけれども、この領域で「集合的無意識」にはつながらないと思われる。
いわば、魂による全体性を持っての前世の記憶がここにこぞって納まっていると言うことは、魂による集合的意識はもうひとつ上に存在している——ということである。
第7チャクラの段階で「人の人生とは」について考えさせられることになる。「自分の人生とは——」と考えたとき、ほとんどの人の結論が「何も人として望まれていない事実」に直面する。
多くの人が第7チャクラの段階で「いや。自分の人生には使命がある」と考えるが、実際、人として私たちは何も望まれていない事実がある。その事実を受け入れるものの多くが絶望することになるかもしれないが、絶望することもおこがましい自分の考え方による反動みたいなものである。(自分の人生には意味がある! 価値がある! と粋がる人こそ、第7チャクラによる課題は「意味ないよ、価値ないよ、糸ミミズでしかないよ」っていう答えを与えられるために絶望する。)
この絶望を乗り越えた先に、私たちは再びこのように思う。
「魂ではみんな一個に繋がっているし!」
返答はこのような感じである。
「たわけが!」
ってことで、今度は第8チャクラでの課題は「魂はみんなバラバラです」という課題が提供される。
魂が皆バラバラであることを知った先には「魂の起源」を知ることができるようになる。魂がみんなバラバラであることを理解することで「みんな魂の生まれが違うんだ」ってことを理解する必要性が生まれるためにある。
これが「第9チャクラ」における理解である。
魂の発生は皆違い、違うからこそ、別の魂による人生を送っている。
これは「魂の存在そのものがみんな違う」という意味であり、私の魂自体は「けやきの樹」から生まれた存在であり、同じけやきの樹から生まれた兄弟たちもいるって感じ。その兄弟たちを私は「同じ魂」だと思っていたみたいなんだが、別々の魂であることを理解することが第9チャクラにある。
しかし、大元は「けやきの樹」という父により生まれてきたのだ——という理解が生まれる。
では、けやきの樹による霊はどこから生まれたのか。それは「人」である。ここで循環が生まれていく。
私たちは循環のなかで生まれ、循環のなかで魂が発生したごくひとつの魂に過ぎない。
そして、その大元はいつも「人」にあったのではないかと私は考えている。