報告│原罪があるクラヤミの世界を閉じる。

2024年8月16日

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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弱い立場に立つ存在には『新しい神』としての存在を享受することになる。そして、自分が人に罪悪感を押し付けてしまったことへの贖罪など、自分が今までやらかしてきた内容のすべてを背負った人たちは『真の神』への到達性が生まれるのである。

これが罪悪感からの卒業にある。

(中略)

私たちは「すべてが許されている世界」と「罪悪感に支配されている世界」の2種類に分類されていくことになるのである。

引用:ツインレイによる原罪と罪悪感の克服について

懐かしいな、グノーシス主義。

この記事を書いたのは4月の中頃。今は7月の始まり。

時間とは早いもので、約2ヶ月半前にこんなことを考えていたのか、と。

この2ヶ月半で実行したことは、犠牲という概念で生きてきた私が支配という概念を内包し、ふたつをこねこねしたところ『慢心』みたいなものが出てきた。

なんだこれは( っ ‘ᾥ’ c)と思った。

そして、もうひとつの視点。『洗脳』である。

洗脳と慢心は紙一重に存在しているように思われる。

つまり、優劣意識があれば、洗脳にあいやすく、被暗示性により暗示にかかりやすい。

なんなら洗脳にあっていることすら気づかない。自分が罪悪感を持ち、存在していることへの贖罪をし続けていく人生。

この思想は根底に仏教思想にあると思われる。

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悪いことをしたら罰せられる、地獄に行くという思想が自分のなかに洗脳として埋め込まれてしまい、地獄の神に「いい子です」と言い訳をする支配の子と「贖罪」をし続ける犠牲の子。

支配の子は子供を欲しがり、奉仕的な人生を好むために看護師とか保育士、教員に多いんだよな。

これがクラヤミの世かな、と。

支配者が奉仕やっている。奉仕ではなく支配のケースがあるってこと。(だからこの職業の人って気が強いよね。)

これが原罪による洗脳だと思われる。

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私たちは、何のために生まれてきたのか。それが他者奉仕や支配をするためっていうわけではない。

私たちは「私たちの人生」をおくるために生まれてきた。

だからといって自分勝手に生きていいわけでもない。他人に迷惑をかけるなって話でもない。

この世はそもそも協力の世界だし、成長の世界。

だけれど、協力を自己犠牲によりおこない、成長を支配により行っている。そんなイメージ。

協力をしてくれる人の多くが自己犠牲的な世界観で協力をしてくれるが、それは必要が無い。

成長をするためには人を支配することで成長を得る。つまり子供がいれば支配ができる、支配ができれば成長できた。大人だ――みたいになれる。でもそれは大人では無い、子供が大人の振りしているだけ。

つまり、支配者は『大人の真似する子供』みたいな感じ。そして破壊者。

犠牲者は『子供』のまま。そして、協力者の真似した破壊者。

支配と犠牲のクラヤミの世で罪悪感は、子供のまま無邪気に他人を破壊しているってイメージ。

 

途中で犠牲者側は「人の役にはまるでたたないな」って事実に直面し、ようやく「他人を破壊しない」ことができるようになる。

支配者側は「自分はまったく大人じゃないな」って事実に直面し、ようやく「大人の振りをしない」ようになる。

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ツインレイでも支配と犠牲のカップリングだと思われる。

支配側のツインレイはサイレント期間で、大人のフリした子供に直面し続け、犠牲側のツインレイはサイレント期間で協力者のふりした破壊者に出会うのだと思われる。

また、それは従来の自分だとも思われる。

このクラヤミの世から抜けることは『大人でもない子供でもない自分』となって『自己犠牲でもない協力者でもない自分』となるのだと思う。

私は犠牲側だが、自己犠牲をやめ、協力をやめることに意味があった。

大事なのは『自分が自分になる』ことであり、自分が自分になることが人の役にたっているってこと。

何をしたいのか? についても、人それぞれ『自分がやりたいこと』をやればいい。それが人の為になっている。

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クラヤミの世は根源的にはナギとナミによる千引き岩による『死と生』の別れ目にある。

ツインレイは精神が死んでるが現実では生きている。または現実が死んでるが精神が生きているっていう2種類によるカップリングが原罪の根源に触れるのではないか――と思われる。

クラヤミの世が明けるとき、私たちは原罪を克服していると思う。

つまりクラヤミの洗脳を克服している。この世が暗闇なのは原罪があるからであり、罪という概念があるからである。

そこにある原罪をすべて背負い切るとき、私たち自身がクラヤミの世に突入する。

クラヤミの世がサイレント期間。自分のなかにあった原罪がすべて外から対立するようにやってくる。そもそも自分のなかに原罪を認識していないからである。

ないものはあるよと提供される。外部に発生する意識を内包していくことで自己統合が進んでいく。

これが光と闇の統合かもしれない。

自己統合しきって最後に残るものは「心」。

原罪よ、罪悪感よ、さようなら。

自己犠牲よ、他者犠牲よ、支配者よ、さようなら。

 

あと、ツインレイのことだが。

私は彼と出会い、光と闇の統合をすることを元から知っていたような気がする。彼もそうかも?

だから「彼くんになとちゃ合わせられるよ( '֊’ )できるよ( '֊’ )任せて。」みたいに言っていたような気がする。(私が犠牲役をやるね、彼くんは支配役をやってねって感じ。)

この展開は、当初からわかっていたことで、それを望んだのは自分のなかにある優劣意識を終わらせたかったのかもしれない。

原罪という洗脳を解きたかったのかも。

大元にあるナギとナミのすれ違いを解決させたかった。できるのは『信』と『愛』だけだったと思う。

 

もうおしまい(  ᴖ ̫ᴖ)⊃

おしまいにしようね( ᴖ ̫ᴖ )