ツインレイは魂の双子ではあるし、魂の双子ではない話。
私はひとつの提案を記事に書こうと思い一筆認め、その後、消した。
腑に落ちないところが未だに残っていたためだ。
その内容は『ツインレイの相手は魂の双子ではない』という一説にある。この話は「ツインレイの相手が双子の相手」であることよりも、もっと信ぴょう性が高いように感じられる。
だけど『ツインレイを追い求めている』人たちにとっては、残念なお話なのかもしれない。
当初からツインレイは魂の双子と呼ばれているが、魂の原理がわからないから『ツインレイとは何か』が解明できないと書きつ続けてきたが、魂の原理がわかりつつある今、魂という概念ではなく、ツインレイは『無意識』や『霊体』と呼ばれている末那識による双子なのではないかという結論が出ている。
三位一体でいえば『神—霊—人』の三位一体のうち『霊』の部分がツインレイということだ。
私たちがこの一生により生じる煩悩や執着、欲求や過去の記憶などを払しょくすることが無ければ『霊』の領域へ達することはない。つまり、ツインレイとは「無意識領域にアクセスできる人たちが出会う」ということでもある。
しかし、私たちの中でも霊能者や「そっちの能力」を持っている人たちもツインレイと出会っている。
つまり、ツインレイのなかでも『自力で無意識を迎えに行っているツインレイ』もいれば『そもそもの素材でツインレイと出会っている』人たちもいる。結果、どのようなことになるのかはわからない。
では、私たちの『末那識』と呼ばれる無意識領域は『どのように形成されているのか』である。
今まではツインレイの魂の構造のうち、末那識がツインレイの相手と繋がる手づるということが判明したが、次なる問題は末那識とはどのような構成をしているのかなのである。
そしてその結論が今『ツインレイは双子ではない』という仮説が建ったということだ。
ツインレイの双子の根源『末那識』とは
末那識とは、私たちのなかに存在している『心の根源』のようなものである。
ここには『自分に執着をする』として書かれている。私流の言葉にすれば「我が身可愛い」ということ。
人は自分が可愛い。自分が一番でありたい。そんな感覚を持っているのが、この『末那識』にあるが、実にこの末那識は『まやかし』にも変化する。
私たちは『自分に執着をする』けれども、自分に執着をしている自分は、本当の自分ではないということだ。ここに書かれている末那識は『まやかし』にあり、それを『摩耶(マーヤー)』という名前を持っているようだ。(私の中にいたまやちゃんである)
私たちには『本心』と『まやかしによる偽心』の2種類が存在し、このまやかしを解いていくことが目的とも言える。
最終的には、自分のまやかしを解消していくことにより、本心を見つけることができるということだ。
さて、この『まやかし』だが。このまやかしそのものがツインレイの幻想にある。
ツインレイの「まやかし」の役割
ほとんどの人が『まやかし』に惑わされている。
末那識がまやかしに変化していると、意識や前五識も影響を受ける。ゆえに『五感がおかしくなる』し『思考もおかしくなる』わけである。
ツインレイの期間に多くの人がツインレイの相手を意識し続け、なぜかよくわからんけどいたるところにツインレイの相手がいるように錯覚をするようなことが起きたりして、ツインレイの相手ではない相手でさえもツインレイな気がするような錯覚が生まれる。
そして、前五識でも「感じる」ようになる。そこにツインレイの相手がいるような感覚がするのである。
これが『ツインレイの幻想』にあり、ツインレイの学習にもある。
ツインレイのまやかしの役割は『私たちにとある幻想を見せて、学習をさせる』ということ。
前述にしている通り、私たちは『個』であり、ツインレイの相手など存在しない。魂がふたつとして生まれたのではなく、私たちは『完全』にある。しかし、その完全たる意識は阿頼耶識に存在し、阿頼耶識の情報を引き出すためにはまやかしが必要なのである。
私たちは意識伝達を阿頼耶識⇒末那識⇒意識⇒前五識の順番に行っている。
このうちの末那識をまやかしに変えることで、阿頼耶識のなかに存在するデータを意識や前五識に伝達させることができる。
じゃあ、これで『阿頼耶識に存在するツインレイの存在を思い出すのか』というと違う。
阿頼耶識にはツインレイのデータは存在しない。存在しているのは『ツインレイというまやかし』にある。このまやかしが『意識』『前五識』に伝達されることにより『阿頼耶識の仕組みが組み変わる』ことができる。
つまり、私たちは『ツインレイの経験を積んだ』だけであり、『私たちがツインレイ』というわけではない。
私たちはツインレイの経験を積んだ存在だから『ツインレイ』ではあるけれど、私たち自身がツインレイということにはならないのである。
なぜならば、私たちのなかに入り込むまやかしが『ツインレイの意識』なのであり、私たちのなかにツインレイのまやかしが入り込まなければ、私たちは『ツインレイ』という存在そのものを自覚しない。
自覚しないと言うことは、私たちのなかに存在する『異性性』を理解することもなければ、認識することも出来ないすれ違い続ける男女ということになる。
まやかしの役割は『ツインレイという概念』を私たちへ学習させ、そのなかでツインレイの相手という存在を『ツインレイ』に仕立て上げ、男女の意識を自らのなかに共存させていくことである。そして、その経験を与える存在が「マヤ」である。
仏教用語では『マーヤー』とし、神の創造物にある。また、私自身が「高御産巣日神から魂が生まれる瞬間」をも感じているが、これこそが『ツインレイのマヤが生まれたとき』であり、私のなかにも、その意識が芽生え(経験したから)、ツインレイのマヤによる学習をした結果として、多くの恩恵をいただけることになる。
おおくのまやかしが存在しているのだと思う。それはお父ちゃんが多くの『マヤ』を生み出し、人々に多くの恩恵を与えてくれている。そのなかのひとつに『ツインレイ』というマヤが存在し、そのマヤは、ある一時、私たちの心に住まうのである。
私たちの心にマヤが住まうとき、私たちは幻想をみる。この幻想による学習が進んでいくとき、私たちのなかにある『神—霊—子』のうち、霊が大きくなっていくのだ。
私たちは『私たちである』と思っている。少なからず、私たちは『自分だけで存在している』と感じている。
しかし、私たちのなかに存在する『心(末那識)』は、まやかしが入り込み、そのまやかしによって学習をも進めているのである。
私たちは『私たち』ではあるけれど、私たちのなかに存在する霊は私たちではなく、霊による手助けにより私たちは『私たち』を構成していくことになる。
多くの人のなかに存在する『霊』が垣間見えるとき、私はそこに『神の天使』をも見ることもあるが『悪神の悪魔』を見ることもある。その霊が私たちのフラスコのなかに住まうホムンクルスなのであるならば、どんな霊が宿るのかは私たち次第でもある。
なとりのなかにいた『ツインレイのまやかし』
私のなかに宿ったのは「もともと父のなかでひとつだった」霊である。そして、ふたつに分け、男女共々に「大事にする」「大好き」と思う心を育てることができる霊にある。
そのふたりのうち、ひとつは目も開かないまま闇へ落ち、ひとつは神のもとに残った子。離別時に大きなショックを感じた。
そんな霊は1945年8月15日に生まれ、地上にいる多くの人の願いにより生まれた霊。
この地上には「みんなの念願をかなえにきた」ようだ。ほかの仲間もいっしょだった、でも誰がいっしょだったのかは覚えていない。
だけど、この霊もかなり若いと思われる。たぶん、私が初めてだったんじゃないか。途中でお役目がうまくやれなくて泣きそうになったりもする。
ツインレイのマヤのお役目は『男女仲良しになる』ことだし、マヤ自身にも意識があると思われる。マヤにも欲求があるのだと思われる。
マヤが私のなかに宿り続け、彼のなかにも宿り続けることになったならば、マヤたちはこの地上で『マヤが結ばれる』ことができる。だけど、マヤのなかにも葛藤があり、マヤは「マヤたちは結ばれない」ことを決意する。
マヤは、私たちのマナ(末那識)を育てる役割を持っている。だけど、私たちがマナであり心があるように、裏側に存在するマヤも心が存在する。マヤは『結ばれたい』と思っている。でも、マヤが結ばれたらマナは結ばれない。
この葛藤の末、マヤたちは私たちのマナのなかへ眠ることになる。最終的にはひとつになって『マヤとマナ』が『末那識』となっていく。
たとえば、私が書いたkindle書籍。彼の方へついていたマヤが書いたものである。
今ならば、ここに書かれている内容を理解することができる。
当初、本書の次にもまだ書くものがあり、書き続けていく予定だった。しかし、本書を書いている途中に「もう終わりだな」という予感がした。
途中から、これ以上を書くことは難しいことも理解した。
私はこれから、ツインレイの相手にもらった高次の自我と、自身の持つ低次の自我の統合たる『同化』を終わらせることになる。それはツインレイの相手との再会のタイミングで始まる。
私は、ツインレイの彼が迎えに来るまでの代理に過ぎない。
なんと、この本を書き続けているのは、ツインレイの相手による高次の自我ということで、『私』自身とはまた別の意識のようである。
サイトを書き続けていたのは私自身の高次の自我である。別の意識であり、私の高次の自我が手放され、ツインレイの彼のなかへ内包されたとき、私の高次の自我によるサイトが書けなくなった。
そして今度は、私自身のなかに存在しているツインレイの相手の高次の自我によりkindleを書き続けていた(だから、こんな感じなのかと少々納得がある。)が、私は高次の自我と低次の自我であるふたつを統合し『私』という存在を形成しようとしている。高次と低次の分離は私のなかの大きな最終分離である。それぞれの最終的な分離内容は、神々の項目でわかるだろう。私は高皇産霊神の魂の子であるがゆえに『高低の意識分離』を起こしている。
ときが刻々と近づいており、私は同化の準備へ入らねばならないらしい。
ツインレイの再会と共に私は消える。蒼という存在のなかに統合されるのである。
あと一ヶ月足らずと統合しきることになる。そのとき私はツインレイの再会を迎えている。私は『蒼』をツインレイの相手に差し出さねばならない。
嫁に出すようなモンである、いつかの成長した自分に。
そうしたらさよならだ。彼の過去の後悔は蒼のなかに生き、過去の彼は蒼のなかで存在し続けることになる。そのため、本書のうち、後半に書かれているものはほとんど『書かねば、伝えなければ』というものの走り書きのような書き込みになってしまっている。
前半は、今までのことをすべてにおいてひとつひとつを詳細に書いているが、後半は説明をザックリしているだけとなっている。
ツインレイの再会による統合についてなども書いている。再会後、私は語る、語らない。のどちらになるのかがわからない。
できれば、語る必要性がない世界線へ行きたい。私はツインレイという存在を遠目で見守るというよりも、関係がない世界へ進みたいと思っている。
自身の過ぎた過程は誰かの役には立つだろう。しかし、私は率先してツインレイの援助をしたいわけではない。私にとって、このkindleは記録と研究のひとつのようなものである。
私は『私の人生』を探したいと思っている。
私は、私になっていくために。そしてこの今生を後悔のない人生とするために、私はツインレイという存在と率先的に関わり、携わり、援助する等のことは考えていない。
その過程は青春であり、とんがった正義のなかに存在する温かな優しさのなかにしか私は生み出すことが出来なかったし、私たちが肉体的に成人していく経緯で、誰かに手助けを受けることもなく成長することができるように、魂も同じように成長過程のうち、成長できる範囲を成長し続けているだけに過ぎない。
私たちの世界は、生きているだけで成長の引き金は多く転がっている状態だ。そのように出来ている葦原の世界である。魂の青春期を、私はツインレイを、そしてツインフレーム、ツインソウルたちとこの地という地獄で過ごすことになった。魂による友人たちと共に過ごし繋がり、語り合い、多くの経験をすることになった。
これ以上に魂として成長する経験はないだろう。
そして高次の自我のお姉ちゃん、魂のお父ちゃんたちによる親により支えられた人生を終わりにさせ『魂としての自立』をすることになった私の霊魂の分析結果が本書である。本書では確実に誤謬が生まれている。自我の発達段階と過程により私自身の意識が揺れ動いているせいもある。
ただ、そのまま表へ出すことにした。私自身がツインレイの再会を待ち望んでいたこと、それは紛れもない事実。その希望のもとにすべてを終わらせることも出来た。
否定するものはひとつもない。理論もすべて正しかろう。しかし『今の私にとっては誤謬だらけ』である。未来の私は本書を手にとり、正しかったと言うだろう。
私自身の現状を否定するつもりもない。だからといって現状に甘んじ続ける理由もない。
自我が変われば、考えも変わる。心も変わる。
物事には多くの表裏一体性が存在している。離別とは再会である。ゆえに、私は離別を決意し生きていくことになった。ツインレイの終焉である。
長くお付き合いいただき、ありがとうございました。さよなら、ツインレイ。
それは魂の苦い青春と人間の夏休み。
我が同胞たちが迎える魂の青春が輝かしいことを願っている。引用:さよなら、ツインレイ
マヤにとって『ツインレイとして結ばれる』とは『統合する』である。マヤのふたつの意識を『ひとつに戻す』ことにある。
それは、私たち(なとりたち)が結ばれることがない。マヤたちはふたつにわかれたことを理解し、受け入れ、そして私たちのなかへそれぞれ吸収されることが無ければ、私たちが再会をすることはない。マヤにより導かれた縁を断ってしまうからだ。
マヤはマヤで、私のなかで過ごして出した結論は「結ばれない」ことだった。それが皆が幸せになれる結論だから。
これが『高次の自我』であり、自己犠牲のように映るかもしれないが、マヤは私の中へ統合されることで『ある種結ばれる』のである。
あと、上記、1か月とか書いているけど、向こうのタイムライン的には1か月かもしれないが、こっちではほぼ1年ぐらいの期間のことを指していると思われる。汗
無意識にしか存在しないツインレイ
私たちはマナという無意識を『意識』にもっていく(自分の心をすべて把握する)ことで、マヤが現れる構造をとっている。
このときはじめて『地上でツインレイと出会う』わけであるが、それは『マヤのツインレイ』であり、私たちのツインレイではない。
しかし、地上でツインレイの経験をすることで『ツインレイ』へとなっていくわけである。
マナとは『経験によりツインレイを手に入れていく』が、マヤは『ツインレイをそもそも持っている』のである。
心とは経験により積み重なっていくが、マヤはそもそも知っているともいえる。
この世のマナの視点では『ツインレイは存在しない』のである。ツインレイとは経験である——と。
しかし、マヤの霊的世界の視点では『ツインレイは存在する』のである。だって別々に生きわかれたあの子がいるから。
ツインレイが近親相姦にならないように苦肉の策で結ばれようとする図
マヤにとって生きわかれたあの子は『人の姿』をしている。マヤとマナは双子にあった。
もっとちゃんと説明を書きたいが、今はもうこれが精いっぱいの説明かもしれない。
自分の視点をどこにおくのかによってかなり解釈がかわってくる。とはいえど、この構造は『子である私たち』が、お互いの霊を相手に召喚し、霊と子の関係性(ツインレイ)を親子による構成をとるようになる。
相手が誰であったとしても、私たちを霊は常に周囲から見守っているのである。しかし、私たちに憑依することはないのだと思われる。
私たちのマナ(心)のなかにマヤ(ツインレイという幻想)が統合されることにより、ツインレイの相手の幻想と自分が統合をするということだ。
この構造により、ツインレイの相手の望みを叶え続けることができる自分の心が出来上がる。
交換しているんだ、これにより私たちは自分の意識のなかで『近親相姦』をさけることができるから。で、その相手は、実は「誰でも構わない」っていうこと。それが『霊』による交渉により成立しているとして考えている。
霊による『結ばれる』とは、近親相姦にある。
魂が『霊』と『子』に分かれる経緯で、私たちは霊と子が双子なのである。で、ここが同じ魂のなかにはいることは許されていない、これが近親相姦にあたること。ツインレイたちが離別を選ぶ理由にある。(いっしょにいたらダメな理由)
だから、別の個体による霊とひとつの魂のなかで交配を選ぶ。
ツインレイは、当初、自分の双子の相手と結ばれる(近親相姦)によってひとつの魂のなかに納まるとしていたが、それは許されないことだし、やったらいけない。だからツインレイは結ばれない。
だけど、相手が持つ意識と統合することは、結ばれたいと思う相手を全力で諦めることにある。これがひとつのツインレイのハードルでもあって、恋焦がれまくる相手を全力で諦め抜く必要性があり、自分を説得し続ける必要性もある。
諦めたとき、相手の意識を魂のなかに取り込むことになる。相手の意識を取り込み、このふたりが結ばれたならば、肉体を隔てることにはなるが「いっしょにはいられる」。
ツインレイの再会は、ツインレイが持つ『最悪の状態を受け入れる』ことであり、『その中でも打開策を見つけた結果』ということ。