ツインレイは統合したあと中庸している。(四霊による結合)

2024年8月16日

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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なんとなく「あ、もう覚醒じゃなくていいや。統合のターンだな」と思った。

 

どうやらツインレイは統合後、中庸するようである。

もし、一極に傾くようなシーンが起きた場合、もうひとつの一極が内部に現れるような現象が起こる。

これが『ツインレイにより生まれる中庸』のようである。

先日、宗教勧誘(というか霊感商法)にあったとき『信じる心』のほうへ一極傾けられると、心理内ではツインレイの彼が現れ『信じない心』が生まれるようになり、中庸ととろうとするのである。

私は元々「何が何でも色々信じる」ことができるのだが、彼は「何が何でも色々信じない」という二極により出会っている。このふたつが真逆として存在し、その真逆の相手を内包するからこそ、表面的には『信じる』へと傾きすぎると、内面的に『信じない』という心が生まれるようになる。

この状態を私は『統合』として認識する。

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ツインレイによる統合の中庸とは

ツインレイとは、鏡の存在——として定義しており、私自身は空間反転した存在として認識している。

つまり空間的に真逆だからこそ、対立したときには爆発が起きる——ということ。しかし、そのふたつの空間も「ある一定の条件」が揃うことにより、爆発するのではなく。否、爆発するかのごとく、ひとつの世界を構築するようになる。

それが内包するという人が持つ相手を受け入れる器量なのだと思っている。

ツインレイは、このように空間反転した存在を内包するとき、表面的には爆発や分離を起こし、内面的には統合や結合を起こしているのではないかと考える。

これは私たちが認識する知覚的な問題では、たとえばサイレント期間などの表面的にはわかりやすい部分では『爆発』『分離』、ツインレイ的には『衝突』を起こすことにより、その衝突しているがゆえに精神的には統合や結合と言う需要が生じているということ。

これは『心』というテーマにあり、そこに「愛」という概念がある場合、衝突のなかに統合が生まれるのである。その衝突そのものが愛であるときの話。

 

このようにして、ツインレイのふたりはサイレント期間に突入するとき、愛による衝突による分離を起こしながらも、内部では心理的な統合を起こしていくのである。

統合とは何か

私的な見解における統合は、四霊における五つにおける統合があるのかなと踏んでいる。

鳳凰は、男性性と女性性の知性による接続にて、精神性の知と現実性の知の結合。(優れた知性)

麒麟は、男性性と女性性の心による接続にて、精神性の心と現実性の心の結合。(二つの心の仁)

次が霊亀。男性性と女性性の信による接続にて、直感による事実を現実により対応する力。(治水の才)

引用:夢見|四霊の霊亀を夢でみた件について

そして、他にも黄竜(自我テーマ)と、聖人という人と神の結合を起こしているのではないか——と考えている。

聖人とは人の善悪と神の善悪を理解し、そのふたつを結合させていくことである。

この五つが結合させることができる意識なのではないかと考えている。

それぞれ私は夢見にて、鳳凰麒麟霊亀聖人(キンピカなとり)を見る形で自分のなかで何が結合したのかを理解する。

いわゆる、ツインレイの相手とは『知性』『心』『霊への理解』『自我』『神』という概念が真逆にあることがあげられる。

このすべてが真逆だからこそ、私たちは結合することができる。同じであれば結合する必要性がないのだ。

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統合による中庸とは何か

結合後、もとい統合後。

私たちはひとつの一極に傾くような現象が起こりえる。

いわゆる、ひとつの一極に究極に傾いているからこそ、もうひとつの一極が発生するのである。それがツインレイの相手であり、そのツインレイの相手を内包することは、自分自身のなかで中庸を理解することができるということでもある。

たとえば、『知性』『心』『霊』『自我』『神』とあるが、知性は「現実性」と「精神性」という二つの理解が存在し、精神を現実的に理解し、現実を精神的に理解することができるようになることが鳳凰の統合である。

心は常にすれ違いやすく、男性の心と女性の心のカタチはまるで違う。見ている方向性が男性は『未来から今』となるが、女性は『今から過去』に意識が向かいやすい。この心を統合させるには、同じ方向を向かわなければならない。これが麒麟の統合である。

霊という視えないものへの理解は「信じる」「信じない」というふたつにわかれやすい。このふたつは信じているとき、裏腹には信じない心が生まれるようになる。これが霊亀の統合である。

自我においてはまだ終わっていないので明確には書きたくないので控える。(黄竜)

神という私と人という私は、別の存在である。しかし、私は人だが、神である私を受け入れ理解する必要性がある。神の善悪と人の善悪は別物であることを受け入れること。つまり私は『神を受け入れた』のである、人として。(神になったのではなく、ただ繋がったってだけ。そのためには統合が必要なので神になる必要性も一時はある。)これが聖人の統合である。

つまり、ひとつの存在に傾くのではなく、ふたつにおける中心に自らを置くことができるようになることが統合であり、二極バランスを自らのなかに生み出し、視点を一極化させないようになっている。

常に二極化と中庸的な視点を持つようにもなる。一極に傾くときはもう一極が自らのなかに発生し、そのふたつを両立させるとき、私たちは二極と中庸による『三点』を生み出すことができる。これが三元性にある。

これが「統合(二極化)」と「中庸」である。

聖人という中庸について

キンピカなとりが「人の善悪と神の善悪は違う」と語っておったが、その通り、人が持つ善悪と神が持つ善悪は違う。

聖人というのは、四霊の中央に存在するようなイメージでいいと思う。

図の説明:方位と虫の王

聖人は「裸虫の王」なんだよね。つまり「なんももってない」ってこと。

それは「羽がない」「甲がない」「鱗がない」「毛がない」ってこと。これが人の本来あるべき姿なのだが、羽という知識を自分の為に装備し、甲という誰も信じないを装備し、鱗という自我を装備し、毛という自分を守る感情を装備した場合、中央に存在する聖人は『虫』になるんだと思う。

で、このうちの麒麟についてなんだが、これがどうやら元々『猫科動物』みたいなんだよな(夢見でチーターの人とバイバイした)。西に「白虎」が入り、中央に「麒麟」が来ている構造もあると思うんだ。これが「虫けらの人たち」のこと。

でも、自らが虫をやめ、すべての装備を脱ぎ捨てた裸になったとき、中心に「聖人」という概念が生まれ、麒麟は西に向かい、そこで猫科動物である白虎がはじかれるようになる仕組み。

干支でも猫ははじかれているんだが、猫って何なんだろうな? と思う。猫神さまってみたことがない。宮沢賢治は作中で「山猫大明神さま」と言っているんだが、動物たちの神が猫なのかな・・・・? とすら感じる。

さて、話を戻し、このように聖人とは『防御システムなし』みたいな状態のこと。自分を守る意識がないことにある。

そして、自分を守らないからこそ聖人だとも言える。

この状態になると、それぞれの四方が揃うのではないか——と思われる。

 

このとき、神の善悪を知る。

私たちは自分の知・心・信・我の在り方を間違えているときがある。その究極の間違い方がある。それがパワーバランスが崩れることかもしれない。

人(地上のツインレイ) 神(楽園のツインレイ)
図の説明:麒麟が真ん中にあるとき「人」
図の説明:聖人が加わるとき「神」

それぞれ、麒麟という存在が心として中央にあるとき、これが「人」なのだと思う。

この人の概念では『感情』という白虎が介入しているとき、感情で知識を使い、感情で人を信じ、感情で自我を持つ(自分が良ければいい)ようになる。つまり、その中央にある心は『心ない状態』ともいえる。

しかし、ここで『感情に左右されないような人間性』を構築したとき、私たちはそこに心を生み出す。この心が完成し、白虎に心が打ち勝つとき、麒麟は西を担当するようになり、中央には聖人が生まれるのである。

いわば、私たちは感情を持っている。そして、その感情に左右され続けることにより『人から獣落ち』していくということ。猫なんだよな。

猫は身を守る。しかし聖人は身を守らない。

そして、ツインレイとは『人である心をもつ麒麟がふたり現れること』に意味がある。いわゆる、ふたりともが心ある君主となっているとき、ふたつは結びつき、西へと向かい『白虎(という感情)』に打ち勝ち、仁を獲得するのだと思われる。

つまり心を地上のツインレイの段階で構築し、蟲毒に打ち勝つ。蟲毒と九尾狐の件について(虫持ちの話)

その次に心をふたつ合わせることで仁が生まれる。

私が夢見のなかで金色だったのは『麒麟』と『聖人』だけである。まずは聖人の自分を見る、次に麒麟を見る。この順序も決まっているように思う。

 

そして、私が地上のツインレイと楽園のツインレイのふたつの事例を構築する基盤として使っていた理由は、地上のツインレイは『人としての心を持つ人間』としての存在を意味し、楽園のツインレイは『夫婦としての心を持つ人間』としての存在を意味したようである。

この順序をコンプリートしてようやく『神人』なのだろうなと思う。というか、聖人。

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黄竜はでてくるのか?

ちなみに最後に残っているのが『黄竜』である。

黄竜は、戦で人をたくさん殺し続けたので、穢れすぎて神の世に戻れなくなったとのこと。

もし、この人生で、知性により誰かを殺す、感情で誰かを殺す、信仰心で誰かを殺すだなんてことがなければ。もし、私たちが「いつかの黄竜のように誰かに勝った」のであれば。

つまり、誰かを迫害せず、自分良ければすべて良しと思わず、誰かを思いやる心を持っているのであれば、私の中にいる黄竜は神のもとへ変えることができるのではないかなと思っている。

つまり、それが『私』かもしれない。

もし、ほかの『鳳凰』『霊亀』『麒麟』『白虎』が己の為に働いたとき、黄竜は『神のもとへ帰れない』のである。

しかし、黄竜が働かず、穢れることが無ければ黄竜は神のもとへかえることができる。

「ここ」に囚われてしまっている龍がいるのだ。私たちのことではないだろうか。

図の説明:龍とは

業辰業寅なのかもしれない。そこに罪がある。

ツインレイの彼くんは「龍」だったような気がする。私は「寅」だったような気がする。

最終形態は、このようになっているのかなと思う。

心という聖人が東に入ることで、黄竜は天にかえることになる。

つまり、心が生まれ、仁になると感情が排除される。その心は聖人となり、龍を開放する。

龍が解放されると、よく晴れるようになる。心に雨が降らなくなる。心がハレバレとする。

黄竜は『雨を降らす龍』だから。

 

ふたつが繋がる心によって『感情』または『仁』のどちらかが生まれる。

ひとつの存在であるとき、私たちのなかには『心』または『我』のどちらかが生まれる。

仁により感情が生まれ、心により我が生まれるとき、私たちは神の善悪を理解する。

あなたのために感情を持ち、自分の心に従い自分の人生を生きる。

共に泣いて共に笑い、共に生きていきましょう。これが成立する思想である。

 

知と信は、右にも左にも如何様にでも転がるから、この取り扱いを注意しなければならない。

ちなみに私は『信じるときめたものは信じ抜く』って人。でも信じられないものについては「その人がそういっているんだろうから、きっとそうなんだと思う。」って言葉にしている。つまり、信じているんだ。ぜんぶ信じている。

でも騙されるよ。騙されたくないって思う心がある限り、騙されるよ。

彼は『知』だったんじゃないかな。人の為に自分の知識を差し出すことができる人だったんだと思う。だから教員やってる。

ツインレイのテーマ『感情と我』

私のテーマは『白虎という感情』で、彼のテーマは『黄竜という我』。

私の場合は、感情優位にならないこと。彼の場合は、自分優位にならないこと。

お互いの中にある感情の爆発を抑制する力と、自分優位にならない我を抑制する力を必要とする。

女性性が白虎ならば、男性性が黄竜にある。

私は人生の前半を白虎という自分の感情優位にならないことを重要視し女性性の確立。次に、勉強しまくって自分の為に知識をつかわないことを重要視し、男性性の確立。

この二軸が出来上がるとき、私は、信じる心と知性というふたつを持っていたのだと思われる。これが南と北のライン。地上のツインレイの期間である。私は信じる、ツインレイの相手は知性である。このふたつを統合することにより、南北を更生する。

南北は「好き」から「愛」に昇華すること。

次に、東西では『感情と我』というテーマである。感情の抑制により仁を構築し、心を構築することで我を抑制する。楽園のツインレイの期間である。

これにより「愛」から「好き」に昇華する。

愛した存在は、私にとって好きな人でした。好きな人を私は愛したのだと思う。

つまり、愛した存在(心と仁)は私の好きな人でした(我の感情)。

そして、龍(我)と虎(感情)はさよならして天にいくのであれば、それは『龍神』であり『山猫大明神』となるのかな。