なぜ『ツインレイである肩書き』を捨てていかなければならないのか。

| Ⓒ なとり

sponsor link

ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

kindleの読み放題Kindle Unlimited30日間の無料体験』では、ほかの三冊も同時に読み放題


私も度々『ツインレイの幻想を抜けてきた』等のことがあり、ツインレイである自分を捨てていく瞬間が何度も訪れた。

この何度も同じ内容を手放しが訪れる理由ですが、私たちにはいくつもの層のエネルギー体により構成されているため、感情体での問題が克服されて手放されたーってなっても、ほかの層になる思考体は終わってないので、もう一度手放す機会がやってきまーすってなります。

ので、何度も同じことを違う角度で手放していく経緯があります。(それぞれ手放す内容は違うのだが本質は同じものを手放しているから何度もおなじ現象が起きているような感覚がする)

 

さて、どうしてツインレイの肩書きを語っていることがダメなのか――。

その理由ですが『関係性』に名称を持たせることは言い訳に繋がる可能性があるからです。

そして、関係性への依存が認められるからです。

たとえば「友達だろ?」と言ってカツアゲをするようなものかと思います。

相手と自分の関係性を〇〇だから何をしてもいいわけではありません。この何をしてもいいという言い訳に『ツインレイ』があります。

ツインレイはひとりでは成立しません。ここにミソがある。

ツインレイは相手がいないのに成立することはありません。相手ありきの『関係性』を指しています。

ツインレイは魂の双子である。鏡という関係である。運命の相手である。

ツインレイのふたりは双子である、真逆の関係である、運命の関係である。

ここに『縁の意味』がうまれます。

縁の意味を私たちは意味付けしていくことが『ツインレイ』です。

縁=ツインレイ

ってことですね。

でも大元にたどれば、縁がある人だったってだけです。

ですが、私たちは関係性へ意味付けさせ、そこに縛られていくことになります。

関係性へ縛られるとは、そのような関係性へとなっていく。自ら――ということ。

鏡の関係性では当初なかったとしても、ツインレイである――と定義した時、私たちは自ずと鏡になろうとするってところでしょうか。

ふたりの関係性が本当に純粋なものへと戻るとき、私たちは一本の糸で繋がっているだけ。

ですが、そこへ多くの複雑な意味付けをすればするだけ、縁がぐちゃぐちゃとこじれ、純粋なもの以外にも、複雑化した関係性へともなりえません。

私たちがツインレイという関係性に幕を閉じるには、ふたりが本当の縁に戻るためでもあります。

 

『ツインレイと出会っています』とは言えますが、『自分はツインレイです』と言葉にすることは出来ないってことだとも思います。

逆算すれば、誰がツインレイなのか明確にわかっていない(固有名詞がない)場合は、ツインレイと出会えていないとも言えますね。

ゆえに『自分はツインレイです』という言い方は、自分自身そのものが関係性に依存し、一体化しているとも言えるのではないか――と考えられますね。(人ってヒョンなところで嘘つけないのですよ、本質はちょっとしたところでダダ漏れます)

ですので、私も自分がツインレイです(`‐ω‐´)✨って書いてある部分は、ツインレイである関係性に依存している部分があるんだなって考えます。

関係性に依存しているとは「ツインレイであることへのこだわり」などでもいいですが、ツインレイに対しての依存心があると言えるのはないでしょうか。

関係性への依存がツインレイへの依存です。

関係性とは「繋いでいるもの」ですが「一体化しているふたり」として捉えられている時、依存になります。

 

ツインレイを拭い去れるようになっていくと、関係性はすべて「縁がある」という一本の糸があることだけに気づいていきます。

そこに意味など持たせることがなくても、その出会いが素晴らしいものであったことは自分だけがよく知っていればいいものだと思います。

その縁を壊してしまったショックで私たちは「ツインレイ」を追いかけますが「依存的関係性」を追いかけている時点ではツインレイを追いかけます。

しかし、「自立的関係性」をあるときから追いかけるとき、私たちはツインレイではなく、自分を追いかけ始めます。

私たちはツインレイに投影した自分を追いかけることをやめ、最後は『自分』に気づいていきます。

人のなかに認められるものは自分のなかに認められます。ツインレイたちはツインレイのなかに自分を見つけ、依存から自立へと向かっていくのです。

自立しているとき、ツインレイのなかに見つけたものすべてが自分の中に内包され、自分のみとなっていきます。

そして「ツインレイでなくてもいい」と思えるようになっていきます。

なんなら「ツインレイではなかった」と思うこともあるかもしれません。

何はともあれ、ツインレイである必要性がなくなっていきます。

私たちはツインレイでありたかったのです。それは関係性への依存です。

私たちはツインレイの縁を純粋なただ一本の赤い糸へ戻していくだけでいいのです。

 

この縁に意味などありません。

ツインレイであることに意味は無いということです。

しかし、そこに意味があるとき、私たちは必ず自己投影を行っている。

その投影を終わらせていくことで、私たちは関係性への依存を終わらせていきます。

最後の最後には「ツインレイの魔法」のようなものが解け、自分らしい姿となっている自分へと戻っていくことが出来ます。

ツインレイという関係性への依存は、自分らしい姿となるために必要なスパンです。

自分が今、どのように感じているのかを明確に理解する必要性があります。

自分は今「自分はツインレイです」と言葉にしたならば、まだ自分らしくなれていない部分があるんだなと知るよい機会だと思います。

 

誰かに依存せずとも自分を樹立させていくことは出来ます。

誰かが存在しなくても、あなたはあなたになることが出来ます。

ツインレイがいなくても大丈夫です。

あなたらしいあなたとは、決して「ツインレイ」ではありません。それは関係性を意味するからです。

自己を確立しましょう。

あなたは誰ですか、どんな人ですか。それは自分で決めていいんです。

自分で決めた自分になっていきましょう。

家族や他人に決められたアイデンティティではなく、自分で決めた自分になっていくことが自分らしい自分です。

そのとき、ツインレイは不必要です。

ツインレイの相手も「あなたらしいあなた」となって、きっとあなたと再会します。

そのために、与えられたものではなく、自分で自分に何を与えるのかを考えましょう。

 

とりあえず、私はプロフィールに『ツインレイです』って書いとこって思いました。

敢えてここで、『ツインレイ』の肩書きを背負うことが矛盾して面白いので≡⊂( ^-^)⊃