報告|最後に残ったもの——愛していたという経験(相思相愛の経験)
自分自身のなかに残ったもの。それは「愛していた」という経験でした。ほかには何も残らなかった。
これまで、自分の記憶や人格など、いくつかばらばらになっていたものがひとつずつ統合されていくと、何かしら、その人格や経験が背負っていたものが蘇ってきます。
統合していくと、浄化しないといけないものや感じていかないといけないものも出てきます。
今回は『大人の自分』が取り戻され、それは私の両親を私が体現し、子を彼として見立てたときの人格や記憶、そして経験が戻ってくる。
大きな感情はない。だけれど、ジリジリと胸が痛む。
大人の私は「彼を愛していた」という経験だけが残っていました。というか、それだけが今、残っている。
何かをした、とか。何かできたとか。そういうわけじゃない。
ただ「彼を愛していた」という気持ちで、それは、私が我が子を愛する気持ちと同じこと。
残っていたものは「なにかの功績」とかでもないし、何か自分にメリットが起きたとかでもないし。何なら私の元には彼はいないし。
ただ、残っているものは愛した経験。愛していたんだよっていう気持ちだけ。
これは、私の両親が私に向けて「愛していた」という気持ちなんだろうなと思いました。
ようやくここで、愛されていたんだなと理解しました。
愛されていた——という実感を持つことがなかなか難しかった。正直、受け取ることができないものも多かったけれど、それでも愛されていたんだな、ということを、ようやく理解したというか。
愛されていたとは少なからず思えないような結果となった私でした。
でも、親は親なりに愛していたというか。それを理解した。それが通じないのが因縁みたいなものだなと思う。
そして、愛し方を間違えてもいたと思う。でも、それ以外にやり方を知らなかったんだなとも理解した。
それでも、自分なりに愛していた。それが相手に通じなくても、自分なりには相手を愛していたことだけは事実なんだろうなって。
愛した経験が出来て、ようやく愛されていたことを理解する。
子供の親になって、ようやく親の苦労を知るようなものかなと思う。
愛していたし、愛されていた。それが本当の意味で分かるのは、子育てをした後なんだなァと。
おかしいなと思うのは。
私には子供もいないのに、親を一度経験していること。もう彼を通して子育てを終わらせたような存在になっているってこと。
もう年齢が五十ぐらいになっててもおかしくないのだなと思った。まだ、三十代半ばなのに、、子育て終わっている感覚になっている。
あと、彼のことも同じ。
彼も、おなじように私のことを愛してくれていたと思う。
でも、わからないっていうか。通じないっていうか。愛の形がそもそも違うから、わからないんだとは思う。
因縁も関わっていたんだろうなと思うし。
本来ならば通じることも、因縁が関わるだけで通じなくなってわからなくなることがあるんだなァと理解。
つまりね。
愛していたという経験がなければ、愛されていたという経験も理解ができない。
同じように、愛されていたという経験がなければ、愛していたという経験も理解ができない。
愛し合っていたことに理解が出来るのは、随分とあとになる。
愛していたし、愛されていた。だのに、愛し合えていることに気づけないのは、私たちがもうひとつの一方通行性を理解できていないから。認識が出来ていないからだったんだなと思った。
信じるしかない世界観がそこにある。幻想の愛。
信じているってだけで、別に実感がない愛だった。でも、愛を信じ切ることで、真逆の世界観を知ることができるんだなって思った。
幻想のなかに抱かれていたのかなと思っていたけれど、それもまたひとつの真実であり、幻想が本当に真実だったんだなっていう状態かな、今。
幻想=真実
愛されていたのは自分の思い込みだったんだなって思ってた。信じていただけ。
本当に愛されていたんだなって理解。
ただ、わからないから信じるしかなかったけれど、本当に信じた通りの世界がそこにあった。
愛していた経験を受け取れたなら、愛されていたことも受け取れた。
ようやく今ここ。
すれ違ってしまうこともあるけれど、すれ違っているなかでも、そこには愛があるものだなと思ったよ。
愛があったとしても、すれ違ってしまう。それが私たちの因縁なんだと思う。
愛してくれてありがとう(^▽^)/
私に、愛する経験を与えてくれてありがとう。