チャクラによってツインレイを分析する。

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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今、チャクラの配置をこのように見ている。

図の説明:チャクラの配置

0チャクラは、足の裏とされているんだが、これを『大地との接点』とする。

8チャクラは、この世の『空』とし、これを『空との接点』とする。

そして、9チャクラまで書いたんだが、こちらを第4チャクラの位置でありながらも、異空間とし、それを『あの世との接点』とする。いわば、これを『霊』とか『魂』とかの概念でもいいのかな、と。

図の説明:チャクラと連動する善悪について

図に書き起こしてしまったんだが、ちょっとそれなりに文章化してみる。

  • 0,1・・・現実の善悪(やる/やらない)
  • 2・・・感情の善悪(感じる/感じない)
  • 3・・・個人の善悪(否定/肯定)
  • 5・・・言論の善悪(言う/言わない)
  • 6・・・思想の善悪(正しい/間違い)
  • 7,8・・・精神の善悪(良心/悪心)
  • 9・・・魂の善悪(光/闇)

こんな風になっている。これが『善悪の分離』である。さて、ここに善悪はあるんだろうか。本当に、善悪はあるのだろうか——ってことである。

で、私は大分色々と善悪がなくなってきてしまっていて。色々な出会いのなかで、私は私と対立する存在たちと話したりもしているんだが、そのなかで善悪が崩壊した。

それは、私が第0チャクラと第8チャクラの課題に入っていたから——という感覚がしている。いわば、私は、2~6チャクラの分離が甚だしく終了しているということだ。

私は「やる・やらない」を自己決断しているし、感情に対しても「善悪」があった。否定と肯定も明確にあるし、言う、言わないとかも自己管理している。言ってはならないこともちゃんとあるし。正しい、間違いの審判も持っている。良心や悪心も明確に認識している。そして、私たちの存在のなかで『光と闇』も明確に認識している。

ただ、これは私のなかで『善悪の分離』をしているのであって、私たちの存在に対しての光と闇の分離とはシャドウを意味している。そして、ほかにも、色々な善悪が分離しているなかで、私のシャドウに出会ってきている。

この分離が終わってしまうと、偏った人間性になるわけなんだが、偏った人間性はもう一方の真逆の自分を呼び寄せる。この『真逆の自分』を私は迎合せねばならなかった。

その迎合するべき存在たちを、私は『肯定(善)』として捉え、受け入れていく姿勢を見せねばならない。

どんなに間違った思想を持っている人であったとしても「おまいは正しい」って言わねばならない。なんだこの苦行——と思いながら、やらねばならない。それも「心のまま、あなたを肯定する」ってこと。いわば、間違っていることは私が重々理解していること、そのうえで、あなたが受け入れられないのであれば、受け入れられないあなたごと丸ごと受け入れるよってことをやる。

ので、どんなに間違った思想を持っている人も、どんなに間違った発言をしている人も、どんなに存在がダークサイドな人でも、どんなに人格否定してくるような人であろうが、嫉妬や憎しみとか、恨みを私にぶつけてくるよな存在でやろうが。それが、現実的に何もやっていないだろう、同じ土俵に立つことがそもそも出来ていない人だと思っても。

私は受け入れなければならなかったな~とか思い出しながら。

いわば、私は、善悪の分離がチャクラごとに起きており、その分離を統合している状態なのである。

そして、最終的には『空』と『地』としているが、これもまた、善悪として捉えられている。私はこれがツインレイなのではないか——と踏んでいる。

どちらか一方が正しく、どちらか一方が間違えている。また、優劣が決まることは「精神が優位」「現実が劣位」なのか、逆然り、そのような状態に陥っているのか。

この勝敗がツインレイの最終的な体系を齎しているのではないか——と考えている。

ツインレイたちのなかで

  • 相手を支配する為の争いによって、最後に勝敗が決まったツインレイ
  • 自己主張を通すために争い、最後にお互いを認め合うことができるツインレイ

の2種に分類できるともいえる。そして「最後」とされるのが、私は「再会」を意味するのではないかと思う。

引用:エナンティオドロミアの法則を起こしまくっていた話と統合の概念について。

この勝敗が空が勝ったのか、地が勝ったのか——である。精神が勝ったのか、現実が勝ったのか。

さて、勝敗が決まり、空が支配したツインレイもいれば、地が支配したツインレイたちもいる。

しかし、私は本来あるべき、ツインレイの構造を支配だとは思わない。空もあれば、地もある。どちらも相容れぬ存在でありながら、また明確な境界を持っていながらも、共存をしている存在ではないか——と思う。

この勝敗において、この第2~第6までのチャクラによる結論を出していると思う。

  • 2・・・感情の善悪(感じる/感じない)・・・感じたモン勝ち
  • 3・・・個人の善悪(否定/肯定)・・・否定したモン勝ち
  • 5・・・言論の善悪(言う/言わない)・・・言ったモン勝ち
  • 6・・・思想の善悪(正しい/間違い)・・・指摘したモン勝ち

どんなカタチになったのかはわかりませぬが、たぶん、私が一度やっている去年の夏の出会いだと思われる。こんな感じの人だったわ。私と、善悪が真逆に成立している人。

ただ、善悪が分離しているとは、このようなこと。他者との衝突を起こし続けていく。その衝突により、相手が言っている意味がわからない状態になるのが分離状態。このときに生じる感覚は『不快』かな。

この分離しているものを迎合するのがテーマになってくるんだが、この分離感覚が明確に生じなければ、分離しているものを迎合することすら出来ない。

チャクラの統合が起こりえるとき、ふたたび新しいチャクラを使用することになる。

それが『7,8』と『0,1』となる。

第七と第一は、人体に付随しているチャクラであり、第八と第零は、人体に付随していないチャクラとして捉える。単純に、人外に存在しているチャクラからのエネルギー供給元と言うことだ。この供給元に繋がることができるのが、第七と第一チャクラ。

この供給元が、第八チャクラは『空』であり、第0チャクラが『地』となる。

空と地のチャクラがチャクラに接続されると、体内の善悪の分離が統合されることになる。

で、ツインレイとは『空』と『地』なのだと思われる。この分離が起きている。そして、ここに勝敗が決まるということは、善悪の勝敗が決まる——ということ。

でも、この世に善悪は存在しないから、勝敗が決まらないのが正解なのだと思われる。つまり『結論が出ない』これが正解。

私がずっと、ツインレイの再会できねえなってなっているんだが、そりゃそうなのである。そりゃ、ツインレイの再会は『決着がついたから出来る』わけであり、決着がでないのであれば、ツインレイの再会は在りえない。

ゆえに、私は決着がつかないがゆえに、チャクラの統合をし続けている。

そして、このチャクラの統合の最中に『誰かと繋がったまま』であることが許されない。いわば、私たちは『チャクラの象徴である善悪の対象』とは、共にあることができないゆえ、ツインレイのサイレント中に出会う人とは、ほとんど、その後の繋がりはないっていう状態になるのが正解なのかな? と思っている。

とはいえど、あんまり、個人的には気にせず、人とは関わっている。というか、この辺りを、コントロールしようにも「縁だけはどうしようもねえ・・・・・」っていう感覚がする。人とのつながりを断ちたいと思っても、それは私の意思だけではどうしようもない。どうしようもないものを管理しようとは、そろそろ何も思わなくなってきてしまっている。同じように、人とのつながりを作りたいと思っても、それは私の意思だけではどうしようもないし、管理できない。

で、この管理ができると思っている人たちは、善悪があると思われる。なぜならば、それが支配だから。

支配って言うのは、優劣が決まっているってことでもあるし、なんなら、最終的には『支配を迎合する』ことがツインレイとも言えるし、『従属を迎合する』こともツインレイと言える。

私たちは、この地球で『支配と従属』という関係性が存在し、この関係性を『空と地の分離』とする。いわば、私がツインレイの分離をした理由は、この支配と従属の関係性を破壊したからであり、また、相手の気質を自分のなかに認める必要性がある。

私は、支配力がない人なので、支配力を取り戻していくことが現実的な自由(0チャクラ)を取り戻していくことであり、従属力がない人は、相手に支配されることを受け入れていくことが精神的な自由(8チャクラ)を取り戻していくことである。

私たちは、こうやってリセットボタンを押していくのである。

つまり、支配と従属が現実で起きている(0チャクラの課題)。
支配と従属が精神で起きている(8チャクラの課題)。

この課題を終わらせることは、2~6までのチャクラによる自由を取り戻すことに繋がっているということ。また、1と7のチャクラが安定するようになる。

 

ツインレイは自由解放運動のように感じられるよ。

それは、フランス革命みたいな『自由を取り戻せ』みたいな感じ。

その心を縛ることは出来ないし、その身体さえも縛ることは出来ないとオスカルは考えたように、私たちも、今、フランス革命が起きているのかもしれない。

何かに縛られることなく生きていくことが出来るようになる。それを自由と呼ぶ。そのために私たちは身も心も自由になるため、善悪を終わらせていく必要性があるということ。

 

この過程を経ていくことで、私は『善悪がなくなった』わけだけれども、これもまた、少々間違いでもある。

自分のなかに善悪があることを受け入れること。審判してしまう自分を受け入れること。これが正しい状態とも言える。

少なからず、私たちには私たち自身の視点が存在している。というか、最終的にはアイデンティティがマイノリティ化するのだから、個人から見た視点というものが明確に樹立する。そのなかで、あなたと私の違いを理解することは自分をよく知るキッカケでもある。

だから、私とあなたの違いがどこかにあったとしても、それは『善悪(審判)』ではないし、それは『違うだけ』なんだよね。違うのは当たり前なんだけれど、違うことが受け入れられないと『善悪の審判』を下すことになる。

よくブログ書いてて突っかかれることが多かった理由が、この『善悪の審判』だったんじゃないかな? と思った。私とあなたが違うことが許せない。この許せないから、腹が立つ。私があなたと同じではないことに優劣を感じてしまい、自分が劣位だと認識した瞬間にプライドが高い人は、私を壊さずにはいられない。

善悪の審判と、違うだけの『違い』だが。

美味い・不味い

これも善悪の審判なんだ。これは主観だよね。第二チャクラの課題である。この第二チャクラの主観で「上手い」と「不味い」のうち、美味いが善で、不味いが悪であること。これが善悪の審判。

でも、やっぱり上手いものが食べたい私たちは、ここで『善』を選ぶ。私たちは、審判から逃れることは出来ないし、それを悪と言えるのか? いいや、私はうまいものが食べたいから、審判するぜ・・・・・・ってことだな。

だから、よくスピリチュアルでも『ジャッジメントは悪』と言いながら、ジャッジメンターを悪として定義していることこそが悪じゃないか? 差別はいけないと言って、差別者を差別するようなもんだな。

つまり、この世に悪はないんだよ、してはいけないことはない。そこに『優劣』があることこそが悪。

そこに優劣が生まれた瞬間、そこには『悪意』があり、それが空と地の違い。

空と地でいえば、地は絶対的に『下』であり、空は絶対的に『上』である。この優劣を、私たちはぶっ壊すことができるのか? それは自分のなかに存在している支配を認め、自分のなかに存在している従属意識を認めることである。

そのときの私たちは、優劣における善悪を抜けることができる。純粋な審判者となるのである。

 

精神の善悪・良心——悪心
現実の善悪・やる——やらない

私が元々持っているものは『良心』と『やらない』である。ツインレイは『悪心』と『やる』である。

この悪心とは何か——っていうと、迷妄とか、妄想とか。思い込みを意味している。相手のなかに悪意があるという想いかな。私のなかにそんなものを探しても、ないものはないのだが、探しちゃう人は大変だと思うよ。買っていないものが家の中にあると思って「ない! ない!」って探してる感じ。永遠の探し物をしなければならない。

だから「実行力」で、悪心を抑制するんだと思う。でも、それって、精神からの逃避だよなって思う。

ツインレイの思想もよく悪心を抑制する為に、何かをやらなきゃと思って相談を受けに行くよね。その結果、何も得られなかったっていう感じかな。つまり『不安による行動を起こす』ってこと。不安を払拭するために行動を起こし続ける。

そうじゃなくて、不安が何かを探して、不安を解消する必要性がある。

行動を起こしたいことに行動をし、行動したくないことはしなくていいんだよな。

ここが『精神と行動の連動』がマイナスの側面で結びついてしまうという問題が生じる。それが第9チャクラに繋がってくる。センターである。

 

私は前に『言葉、心、行動の一致により奇跡が起きる』ってことを書いたんだが、理論上、変わってくるなと思った。

精神——魂——行動の一致によって、奇跡が起きるのである。奇跡、起こしてみたいよね。

 

 

最終的に、この『空(第8チャクラ)』と『地(第0チャクラ)』の融合が起こりえるとき、優劣思想を終え、中心地に『霊(第9チャクラ)』が生じることになる。

この第9チャクラは『魂の自由』とした。

私たちの魂は未だに不自由だと思う。それは、私たちの肉体の中に縛られているとか、そういう話ではない。

私たちの魂は『何かの役割を担っている』という謎の縛りを与えられている。また、その縛りがある人たちもいる。

魂に『使命がある』『使命がない』という自己分離が起きている気がする。

使命があるのであれば、精神と行動による一致で使命が行われる。

使命がないのであれば、自分のやりたいことが魂から生まれ、精神と行動による一致で使命が起きる。

使命とは『命を如何に使うか』である。これをブループリントとも呼ぶのかもしれない。

この地球に何をしに来たのか。それを自分で決めていい。魂の望みをかなえていい。魂の望みをかなえるべく、私たちは精神と行動を魂に連動させ、奇跡を起こす。

しかし、魂の望みが何かを聞きださなければならないが、その聞きだしは『意識』『無意識』が連動した先でしかない。

精神の自由とは、意識と無意識の連動であり、第八チャクラは意識と無意識の一致。そして、第0チャクラは意識と無意識の連動により受け取っている魂に従うこと。

 

私がサイレントの始まりとき、起こした奇跡。

それは彼との離別である。

私は魂に従い、行動を起こしたのである。

どんなに一緒に居たくても「一緒に居たらいけない」って魂が言うから私は魂に従った。それが正解だと思ったから。

だから、私は「魂に従う状態」に自分の身体がセットされていっているんだとは思う。

 

だから『第八チャクラが精神的な支配』であり、『第0チャクラが現実的な従属』であり。第四チャクラは異次元に存在する魂なのである。(第四チャクラは『心』と言われているが、チャクラの統合後、第八チャクラへ役割を移動させる。)

魂の自由とは、魂のままに心を感じ、魂のままに行動することである。

これを『自己支配』と言える。

今までは思考により、自己支配している領域を、魂で自己支配をするって話でもあるのかなと思っている。

第6チャクラによる思考による善悪によって自己支配している状態を、善悪の統合を起こす。次に、無意識と意識の統合を起こし、最終的には、思考による支配を手放し、魂へと支配権を受け渡す。

そのとき、魂——精神——行動という構造が生まれる。