なぜ、私たちはさびしいのか。

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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さびしいっていう感情は、ここにいて欲しい誰かがここにいないからこそさびしいのである。

さびしさを埋めてくれるだろう当人しか埋めることができない穴のようなものである。

穴をあけた当人にしか埋めることはできない。

ツインレイと出会う前に私は、さびしくて泣いた。込み上げてくるさびしさだった。

そして、全ての人のさびしさを埋めてあげることが出来ないけれど、たったひとりだけのさびしさを埋めてあげることだけはできる。そのように思った。

だから当時の私は『さびしさを埋められるたった一人』を探しにでかけたのである。

さびしさとはひとりで成立するものではない。二人により成立するものである。

その誰か――は必ず固有名詞を持ち、そのさびしさを埋めることが出来る存在も固有名詞を持つと思われる。

つまり、さびしい人の周りには、さびしさへ拒絶的な人がいるとも言える。

さびしさや感情により行動をし続けるのもどうかと思うものだが、そこに存在している感情を見ないようにすることは、誰かがそこにいることを無視しているも同然なのだと思う。

他者により生じる感情のなかで正当性があるものが『さびしい』なのだと思う。

さびしさを受け入れている、認識している人は、多くの人を迎合するような気がする。

しかし、さびしさを拒絶している人は、多くの人を拒絶する。

ツインレイにも言えることで、片方はさびしさを受け入れているが、片方はさびしさを受け入れていないのだと思われる。

これがツインレイのサイレント期間とも言えるんだろう。

 

人はひとりでは成立することができない。

自分の存在は他者に認識され、ようやく自分は存在する。

しかし、さびしい感情を拒絶している時、私たちは遠く離れた海の向こう側にいるのではないかと思う。認識されない。

そのときの私たちは『たったひとり』を経験する。さびしさもなにもない世界だと思う。

存在もしないし、認識もされない。

さびしさの拒絶とは、人類への拒絶とも言えるんじゃないか。

人と人とが結びつくとき、さびしい感情がなくなる。だから結びつく。

 

さびしいのは、もう既にあなたが私の心に済んでいるからである。

さびしいという気持ちは、自分の心に誰かが棲まい、その誰かを求めている気持ちに他ならない。

それが誰なのかを私たちは知っている。

しかし、さびしい気持ちを拒絶し続けている限り、私たちはさびしさをぬぐい去ることも、自分の心にだれが棲んでいるのかさえ気づくことは出来ない。

あなたが心の中にいる。

ぽっかりと穴を開けた張本人がいる。

その穴に気づかない努力をし続けていたとしても、ずっと心には穴が空いている。

どんなに行動し続けても、穴はそこに空き続ける。

これをさびしいと言う。

 

さびしいとは、あなたがここにいないこと。

そして、あなたが心に棲んでいる証拠でもある。

心にだれが棲んでいるのかは、さびしさを受け取ったあとにわかることなのかもしれない。

 

誰かがいないことに、あなたは気づいていますか。

あなたの心の穴を埋めてくれる人は誰ですか。

あなたはさびしいですか。

さびしいことに気づいた人から、おかえりください。あるべき人のもとへ。

帰る場所があるはずです。

きっと帰りを待っている人がいる。