報告|ツインレイは普通の男の子である証明をした件について(恋の証明)

2024年8月23日

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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私はずっとなぜか哲学をしていました。

どうしてか、ずっと定義をし続けてきました。頭のなかで数式を組み立てるかのように、私は「ツインレイの証明」に明け暮れていた。

最終的に、私は、ツインレイは普通のそこらへんにいるような男の子だ——という証明を人生をかけて行うことが出来ました。

なぜか『人生で証明した』んです。

 

多くの人にとって、この方程式が最終的にどのような公式になるのかは別かなと思います。

私の場合、

ツインレイの彼(世界の中心)-ツインレイ(特別)=彼(自明性・普通・一般的・当たり前・現実性)

という方程式が成立しました。

私は彼と言う存在から『ツインレイという特別』を引き算したところ、私のなかで『自明性』が根付きました。

私は「彼が普通だから大好きだった」のだと思います。そこに愛おしさを感じました。その彼を「抱きたい」と切に願ったのが私です。

彼を内包した私は、私の中にある世界の指針となりました。これが当たり前で、彼が普通だからです。

私にとって彼は世界の中心でした。その世界の中心とは、彼という「当たり前」として私のなかに根付きました。

世界の中心とは、世界の指針です。私の世界の中心は、最終的には世界の指針となりました。彼のことです。

 

これをなんと言葉にすればいいのかがわかりません。

私はこよなく『普通』を愛した人なのだと思います。これ以上に幸福なことはありません。

私は『特別な人』を愛したわけではありません。

私は、ごく普通の男の子を特別に感じていました。私にとってそれが大きな幸福でした。

 

特別な人や、何か持っている人を好きになることは簡単かもしれません。

そして、私がツインレイだと思った彼も、特別な部分を持っている人——とも視える角度があると思います。

だけれど、私が好きだったのは、特別な部分ではありません。

お金や社会的地位や、何かしらの特殊な力や、何かを持っているというわけではありません。

ただ「普通でよかった」んです。

どこにでもいるような普通の男の子でした。そんな普通の男の子だったから、私は彼が好きだったんだと思います。

そういう普通の部分を私は好きになった。

私が彼を好きになったことは当たり前でした。私の中にある当たり前が彼だからです。

 

私は何をしているんだろうな? と思っていました。

なんでこんなに証明文を書き続けているんだろうと思っていました。そして哲学をしまくっている、理論を立てている。なぜ?

その理由は、ただ「彼を証明したかった」んだと思います。

それは「普通を証明したかった」ようにも思います。

私は普通を愛していたのだと、その証明をし続けていました。

どこにでもいるような特別ではない男の子を特別だと感じた、この特別の意味を私は証明したかったのです。

これを『恋』と呼ぶと思います。

私は、恋の証明をしたかったみたいです。

あなたが普通の男の子だからこそ、私はあなたへ恋に落ちたのだと、そのことを知ってほしかったのかもしれない。

そのままの、なにかひとつ特別なんてなくていい。なにか特別なものを持っていなくても、普通の男の子である彼が好きだったのだ——と、証明がしたかったのだと思います。

 

これは私が持つひとつの恋のカタチで。

私が持つ、こよなく愛した『普通の定義』でもあるし『恋の定義』でもある。

私は、このブログでずっと「特別ではない普通」を定義しようと、繰り返していたのだと思います。

自分の人生で「特別ではない普通」を導き出そうと、繰り返していました。探していました。

私は証明したかった。私の恋がここにあったことを証明したかった。

そして、取り戻したかった。

特別ではない彼を取り戻したかった。

それは誰でもない普通の男の子だったと、私は言いたい。

私が好きになったのは、どこにでもいるような普通の男の子だったと、そんな男の子を私は好きになったんだって言いたい。

普通な男の子が特別だったんだって言いたい。それが恋だと声を大きくして言いたい。

 

「なとちゃの王子様は、金髪碧眼でフィンランドの領土も持ってない、とっても可愛い黒髪黒目の何にも持っていない男の子だった。」

大好きって意味だった。

それは現実でした。恋は強いリアリズムでした。

私は等身大の彼のことが大好きだったんだと思います。

 

でも、それもそろそろ終わりなのでしょう。

過去に好きだったことはわかりますが、今は何もわかりません。

彼は今ここにいません。これにて恋の証明は終わりです。

彼は今ここにはいませんが、個人的には証明も出来たし満足しています。

 

バカバカしいなとは思います。なんでこんなにも夢中に証明していたんだろうって思うと、それが「恋」なんだと思います。

そして、どうして私が愛していたのかの理由も「恋をしていたから」であり「好きだったから」なんだと思います。

私は私の中にあった恋心を認めたかったんだと思います。しかし、出来ませんでした。

それは「ツインレイ」や「特別」というものが邪魔していました。根底にある純粋な気持ちを受け取ることが出来ませんでした。

多くの私が持つ色々な感情や弱さなどが関係していたと思います。

ですが、私は強くなりました。

恋は人を強くします。

彼の感情が私のなかに流れ込むとき、私は彼に背中を押されているかのような気持ちになります。

すごく辛いことがあったとしても、どれだけ悲しいことがあって、苦しくてむせび泣くようなことがあったとしても、何度だって、私を支えてくれる強さとなって彼は私のなかに存在しています。

私は彼に支えられ、強く在れているような気がします。

だから、私は彼がいなくても大丈夫。そのように思いたい。

私のなかに彼がいる。彼がいるから、私はひとりでも大丈夫。がんばれる、この世界で生きていける。

そう言いたいし、そう思いたい。

 

でも、たったひとつだけの感情が解消できないでいる。

「さびしい」

さびしい。ただ、さびしい。この世界で絶対的な孤独保有者として、さびしい。

彼がいないこの世界がさびしい。

彼がここにいない現実がさびしい。

 

人はさびしい生き物です。

自分のなかに「彼という存在」を認めることが出来ても、彼からの後押しのように背中をおすような気持ちがあったとしても。

彼を自分のなかに認めることが出来ても。

ただ、現実には彼がいない。この現実をさびしいと私は感じている。

こればかりは、ずっと変わらないし、きっとなくなることはないんだろうなと思います。

彼の替えはききません、誰でも替えがたい。

もしかしたら、これを「ツインレイ」と言葉にかえることができるのかもしれません。

だけれど、そんな言葉を必要としない領域に入っても、ただ彼がいないことはさびしい。この世が色褪せる。

 

この出会いは、とてつもなく私を強かにさせましたが、同じ分だけ私を弱くさせました。

私はとても表面的には強い人間になれたような気がします。偽ること、そして、取り繕うことさえ覚えました。

しかし、内面的には弱体化しました。それは「さびしい」を感じることです。

そのさびしさを隠すだけの強さを持つことが出来ましたし、同じだけさびしさを感じることができる弱さを持つことになりました。

しかし、さびしいを感じることもひとつの強さなのかもしれません。

 

人は弱い存在ではありません。人はさびしい存在だと思います。強弱ではありません、人は感情的な存在だと思います。

人はさびしいから人と共にあろうとします。結婚し、豊かさを求めて生きます。

人は強いです。時に、さびしさに打ち勝つことができ、さびしさを受け入れることができる。

人は強い生き物です。私は強くなりました。だから、さびしいことを実感しています。

そのたびに涙が溢れてきては、自我が崩壊するような感覚がしては呼吸が出来なくなります。

そのたびに「君がいない現実」に直面を何度も繰り返し、その事実がさびしくて堪らなくて、私は崩壊していきます。

崩壊するかの如く、私は君がいない現実に耐えられないみたいです。

これをなんと言葉にすればいいのかは、まだ的確な用語が見当たりません。

もしかしたら、これを「生きる」というのかもしれない。だから私は「死にたい」のかもしれません。

さびしいと感じるのは生きているからであり、この感情に耐えがたいからこそ、私たちは死にたいのだと思います。

 

また再び自我崩壊を迎えていくようです。