ツインレイにとって『犠牲と支配』とは。
誰かの手伝いをして自分の価値を手に入れようとすること。犠牲者。
いらない。
誰かの悪口を言ったり書いたりして、自分を認めて欲しいこと。犠牲者。
いらない。
社会のルールに従わないことで気を引くこと。支配者。
いらない。
自分の思い通りに相手を懐柔すること。支配者。
いらない。
どれも私がサイレント中に出会った支配者と犠牲者。
犠牲者は支配者をはらみ、支配者は犠牲者をはらんでいた。
つまり、犠牲者たちは粛々と犠牲側から支配者になろうと目論む。
支配者たちは粛々とと犠牲のように見せかけて人を支配する。
つまり、二元論になっている。どっちかを選ばなければならない。支配するか、犠牲になるか。
支配すればするほど犠牲者となり、犠牲になればなるほど支配者になる。
支配者は犠牲者という美徳に酔いしれて、犠牲者は支配者を破壊しようと目論んでいた。
どっちも同じように見えた。すべて違うが、どれもすべてが同じように見えた。
私は犠牲を抜けて支配にたどり着いたが、支配したくなかった。そして犠牲という神にもなりたくなかった。
どっちも嫌だった。私は支配したくないから犠牲となって神になった。私は神になりたくないから人になった。
自分の人生に支配者も犠牲者も神もいらない。
すべてまとめて『私』が出来上がる。
私は私を手伝うし、私は私を認める。
私は私のルールに従うし、ときに間違いがあれば反抗もする。
私は私の思い通りに生きる。
私は私を支配する。私は私の犠牲になる。私は私の神になる。
丸ごとまとめて人である。私である。
彼は支配者じゃない、彼は犠牲者でもない、彼は私の救世主でもない。
ときに手伝ってもらえた。感謝しているよ。
ときに認めてもらえた。感謝しているよ。
ときに手伝わせてくれた。感謝しているよ。
ときに認めさせてもらえた。感謝しているよ。
与えてもらった。そして与えさせてくれた。
私は受け取って差し出した。その循環のひとつだった。
人とは循環のなかにいて循環に従事している。
感謝されたい、褒められたい。認めてもらいたい、受け入れてもらいたい。
そういう動機でみんな循環していた。
だから感謝されないと怒って、褒めて貰えないと拗ねて、認めてもらえないと反抗して、受け入れてもらえないと噛み付いて。
そんな感じだった。
みんな、私に感謝されたくて、褒めてもらいたくて、認めてもらいたくて、受け入れてもらいたいみたいだった。
『私』って何なんだろう?
必要なもの。
感謝じゃないし、褒められることでもないし、認められることでもないし、受け入れてもらえることではない。
単純に『尊重』じゃないだろうか。
相手には相手の世界があり、その世界を尊重すること。その世界を保存して置くこと。
私たちは『共存』できない。
すべての人は共存できない。
世界を各々持っているから、共存ができない。
でも、そんなふうに世界をみんなバラバラに持っていたとしても、共に存在することはできる。
共存とは共に存在すること。精神的なことではできない。
自立とは、相手の世界観を認めて尊重すること。
でも繋がりたくない世界観を持っている人たちもいる。これを好き嫌いって言う。
尊重しない人たちは一方的だなと思う。
その一方通行を受け止め続けたなァと思った。そして、私も一方通行だったんだなァって思った。
一方通行を受け止め続けると、最後は私が一方通行に話をするけれど、相手は受け止められない。
私は彼を尊重するようにして犠牲としたから、こうなった。
尊重とは犠牲ではなく理解でもなく、分離した認識、分離した存在の受容なのかなって思った。
そういう人だってことを受け入れる。
愛は犠牲では無い、存在の受容。でも受容したくない存在もいた。
それはかつての私。
愛が犠牲、そして支配。
私は過去の私を受け入れていたんだな。ずっとずっと、犠牲と支配のメカニズムを外部から受け入れて、内包してた。
ツインレイの出会いから別れの経緯の、未熟だった私を私が愛して受け入れた。
彼が受け取らなかったものを。受け取れなかったものを。