ツインレイの3次元から4次元へ魂を移行し、アップデートする意味の真相
魂の構造から、3次元から4次元へアップデートすると言われている意味の真相についてを書きます。
ツインレイは3次元から4次元意識へ移行する——という話があります。たしかありました。すみません、記憶がおぼろげなんですが、検索をする気にもなれません。
さて、これが一応、ツインレイには起きているということの説明をしますが、たぶん、多くの人が『思っているの違う』かと思いますので、その説明をしようかなと思います。
操作してきているのが私の知り合いでして、、甘んじて受け入れますが、正直、こういう操作で書くことがあまり善いことなのかもよくわかっていません。あと、あんまり操作しないでほしい。眠れなくなるのと、脳裏にずーっと浮かび続けてウザいからやめてほしい。
魂の次元話とツインレイの関係性
魂の自我意識についての構造は『自身のなかの分離意識』がどこに起きているのか——ということの真相にあります。
今回は『高次元の自我』と『低次元の自我』による分離が起きているケースについての説明と、このふたつになる大きな分離はツインレイのサイレント期間における第三の獣として現れることになる闇の刺客の話になってきます。
これは、低次元の3次元における自我が『黄泉に家出(その前に死亡していただく必要性もあるが。)』をし、それを迎えに行く高次元の私たちっていう構造を模すことになる現状です。
今まで黄泉は分離されると言われていますが、正しく言えば、私たちの精神領域に或る『黄泉の概念たる3次元』が分離されてしまっている意識状態が発生しまくっている状態。
自分自身のなかに存在している3次元意識が、そっくりそのまま黄泉という世界に家出したならば、私たちは迎えに行かなければならない。そして私たちの世界が3次元から存在していくことにより、私たちはもっと地に足をつけ、神が創造する物質的なこの世の世界の恩恵を受けることができるようになる。
私たちは『分離してしまった精神領域を統合しようとしている』んです。
つまり、二極化世界を食い止めたいと思っているってこと。
もっとも3次元を切り捨てるとは『感情や欲求を捨てること』です。一時的には捨ててみなければ、仲直りすることも出来ません。
私たちの知る神話ではイザナギとイザナミがケンカして彼女は黄泉に引きこもることとなりましたが、私たちの精神世界でも同じようなことが起きている。
私たちは今一度、自身の精神領域で同じようなことを再び行い、イザナミを迎えに行きたいと思っています。
冒頭に答えを書きますが、ナギナミ神話の体現と、最後にナギナミの仲直りに至るまでの経緯を精神領域で行う必要性があります。
ようやく私自身が、これを終えたので書いておこうと思います。
ちょっと長かったですね。爆
ブチぎれているナミを説得するには少々時間がかかりました。
自己統合のひとつではないでしょうか。
最近、地球でも国のなかで起きてしまっていた分離が統合を始めようとしています。多くの人が統合し始めたんじゃないでしょうか。
統合の前にひとつの大きな争いが起きるのはいつだって歴史のなかで学ぶことが出来ました。私たちの精神領域も同じです。
次元の最低限知識と魂の構造
最初にこの魂のアップデートについて必要な最低限の知識を説明しておきます。
世明けで散々読んできたら知っているよーっていう方はスキップでどうぞ。
この世の次元は、3次元~5次元により構成されています。
次元と概念表 概念 3次元 肉体 4次元 命・時間・精神 5次元 魂・縁・繋がり
3次元における『肉体』、4次元における『時間の概念』、5次元における『視えないものの概念』です。
私たちが認識しているのは4次元における時間の概念のうえに存在しているタイムラインです。
3次元では『生死』という概念がありません。そして『劣化』等概念もありません。
ゆえに、3次元における肉体というのは『生死の概念がない肉体』です。
その肉体が4次元で認識されたとき、ようやく人は『生きとし生ける肉体』となります。
つまり人が生きている次元は、常に『4次元』です。
この最低限の知識をもとに『なにをアップデートしていくのか』についてを説明していきます。
魂の次元による構造
魂には、それぞれ『次元的に別々になった自己』が存在しています。
低次の自我と私は読んでいますが、一番下の末っ子の次元の子は3次元の自我です。
そして、一番うえに存在している次元の自我は私が認識している限りは、7次元かと思います。(または8次元です)
この次元以上を、私たちは人間をしている以上は難しいのではないか——とは思っています。
ツインレイのみならず、魂の構造は常に
- 高次元の自我
- 低次元の自我
- 霊性(霊)
の三つが『魂の器』のなかに入っているということです。
では、それぞれの説明をしていこうと思います。
高次元の自我
高次元の自我とは、私たちのなかで『とっても優秀な自分』です。
いわば、超自我的な意識です。優秀ですので、自分自身のなかに存在している抑圧的な存在です。その存在は『優秀』ゆえに、自分のなかで理性のような扱いをしているときが多いかと思います。
5次元レベルの高次の自我ですと、多くの人が道徳的な判断をすることができるかと思います。
これは善い、これは悪い。というふたつのジャッジメントを自己流でつけていくことができます。
6次元レベル以上の高次の自我となってくると、多くの判断能力が上がります。そして、思想そのものも変わります。
ふたつの善い悪いだけではなく、博愛的な意識レベルが生まれ、自己犠牲的な世界線を選ぶようなこともあるのも高次の自我のレベルによって切り替わります。
高次の自我はレベルをドンドンあげていくことができます。この高次の自我レベルを私たちが『認識しているのか』『認識していないのか』というのは『霊性』により違います。
低次元の自我
低次元の自我とは3次元レベルの認識しかできない赤ちゃんです。私はこの子を『末っ子』と認識しています。
言っていることややっていることは基本的にハチャメチャです。
時間的概念もありません。ゆえに『ものはいつか壊れる』とか『人を傷つけたら痛い』とか。『やりすぎたら人は死ぬ』とか。そういう概念もありません。
低次の自我は、時間の概念がないので『劣化』『生死』『創造』や『過去の努力』『未来の構築』等をすることができません。
しかし、彼らの主張は「できる」ですし「わかっている」です。そして「すべてを見下している」というなんともいえない偉そうな立場にありますが、さすが末っ子といえる大物感があります。
とにかく『食べたい』し『欲しい』し『やってみたい』し、『自分は出来る』んです。
そして、失敗しても『自分は悪くない』んですね。
最悪だな~! と思うかもしれませんが、子供の頃ってこんな感じじゃありませんでした?
できたし、わかっているし、地球のすべてが自分で回っていると思っている赤ちゃんの自分が『低次の自我』にあたります。
私の低次の自我は「赤ちゃんだよ」と言います。
そして「ちゅよい」し、「しゅごい」し、「できる!」のだそうです。
霊(霊性)
霊っていう概念はいわば『霊性』です。
この魂のなかでの『管理者』にあたります。
私たちはこの『霊性』を育てています。
自分自身の管理内容が、3次元~5次元で成立している人もいますし、凄い人であれば、3次元~7次元で成立している人もいます。
そして、最低限の管理内容が3次元のみとなります。
魂の器とは
魂の器とは、魂そのものです。そして、魂の器のなかに『自我たち』と『霊性』を乗せている乗り物みたいなものでよいかと思います。
そして、魂を人間のなかに入れこむことにより『命』という概念が生まれます。
主体は『4次元』に存在しています。
3次元の自我によるアップデート
3次元の自我とは、幼い自我です。時間的概念を持たず、ワガママ放題の自我。
私たちは、この世界で生きていくのに、幼い自我を抑圧しながら生きていくことしか出来ません。
いわば『欲求まみれ』であって、やりたい放題にやってしまえば、この世の調和は乱れっぱなしです。
私たちは、人間として成長する過程で『道徳』などを学び、4次元へと意識を持つことになりますが、3次元に存在している自我はただひたすらガマンの連続と抑圧を受け続けます。
常に抑圧をされ続けるので、そのうち、家出をもくろみます。もっともそのタイミングは『ツインレイの相手にワガママはダメ!』と叱られた後とも言えるかもしれません。それがサイレント期間です。
サイレント期間に、3次元の自我は家出中です。
この低次元の自我に教えなければならないことは『時間』です。
時間の概念を持たない3次元の自我は、それまで『おにいちゃん』とか『おねえちゃん』という高次元の自我の話を聞くことが出来ませんでした。
ただひたすら『ガマンしなさい、いい子にしていなさい』とだけ言われ、自分の担当である『欲求』を活動させることが出来なくなります。
本当はどうしたかったの? という問いかけをしたとき、私たちがふとこぼれるような欲求をこぼすことがあります。
本当は仲良くしたかった、とか。本当は食べたかった、とか。本当はそんなつもりじゃなかった、とか。
3次元の自我は『できる!』と言いますが、出来ません。『やれる!』と言いますが、やれません。
もう既に、高次の自我の兄姉はわかっているんですね。ですから、抑圧することしか出来ずに、いわば、兄弟げんか状態になっているのが現状の人々の魂の自我構造です。
霊の役割
ここで『仲裁役の霊』が役に立ちます。
霊性(霊、以下、霊性)は考えています。いわば、思考をしている。そして、それぞれになにが必要なのかを考え、どうやって扱えば皆が仲良くなれるんだろうか? ってことを考えています。
この霊性とは、4次元と言うタイムラインに存在しています。私たちが『生きる』と言うことを担当しているんですね。
そして、その『生きる』を担当しているために『どう生きるか』を考えることをしているのが霊性です。
いわば、この世に生まれてようやく私たちは『霊性の活躍を知る』とも言えるのかもしれません。
3次元の自我へ、先ずは教えなければならないことがあります。
それは『やりたい放題にやることは違うよ』っていうことです。
出来ないことは、他の人にお願いをしようねということを3次元の自我へ教えなければなりません。
そして、3次元の自我には『時間的概念』がありません。ゆえに『やりすぎる』んですね。
ゆえに「やりすぎたら痛いんだ」ってことも教えなければなりません。
ただ、こうやって教えていくと、スネるんですね。スネていなくなります。
自分には価値がないと思い始め、彼らは活動をやめていきます。
欲求を持たなくなっていくことになる。感情を持たなくなっていく。
いわば、3次元の自我が存在しなければ、私たちは『生きる活力』を失いようなものです。
そんな3次元の自我を一度はすべて抑圧させ、その後再び、迎えに行くことをしなければなりません。
彼らは『自分は悪い子』だと思っている。
本来ならば、最初から仲良くすることが出来たらいいのですが、この世界ではそれがなかなか難しく霊性自体が発達しなければこの3次元の自我を管理しきることが出来ないです。
ゆえに、霊性が発達するのを待ってから、3次元の自我に取り掛かる。そんな経緯が存在しています。
ツインレイと低次の自我
ツインレイと出会う人たちのなかでも、低次の自我による問題がでてきます。
低次の自我は、ツインレイの相手に気づきます。しかし知性はありませんし、直感的な判断をすることが出来ます。
私たちがどうしてツインレイの相手に気づくことができるのか、それは『低次の自我のおかげ』なんですね。
魂のなかで一番最初に生まれている自我は低次の自我です。
次元は1次元から2次元、3次元へと生まれていきます。つまり、思考の少ない低次の自我は直感を司り、その直感をもとにツインレイの相手に気づきます。
そして、その低次の自我のふたりはいっしょにいたいという欲求を持っています。
つまり、ツインレイは『欲求』をもとにふたりが揃うことになります。
しかし、ツインレイたちは高次の自我が邪魔をするようになっています。いわば、思考や経験で低次の自我を否定するようになります。その否定によっていよいよ低次の自我が家出をして、ツインレイのふたりはサイレント期間へ進むことになります。
ツインレイが行わなければならないこと
ツインレイが行わなければならないのは、
- 低次の自我の受容
- 低次と高次の自我の仲裁
です。いわば、自身のなかから出ていった低次の自我はプンスカ怒っているので、それをなんとかなだめて戻ってきてもらわなければなりません。
さて。どこにいるのかといえば、闇の世界たる黄泉の世界に行ってしまっています。あそこは次元的な意味で3次元の世界なんでしょうね。黄泉の世界でお迎えをずーっとまっているのが低次の自我です。
お迎えに行くのは、もちろん自分自身です。しかし、そのとき、説得にかかるのはツインレイの相手です。ツインレイの相手が自分の中から低次の自我に語り掛けなければなりません。そうやって、低次の自我を取り戻していくことになります。
イザナミとイザナギの仲裁のようなものでしょうか。
それから、低次と高次の自我の仲裁は『自己』のなかで起こります。
いわば、低次の自我とは『自分』であり、高次の自我とは『ツインレイの相手』です。このふたりがケンカをしてしまっているんですね。自己のなかで仲直りができたならば、それで完了です。
高次と低次と平定
人は高次のほうが良い存在だ、と思っているかもしれません。
それは私たちが悪魔の世界にいるからなのかもしれません。
高ければ良く、低ければ悪いというわけでもありません。
3次元には3次元の特性があり、4次元には4次元の特性があります。もちろん、5次元以上にも。
それぞれの特性を私たちは受け入れていかねばならないのですが、どうしても私たちは悪魔の世界にいるからでしょうか『高い方が良い』と考えてしまい、低次の自我をないがしろにするメカニズムのなかに存在している。
ゆえに、霊性が理解しなければならないのは『3次元の自我の良さ』です。
だけど、ダメなことはダメなんだ、と教えなければならない。ただ怒ってばかりいても仕方ないんですよね。そして、低次の自我を無視すればいいっていうもんでもない。
大事なのは、そこにある自我があってこそ、自分たちが成立していることにも理解が必要です。
霊性は『高低』に対しての差別を生み出していますが、それは事実としても精神では『そこに差はない』ということを理解しなければなりません。そして、その差のなかに『差別』が必要なのだということです。
私たちは、差別をします。それは種類に対して差が存在していることが当たり前なんだという理解です。
あれはできるけど、これはできない。この分別をつけていなければならないということです。
私たちは差別したらいけないと言いますが、私たちは差別をしなければならないんです。こと精神領域で差別をし、その差を補い合うような精神性を考えなければならないのが『霊性』です。
3次元の自我はアップデートされているのか
さて、このとき、3次元の自我は4次元へアップデートされているのか——ですが。
わからないことはわからないのが3次元の自我でしょうね。
残念ながら、魂の器に3次元として戻ってきてくれたとしても、3次元的な存在であることは変わりありません。
時間の概念はないままです。
だけど『忙しそうなときは邪魔しちゃいけない』とか、自分ばかりを構ってほしいと言う欲求はなくなります。
というのも、自分はちゃんと愛されているんだ、っていう理解をするようになります。
自分はちゃんと愛されている。その理解が出来た3次元の自我は静かになります。
いわば、私たちは自己愛を『次元別にちゃんとしてきたのか?』ということです。
多くのツインレイの方々が、禁欲的になり、欲求の制限をしてきたのではないかと思います。
これを機に、自分の欲求や抑圧され続けてきた感情と向き合い、低次元の自我が泣いていることに気づかなければならないのだと思います。
闇側の担当区は低次の自我
闇側の担当は、低次の自我にあります。
いわば3次元の自我ですが、自分の思い通りにしようとし、自分の思い通りにならないことが「悪いこと」という概念を持ち、また、時間的概念がないので破壊的です。(破壊したら壊れると言う概念がないため)
高次の自我である光側の担当は創造的であるため、この高次と低次の自我による分離を起こしているツインレイ(もっとも、この分離をツインレイは起こしているからツインレイなのである)の出会いは最悪的なものでもあるかと思います。
闇側は高次の自我を許せないでいる低次の自我です。
光側は低次の自我を許せないでいる高次の自我です。
どちらも必要であることを理解するのがツインレイのサイレント期間でもあります。
お役目まとめ
これにて、低次の自我と高次の自我による仲裁たるイザナミとイザナギの夫婦仲はなんとか円満となりました。
私自身が常に体現し続けていたのが、ナギナミの神話です。
前回の体現では、ナミが去っていった——ってところで終わりました。神話の体現ですね。
今回は、ナミとナギが仲直りしたってところまで持ち込めてよかったです。こちらは神話のアップデートです。
失敗したら、再び仕切りなおしてもっかいなんです。それを2回繰り返し、ようやく2回目で成功です。
多分ではありますが、神話の体現→神話のアップデートの経緯が必要なんだと思います。
これから、ツインレイの再会を待ち望んでいる方々による出会いは頻回になるかと思います。
たぶん、高次の自我と低次の自我の分離を起こしている人たちも、迎えに生きやすくなります。
理由は『統合していたやつが誰もいない』っていう前例がなかったんですね。それを先ず、ひとつ前例を作ることで次からは、その事例に添って統合をすることができる。
いわば、集合無意識の書き替えを行っている感じです。
アップデートです。私がしているのは『ツインレイたちが再会するために必要な道の開拓』です。
今までの路線は『ツインフレーム』ですね。
そして、そのツインフレームによる統合は『分離した意識のまま再会すること』だから、それはやっぱりしんどいことだと思います。
ツインレイは、特に。みんな不幸そうな感じがしている。
自身の欲求を抑制すること、自身の本心に蓋をすること。
でも、どうしようもなかったと思います。理由は低次の自我を分離しきれているわけでもないし、抑圧しきれているわけでもないから、ナギナミの体現がそもそも出来ないっていう宙ぶらりん状態になっちゃうんですね。
私は『試練』だとか『学び』だとか。そういう言葉が嫌いです。
私はこの世で修行僧のような人生を送っていると言われるほどに、自身の欲求を捨て去り、自己分離甚だしく起こすほどの生き方をしてきたました。
ですが、私はそういう自分が好きだったからそうやって生きてきたけど、だからといって試練をしなければならないっていうことはないと思っています。
聞きたいです。
どうして幸せになることが悪いことなんでしょうか。
神は人を愛している。だけど、その恩恵の意味を知らないから私たちはマ反対へ進んでしまうっていう悪の道が存在している。
幸せになることは悪いことではありません。
その幸せを手に取るために必要なことは何か? それはやっぱり『現実に目を向けること』なんだと思います。
私自身がどうしてか、全部をコンプリートする道を進んでいますが、みんが私と同じ道を進む必要性はありません。
つまりね、ステージが七段階あるとか言っているけど、それだって無視したっていいんだと思います。
というか、私はそれをぶち壊しに来たといっても過言ではない。
だから一回、その経緯をやらなきゃいけなかった。んで、綻びの修正をしていかなければならない。
どうして最初からツインレイは幸せになれないのか。
それは試練があるから、とか、ぬかしやがって! とか思いませんか。
私はだから人間はきらいなんですよ、試練だとかいって自分の状況を甘んじて受け入れて尚、辛い方へ進むことを受け入れようとする。
いいんだよ。幸せなほうに進んでいいんだよって私は言いたいんです。
ちなみに私は『学びが』と言った時点で鼻で笑いますよ。偏ったキリスト信者が日本には多すぎる。自覚がないからまさにこれが怖いことだと思っている。
最後に私が思ったこと。
『幻想だ』、その事実に気づいている奴がほとんどいないってことを次に書きたい。