報告|離人の元凶——誰も悪くないことに耐えられなかった認知のゆがみ
本質みたいなものがわかってきた。
ツインレイの彼に出会う前に、自分自身の怒りが解離しかけたときに、対象者である父に対して怒りを鎮圧させるために『誰も悪くない』という自我意識で抑圧させた。
つまり、私は自分の怒りに対しての正当性を否定し、父に対して擁護する——という目的の為に誰も悪くないという自我意識をつくった。
これは『自己否定』と『他者肯定』のためにやったこと。
ツインレイの彼との離別は『誰も悪くない』ことだった。この事実に耐えられなかったらしい。それで離人したみたい。
つまり「誰も悪くない」というのは、他者肯定と自己否定の為に必要だった。でも、現実的に誰も悪くない現状にぶちあたったときに、誰も悪くないことには耐えられない精神だった感じ。
誰も悪くない=他者肯定&自己否定
誰も悪くない=誰も悪くない
前者の否定と肯定では耐えられるんだが、後者には耐えられなかったっぽい。
誰も悪くない現状には耐えられないんだけれど、自己否定と他者肯定の為ならば耐えられる。
「理不尽な現状で私が他者肯定し続けてきた」って状態が私の人生だったみたい。
誰も悪くない=相手が悪いのに相手を肯定してきた、許してきた
サイレント期間中に『理不尽な現状』が起きたとき、他者否定して自己肯定することで『理不尽であること』を理解するっていう認知のゆがみが訂正された。(ほかにも慈悲みたいなもんも貰えた、理不尽でさえも肯定してきたから付録セットだったみたいなイメージ)
誰も悪くないことに耐えられない。つまり自分は悪くないことに耐えられないっていう精神だったみたい。
「なとりが悪い」ってことが人生のデフォルト的な感覚で、なとりが悪くなくてもなとりが悪いってことで話がまとまることも多かった。理不尽な人生だった。
その理不尽を受け入れ続け、最後はもはや「あたいが悪い!」ってことで、相手が持てない責任さえも背負うほどにはなった。器は大きいと思われる。
逆に、なとりが悪くない状態——というものには耐性が出来ていない。
これはもう本当に理不尽な人生だったと言える。理不尽に自分が悪くないことまで私が背負ってきたものが多すぎて、理不尽なことをすべて自分で背負うことが当たり前の人生だった。
だからもうそれもお終いってことで、相手が悪いことを認知して、自分自身の認知のゆがみを訂正した。
私にとっての闇の刺客は「責任転嫁をする人格」ってことになる。
私のなかで「誰も悪くないことに耐えられなかった」とは「自分が悪くないことに耐えられなかった」ってこと。
彼との離別においても、彼が悪くないことはわかっている。でも、自分が悪くないことには耐えられない。
こんな精神してりゃァ、まともな結婚相手を見つけることは出来ないだろうね。
私の離別原因は「自分が悪くないことに耐えられない」みたい離人してしまった。サイレント期間中は「自分は悪くない」という自己肯定感を鍛え上げておりました。
まともな自己肯定感が育ってこなかったがゆえに、自己否定で自我を形成してきた結果、責任感つよつよ人格には育ったけれども、自分に責任がないことには耐えられないっていう意味がわからんメンタルしてたみたいだな。
闇の刺客は「自分は悪くない」っていうおかしなメンタルしてたけど、私が欲しかったのは「自分は悪くない」っていうまともなメンタル。
現実的に100%悪い状態で、自分は悪くないを通してくる闇の刺客。認知を歪ませてくる。
なとりは現実的に100%悪くない状態で、なとりが悪いって思いやすい認知のゆがみ人格者。
だから私は闇の刺客が100%間違えていることを認知する必要性があった。
理不尽な育ちしていると、根底的な部分で歪みでてきますから。
闇とは、私にとって自分は悪くないことに耐えられない人。光に闇を押し付けて、光を屈折させる。
屈折した光とは、私にとって自分は悪くない部分まで背負ってきた人。闇を背負ってる。
光とは、自分は悪くない部分は背負わないでいいこと、自分が背負う分だけ背負う人。闇が背負うべき部分は背負わせる。
私が屈折して自己犠牲してきたのは、自分の失敗に耐えられない、自分が間違えたことに耐えられない人たちの責任を背負うことが当たり前だったからなんだな。
二倍の人生送ってたんかも。
それが当たり前の人生で、全然、当たり前じゃないんだよな。
でも、全部背負いきったら、今度は、もう闇は全部降ろしていいらしいぜ。
私のなかには光と闇が存在していた。それは人の闇をすべて背負ってきたからなんだろうな。
相手が悪いのに相手を肯定してきた、許してきた。
これの下には大きな怒り。その下には深い悲しみ。
でてきた、でてきた。
だから私はばかばかしいって言ってるんだわ、そんで茶番だと言っている。