ツインレイと日月神示の原罪との関係性について

2024-06-26

| Ⓒ なとり

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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日月神示に書かれている岩戸閉めは、どうして人が人なのか。どうしてこの世が暗闇なのか——について触れていたってことが自分なりに読解できた。

これが暗闇の世界かな。

  • 男女の世界観が違う
  • 異性の気持ちが分からない
  • そこに罪があると思う心
  • 対立したら勝敗を決めなければならない
  • 罪や罰の概念

引用:日月神示の岩戸閉めと岩戸明けは『原罪』かもしれない。

これが自分自身のなかに原罪として持っているとして。これは日本人特有なのか? はわからない。

  • 一方通行による考え方
  • 一方通行だからこそ人の気持ちが分からない
  • わからないものは排除する
  • 勝てば官軍負ければ賊軍
  • 地獄の概念

こんな風にして、本質的な部分では、ナギナミの夫婦という概念のなか、男女の世界観はまるで違うこと。その違いを受け入れられないことが問題となっているのではないか——と考えられる。

ナギにはナギの道理があって、ナミにはナミの道理がある。それぞれがそれぞれの世界観を育み育てているだけれど、そこに「それ、必要なん?」みたいなお互いの意見の食い違いみたいなものが生まれてしまうんだ。

日月神示から考察するに、ナミが死後、黄泉の世界で火として成立したことが、この世が暗闇となる理由となった。そして、その暗闇も、ナミとナギが抱き合うことによって解消されるという。

これはナミとナギによる『火と水の合』によってふたりは結ばれることになるが、その男女における視点の違いによって、ふたりが行き違う部分を理解し合う必要性があるのだが、、この原罪があればこそ、お互いが生き違ったまま結ばれることが難しいのが現状である。

 

こたびはツインレイに触れていくので、それぞれどのように読解していくのかについてを明記する。

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日月神示による『原罪』とは

  • 一方通行による考え方
  • 人の気持ちを決めつける
  • わからないものは排除する
  • 勝てば官軍負ければ賊軍
  • 地獄の概念

この五つの視点からして、目的は何か——というと『火と水の合』にあり、ナギナミが結びつくことにより『雷が生じる』にまで考えることが出来ている。

図の説明:ナギナミが相抱き合うには雷必要でないか

引用:日月神示の岩戸閉めと岩戸明けは『原罪』かもしれない。

つまり、この原罪には目的がある。人のなかに『男女における概念』とか『火と水』という相容れることがない概念をひとつにまとめることができるようになること——が目的である。

これが魂の成長に関わっている。

しかし、この男女の概念を統合する際に、裏側ではもうひとつの概念が生じる。統合の弊害のようなものだとは思うが、私たちは統合する代わりに「何かを純粋化させる必要性」にかられる。

錬金術でも、何度も火をつけて燃やしたりなんだりしながら『浄化』の過程があるように、統合の過程においても裏側では純粋ではない、一つにまとめることができない壁のようなものが生じていることに気づいていかなければならない。

それは何か。それが『岩戸』と呼ばれているもの。

そもそも原罪とは『岩戸』のことであって、この岩戸をなんとか除去しなさいよって話を日月神示ではしているのだと思われる。

岩戸とは固く扉を閉ざし開くことができない扉であり、この扉を開くためには、それなりの努力が必要とも言える。

この岩戸を開くためには、ではまず『岩戸とは何か』について言及しなければならないのである。

岩戸とは何か


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岩戸——というか、岩に意味があるのだと思われる。岩が何を模しているのか。これを『謂(いわ)』なのかなと思っている。

つまり、自分の腹で何を想っているのか? って話だと思う。この腹のなかでどのようなことを思っているのかの内容は『根拠』がある。それを『謂』とする。

じゃあ、その内容って何か? っていうと「自分の思い込み」とかもあるし「想像」とかでもある。

とにかく、私たちは腹のなかで思っていることがたんまりあって、そのたんまり思っていることが『岩戸』となりて、ふたりの関係性を隔ててしまっている。

それがそれぞれの関係性を一方通行にさせてしまっている。

根源的には「自分は悪くない」っていう考え方で、これをもっと一言に纏めると『傲慢』とか『慢心』って言葉に繋がっていくと思う。

これがルシファー意識とアーリマン意識とも考えられる。そこに根拠があるんだが、その根拠はアテにならないのに、アテにならないものを信仰している状態のこと。

 

つまり岩戸とは「慢心によって心を開かないこと」を意味するのではないかと思う。

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暗闇の世界とは

最終的に、慢心が強く働きすぎると、どのような世界になるのかというと、暗闇の世界となる。

そして、その世界が『今の世界』ということ。

内容的には「地獄の世界」って感じ。この世には正解があって、あの世にも正解がある。あの世にある世界を撃ち抜かなければならないんだが、この世とあの世の道理は違う。違うから答えがわからないなかで生きる。

まさにどうしたらいいのかさっぱりわからないのが暗闇の世だと思われる。

この世界観は『罪』とか『罰』という意識があるのが、強い特徴性を持っているのではないかと思われる。そして、優劣意識や、わからないことをわかると思い込むことで誰かに罪があると思いこむ意識である。

 

さて、この罪と罰の意識などを含めて、私はひとつ思うに。

自分のなかに『罪の意識』や『罰の意識』がない人ってどんな人なのか——。それは多分、殺人しても何も思わない人たちって感じ。人の気持ちを考えないし、人の負担についても考えない。人が嫌がることを正当化してくる。

こういう人には『罪と罰』の意識は必要だと思う。だって他者の概念や他人の領域を理解するってことがないから。いかなる理由があっても人を殴る人を好きになることはないよね? って話でもある。その人はずっと嫌われ続けると思う。可哀想。

でも、きっと当人のなかでは正当性がある。その正当性そのものが『原罪』ってこと。それが慢心。

自分は「なんでもかんでもやってもいい」「自分の思い通りに支配してもいい」とか、そういうのも一切合切纏めて「慢心」。

けっきょく、なんでもかんでもやってもいい人たちがこの世には溢れてしまった。

罪と罰の意識があれば、人には理性が働く。だけれど、その理性を備えられなかった人たちは罪と罰の意識がないから「慢心がしゅごい」みたいになってしまう。

これが暗闇の世界。罪と罰の意識があるから、人を支配することができる。

他罰意識が自罰意識の人を支配できる世界のこと。みんなやりたい放題だったのよ。

で、他罰意識がある人のせいに出来る人たちが支配者側で、自罰意識があって成長しようとする人たちは、ずっと犠牲者みたいな世界。暗闇だなと思う。

ツインレイと日月神示の原罪

私的には、ツインレイの相手は、全体的に『原罪のチェック』みたいなことをやっていたような気がするんだが、特筆して、異性性としてはナギナミとアマテラスとスサノオの関係性があげられると思う。

地上のツインレイの段階ではナギナミを模し、楽園のツインレイの段階ではアマテラスとスサノオの関係性を模したと思う。

地上のツインレイの段階では『男女がお互いに一方通行』になってしまうから、相容れることがない存在。この相容れることがない理由は、そもそも視点が違う。視点が違うから、その視点が違う相手に自分のことを押し付けてしまう関係になる。

押し付けた人もいれば、押し付けなかった人たちもいると思う。

で押し付けられた側は「すべてを受け取る」ことになって、受け取り切ったら『離別する』ようになる。このときに、現在の大元は解消されるのではないか? と思っている。

次に、楽園のツインレイの段階では『アマテラス』と『スサノオ』の関係性を模す。

アマテラスとなる女性側は、ツインレイ男性がまるで気持ちが分からない。なんでそんな酷いことするんだろう? みたいな感覚かもしれない。

スサノオとなる男性側は、なんでわからないんだろうって感じなのかも。

まァ、わからないよね。大元になる『ナギナミによる世界観が違うこと』が大前提にあるから、けっきょく分かり合えない。

っていう感じで、ツインレイの男女は『すれ違うことが当たり前』だったんじゃないかなと思う。

だって、そこには自分にとって異質なる存在がいて、その異質を内包していこうとしているんだから。

 

そのときに発生するのが『慢心』だと思う。ツインレイのふたりがひとつになろうとすると、必ず、精神的に慢心が生まれる。

この慢心を持ってツインレイのふたりは離別するのである。

この慢心とは『相手をわかった気になる』『相手が悪いと思い込む』『勝敗を決めなければならない』『相手に罪を与える』という意識にある。

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ツインレイの裏側に生じる慢心という原罪が生じる

この慢心を手に取って、私たちはどうするのか——である。

そして慢心があれば、統合することは出来ないんだと思う。そこに結合する余地がない——というか。結合するためには、そこにある原罪を除去する、岩をどける必要性がある。

岩とは『自分の腹の中にある思い』である。その内容が「相手が悪い」と思った内容のほとんどが『原罪』となる。

相手と分かり合えない、視点が違うことを軸に「相手が悪い」「相手が間違っている」という視点を持って関わることはツインレイの統合の弊害となるのである。

それが自分のなかにある悪心であり、ツインレイの相手を見下すことをも含め、傲慢さが際立ってくるような気がしている。

私はこの慢心を「わかっている、やっている、できている。は、わかってないし、やれてないし、できてねえから」って言葉でまとめているんだけれども、基本的にはそんな感じ。

だから、人よりも自分は優位に立っていいと思っている。自分は偉いと思ってしまう。

慢心を軸にして『自分の意見だけを一方的に押し付ける』『相手の気持ちを決めつける』『罪がないところに罪を見つけて排除する』『対立したらどちらが上かを決めて何が何でも勝者になろうとする』『相手を罰する、罪を与える』という考え方になる。

これをツインレイの相手にやってしまいガチ。ツインレイのどちらかが霊格が上とか下とかの話にもなる。

自分に慢心がないと外に慢心が湧く

このツインレイの期間、自分自身に慢心がないと、慢心は外にわいてくる。周囲の人間がほとんど慢心を持っている人がやってくることになる。

それは自分には慢心がないから、慢心があるものがやってくる。そして「自分は御前よりも優位だ」とか「自分はあなたよりもこんなにできる」とか「相手が悪いと仕立て上げる」とか。相手の気持ちを決めつけるとか。そういうことが起こりえる。

まァ、とにかく色々起きる。

起きるんだが、相手は『自分はわかっている、やれている、できている。のだが、わかっていないし、やれていないし、できていない』状態だったりもする。慢心がそうさせてしまう、認識が反転してしまうのだ。

自分に慢心がないと、慢心がやってきて、慢心を受け取ることになる。これが『自信』になる。

つまり、慢心が悪ってわけじゃない。できている、わかっている、やれている。これが本当に事実であるならば、自信になる。だけれど、逆に、できていないしやれていないしわかっていない人は自信がない。

慢心者は自信がない。だけれど、慢心がない人は自信がある状態になる。

これが『原罪』による慢心がなくなった状態になる。

そのとき、私たちは「地獄の概念を捨てる」のではないかと思っている。

  • 勝敗に意味がないこと
  • 人に罪がないこと
  • 人の気持ちは同じこと
  • 世界もひとつであること

こんな風にして、私たちは『統合』していくと思われる。その統合している人たちは、慢心があるのではなく自信があるのだと思われる。

また、この慢心と言うものが『自信』となるがゆえに、天災としては『地震』になると考えられる。

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慢心が抜けて『自信』が戻ると

  • 一方通行による考え方の押し付け
  • 人の気持ちを決めつける
  • わからないものは排除する
  • 勝てば官軍負ければ賊軍
  • 地獄の概念

慢心がない人は「考え方の押し付け」ができないし、「人の気持ちの決めつけ」もできないし、「排除」もできないし、「勝つこと」もできないし、「自罰的(自己抑制的)」になる。

だけれど、自信が戻ると、自分の考え方を樹立できるし、人の気持ちもわかるし、いらないものは排除もするし、勝てるし、自分を抑制しなくなると思われる。

それが一方通行というよりも『あなたと私は同じ世界に生きていいる感覚』とか『あなたと私は同じ考え方』っていう視点が得られるようになるからだと思う。

そして、何を基準にして排除するのか? も、相手と自分の為の両方の意味を持って排除するようになる。お互いがお互いの為に——である。

色々と視点が切り替わっていくが、最終的には『自信』が持てるようになる。

慢心にも違いがある

なぜか、何回も同じことを繰り返しやっているのだが。

慢心にも『自信がないから慢心がある』と『自信があって慢心になる』の2種類がある。

私は1周目では『自信がないから慢心がある人たち』にであった。2週目では『自信があるから慢心がある人たち』もいた。

つまりどっちも慢心なんだけれども、自信のありなりのどちらものケースがあるみたいなんだ。

自信がないから慢心があるのはコンプレックスの問題かなと思った。

自信があるから慢心があるのは自意識過剰かなと思った。

どちらも同じことで表裏一体性かなと思う。

 

支配と奴隷。この2つの関係性は、本質的な部分で『慢心』が関係していたと思う。

どれにしても『自分は正しい人たちだった』と思う。

私が自分は間違えている可能性がある——という視点を持って生きてきた私とは違う世界の人たちだったと思う。私は自分が正しいと思うたびに、自分が間違えている可能性をも受け入れようとしてきた。

私のなかには「正しい」と「間違い」というふたつの葛藤があり、その葛藤が衝突しては『慢心』が消え『自』という存在が生まれたような気がする。

 

他人を利用して自分を満たすことが慢心なんだと思う。他人がいなければ、自分の心を満たすことができない心。これが慢心だったと思う。

これが岩戸の正体だった。

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サイレント期間の始まりと岩戸

私は彼へ一方通行による考え方を押し付けた、彼の気持ちも決めつけた。彼のことがわからなくなって彼を排除した。彼を殺して、また罪と罰の概念により裁こうとしたのかもしれない。

最後の最後に今までやらなかったことをやったような気がする。最後にひっくり返ってしまったから、視点もひっくり返ってしまった。彼も同じだったんじゃないかな・・・・・・・。

難しいな。排除したのは彼のような気もするし、そのへんは本当にわからない。

だけれど、お互いが『岩戸』によって出会えていないのは事実なんじゃないか——と思う。

腹のなかに存在している『地獄』という概念。多くの慢心によりわからなくなってしまった視点も、ツインレイのサイレント期間では『外から学ぶ』ようになったような気がする。

 

慢心がなければ外に沸く——と書いたが。

実際は、慢心を抑圧しきれていれば、外に沸く。だけれど、そこには『慢心』がある。内側にあり外に駄々洩れていないだけ。だから外にでて、自らのなかにもあるのだと教えられる。

しかし、抑圧したからこそ自分のなかにある慢心を自信に変えていくことができる。

 

岩戸を『開ける』のかな? と思う。これは本当に『開ける』なのか、と。開けるのではなく明けるのだと思う。

火と水が合するように、月と日が合したとき明けるのだと思う。岩戸が明ける。ようやく閉ざしていた本音が語れるようになる。

岩とは喉に詰まっている意思であり、その意思がすでにもう必要がない状態になるまで。

世が明けるねん。暗闇の世が明けるねん。