ワンレイとは?(ツインレイへの到達の予備知識スピリチュアル)

2024年11月2日

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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ワンレイとは「ひとつの光」ですね。ツインレイは「ふたつの光」です。

ツインレイへの到達の前にはワンレイとなり、ひとつの光へとなったあとと考えるのがベターなようです。

つまり、自分がひとつの光として成立をしていないのに、ふたつの光としてツインレイが並ぶことは出来ないと言うこと。

さて、ワンレイについてを書き纏めていこうと思いますが、ワンレイへの至りはひたすら統合していくことにあります。

私たちは、自己統合を目指すことが多いかと思いますが、じゃあ自己統合を何を示しているのか? についてはよくわかっていないところがあり、それは自分と向き合うことだよ! と言われても、そもそもツインレイの方がたって「いや、自分と向き合うって何よ。」ってところがデフォルトだと思います。

とりあえずは、自分と向き合い続けると、自分のなかに「光」が生まれてくるから、その光を受け取りに行くことがワンレイへ向かうことなのだと思います。

私がワンレイへ至る経緯で理解した愛とは、

私は一人になりたい。ツインレイではなく、たったひとりのワンレイになりたい。

私の自己愛。

私は私をどこまでも愛している。だから一人になりたい。

引用:精神統合(ワンレイ)――愛しているから一人になりたい。

究極の自己愛の末、それは孤独にあるということでした。

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ワンレイが持つ究極の自己愛は『孤独』

ワンレイが目指しているのは『自己愛』です。ツインレイが目指しているのは『自他愛』です。

ワンレイ自体は、自分を愛することを目指し、ツインレイ自体は、自分も他人も愛することを目指します。

つまり、ワンレイはツインレイのワンステップ前の自己愛の構築にあります。そして、それは『孤独』です。

あなたは孤独を愛していますか。

私自身の話ですと、私はツインレイと出会う前には「孤独は友達」と言っていました。私の横には常に孤独がいました。

だからさびしさを埋めるように、誰かと繋がっていこうとする過去の私がいます。あるとき、やめました。

その理由は、自分の孤独を、誰かを道具にして埋めるのはよくないな、と。自分の孤独なんだから、自分で受け取らなくてはならない。

そのように考えるようになりました。それからは、私が孤独を友達のように感じながら、孤独とはいっしょに過ごしていくことにしました。

孤独は常に私の横にいました。それは「自己愛」でした。私にとって自己愛は分離しているものだったのだと思います。

「ひとりという存在になりたいという欲求」が、私のなかに存在していたということです。

これは、私たちがこの世に生まれてきた所以に至る。私たちは、この世では「ひとり」という概念のなかにあります。私たちはどこまでもどこまで個です。

ワンレイとは、孤独の内包にあると思います。ひとりであることを受け入れる。あなたがひとりという存在であることを受け入れる。

始まりは「孤独と友達になること」です。

私たちは結婚をするなどして誰かと共に生きていくことが出来ますが、それ以前に「ひとりという存在で存在している」ということです。

ワンレイへの到達『無条件の愛』

孤独とは存在愛ということです。そして、存在を愛することが自己愛であり、無条件の愛となります。

無条件の愛とは、どこまでも自己愛を教えてくれています。

ツインレイではよく無条件の愛を語られますが、ワンレイこそが無条件の愛を体現しています。

存在そのものを愛している。

自分がいかなる存在であれども受け入れている。自分の人生を生きていく。自分の存在を許す。

というような、自分がいかなる存在であれども受け入れていく姿勢は、無条件の愛により生まれる自己愛です。

無条件の愛から生まれる自己愛は、私たちのなかで「光」を齎します。

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ワンレイは自己投影をやめる

光があれば闇があるのではなく、光があれば、そこに自分の実体が生まれる時ばかり、影が生じます。

もし、私たちが自分の存在を愛することが無ければ、そこに存在するものは闇です。そう、光が闇を生むとき、そこには実態がありません。

実体とは、無条件の愛により自己受容した数です。

私たちは他者を常に投影の世界で見ています。または実体がないものは闇を見つけます。

私たちは「自分」という眼鏡をかけてしか他者を見ることが出来ません。

しかし、他者は自分ではありません。その理屈が通らないのが『自己投影世界』です。

ワンレイは光を得ていくとき、闇をも生じさせていくことになるために、光があればあるだけ、闇のような存在が近づいてきます。

それは『自分の闇』です。他者のなかに視える闇とは自分の闇であり、自己投影に他なりません。ふと、光を得た私たちは無条件の愛で「闇」を受け入れるとき、そこには自分が存在していることを理解します。

実体化します。

他者への嫌悪は常に自己嫌悪なのです。この自己嫌悪の正体こそが『影』です。

自己嫌悪ではなく、ダメな自分をも愛するとき、私たちは影の統合を果たしていき、真実なる光へと到達していくことになります。

闇を見るとき、そこには妄想がある

そこに闇が見つけられたはいいが、実体もなく。そして、闇を受け入れることが出来ない時、私たちは妄想を生み出します。

本来あるべき『実体』が『妄想』になります。

実体とはよりリアリズムな形で提供されていると思いますが、妄想は理想により構築されている為、そこには光と闇の混合が生まれます。

実体のない妄想は二面性を孕み、光と闇が入り混じった世界が生まれます。

自分だと思っている姿が本当の自分ではないとき、それは妄想です。その妄想の姿を自分だと思っているのだから、それは本当の自分を受け入れることが出来ていないということですね。

ワンレイへの到達は『シャドウ』や『投影』を終わらせていくことにあります。

投影は他者により生まれます。他者と関わらなければ投影ははじまりません。

個人的には他人と関わるのは、めんどくさいなというのが本音でした。が、確かに無条件の愛に到達するとき、私たちは他者を通して自分の闇と向き合うことになるのだと思います。

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ワンレイへ至っている人とはどんな人なのか

ワンレイへと至っている人とは「自己完結能力の高さ」なのだと思います。

ワンレイ視点からすれば、投影がありません。自己投影がなく、自分と他人の違いを明確に理解します。

そして、もし自分のなかに影が生じたとしても、その影に対して「自己投影だな」と感じることが出来ます。そのときはわからなくても、その後おいおい「そこには自分がいる」というダメな自分を受け入れることがとてつもなく早いかなと思います。

ワンレイとはどこまで『個人で完結している』んです。

投影とは自己嫌悪の内容を他者に写してみることにありますが、自己嫌悪を受け取っている存在がワンレイですので、自分の嫌いな部分も受け取ることが出来ています。受け取ってしまえば、嫌いと言うわけでもなくなります。

男性性と女性性の役割の正常化

男性性と女性性が自分自身のなかに認められているのもあり、自分のなかで提供と受け取りが完結しています。

つまり、他者に提供が漏れることもありませんし、受け取りが失敗することもありません。

与えられるもののすべてを受け取ることが出来るようになります。

自分のなかの人格全てが自分由来

自分自身のなかに存在している『すべて』が自分により構成されていきます。

自分の父や母という存在、男性性(ツインレイ)としての存在がすべて統合されていきますので、私たちのなかにある、父と言う存在は自分により生まれ、母という存在は自分であり、男性性(ツインレイ)も自分である——と認識するようになります。

このなかで一番ネックになるのが「男性性がツインレイであること」という妄想に憑りつかれてしまうことです。

自分のなかで依存心がなければ、孤独であることを受け入れていき、ひとりで生きる覚悟が決まっていれば、男性性がツインレイであるという意識は解除され、自分のなかにいるツインレイは『自分なんだ』と理解が出来ます。

つまり、父とは何か、母とは何か、男性とは何か、女性とは何か——という概念が自分のなかで明確に樹立していくことを意味しています。

これがオリジナリティにより生まれるために、私たちは「ワンレイ」と呼ばれている存在へとなっていけます。

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自己統合とワンレイ

ワンレイにいたると、光が生まれているために、自分のなかにあるシャドウに目がつき、自己統合をしていきやすくなります。

自分のなかにある問題は常に他者により運ばれてきますので、それを受け取っていきます。

自分のなかにある問題がすべて解消されることにより、私たちは統合意識へとなります。

私たちは、ワンレイという言葉を「ひとつの光」としていますが、光が複数あってはならないのです。実体が複数存在しているとき、光も複数必要になってきます。

たいてい人のなかには複数人存在しています。複数人の存在を統合していくことになりますが、ワンレイへの到達する人たちは、自分自身のなかに「複数人いること」に気づいている段階だと思います。なぜか他人が豹変するなァとか、自分のなかに誰かがいる等のことに気づきます。

自己統合をすべて終わらせていくと、私たちは「影」を統合していくのですから、実体と影が統合され、私たちのなかに「存在」が生まれ、私たちの存在と光が統合され『輝く存在』になります。

 

〔ありのままの自分を受け入れている〕

本当の自分+影=現実世界の住人(存在)

現実世界の住人+光=キリスト(輝く存在)

自分=キリスト

 

〔妄想の自分・理想の自分に囚われている〕

妄想の自分+影=妄想の世界の住人(存在)

妄想の住人+光=分離者(悪魔を内在する存在)

自分=分離者

 

このように、自己統合を済ませているかどうか——は、本当の自分をしっかりと受け入れられているかどうかにより違います。

ツインレイに出会うこと

ワンレイへの到達は、ワンレイへの到達が必要ですが、そのワンレイの状態は「ツインレイを否定すること」にあります。

ツインレイは「男女いっしょにいること」のような感覚があると思います。

しかし、ワンレイは「ツインレイの相手は自分の存在を樹立させるために必要ではない」と感じます。

私たちは自分自身の存在を「ツインレイの相手無くして語れない」ような状態になっているかもしれません。

ワンレイは「ツインレイの相手がいなくても自分の存在は成立している」状態を受け入れてくれます。

つまり、ワンレイとはツインレイとは真逆の「ツインレイを否定する存在」となっているんですね。

ですので、ツインレイを全力で肯定して生きている人たちは、真逆にツインレイを否定するワンレイが成立するとも言えます。そして、否定的であるワンレイを肯定するとき、私たちは「ツインレイ」を否定します。

ここで、ワンレイに対しての否定と肯定が揃い、ツインレイに対しての否定と肯定が自身のなかに成立したとき『本質』が見えてきます。これを『自己葛藤』している状態なのではなく、片方に偏らせることで自分のなかに両軸を構築していくことが出来るようになります。

私たちは「ワンレイになるのか」「ツインレイになるのか」のどちらかを選ばなければなりませんでした。

それは、ツインレイになろうとすればするだけ、ひとりという存在を受け入れていかなければなりません。

ワンレになろうとすればするだけ、ふたりという存在を受け入れていかなければなりません。

しかし、私たちは「ワンレイになる」のであり、同時に「ツインレイになる」ことを望んでいます。

私たちは、ひとりという孤独であり、その孤独を受け入れるとき、他者の孤独を受け入れることが出来るようになります。

私たちは常に、自分の人生を生きているワンレイではありますが、他人と共に生きているツインレイでもあります。

最後に「ワンレイ」とは何か

ワンレイもツインレイも、どちらも「少し上の次元の精神レベルに合わせて生きること」を意味しています。

これは自分自身のなかに存在しているベクトルが、少し上の次元になりますが、別に3次元を切り離すと言う話ではありません。

別に投影をしている人たちと関わらないわけではありません。ただ、知覚しなくなるってだけの話です。そして、自分が投影しなくなるってだけです。

ワンレイは「孤独を無条件の愛で受け入れた」という個の受容世界にあります。

ツインレイは「他者を無条件の愛で受け入れた」という他者の受容世界にあります。

どちらも同じ領域あると思います。個数の問題でしかありません。

しかし、ワンレイとツインレイは『どちらも成立すること』を意味していると思います。

1という数字があるのであれば、そこに2という数字も発生すると言うことです。

1と2の違いはありません。りんごが一個あるのと、りんごが二個あることへのこだわりがあるようなもので、そこにあるのは「りんご」ですね。

いわば、1=2=3・・・なんですね。

これが光の集合になっていくとき、私たちはこの地球で『ワンネス』を経験することが出来ます。

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補足:次元階層別の理解

次元階層ですが、上から順番に

  1. ワンネスの光の集合体
    (自己完結した存在の集合)
  2. 光としての個と複数系
    (投影を終え自己完結的)
  3. 存在と影の分離
    (幻想世界・投影しまくっている)
  4. 光と闇の分離
    (悪魔の世界・妄想に憑りつかれている)

というような状態でしょうか。

私は3という『存在と影の分離』にいました。そこから、2という「ワンレイ」という階層に来ました。

4を見て「なるほどな~」と思いました。この地球は3の階層にあたります。

自己投影の世界ですね。ツインレイの課題では2である光になるのか、はたまた4である妄想を繰り広げていく人になるのかの分岐点でもありました。

そういえば、二極化世界というものがありました。

3とは相手が武器を構えてもいないのに武器を構えていることに怯えている人たちとも言えます。

4は相手が攻撃しているわけではないのに攻撃していると「思い込み」を生み出し、それを「事実」として捉えているときです。

この領域から「すべては自分の生みだしている幻想世界である」という理解を進めていくとき、私たちは光を受け取ることが出来るようになります。

あと、4の状態に入っている人たち(妄想の人たち)の話のなかには、なぜか多くの「悪魔」「思念」の話が出てきます。理由は、自分のなかに悪魔が巣くっているからではありますが、それを他者のなかに見つけます。あと「自分は神だ」という話も出てきます。

優劣世界なのだと思います。

これが光と闇の分離であり、2の世界である「光の世界」には、自分は神という概念はなくなります。理由は「みんな神だから」だと思います。

「私は人です」だなんて自己紹介しないような感じでしょうか。神の世界で「私は神です」と自己紹介しません。

 

2の段階の光の世界の住人は「優劣世界」や「光と闇の分離世界」「妄想世界」をも受け入れています。自分のなかの一部でもあるからです。

2(光の世界)と4(妄想の世界)は『同じ』に見えますが、2は現実性があります。

4は非現実的です。でも、3(実体と影の世界)からすると、違いがよく分からないかもしれません。

違いがわかる人は実体があります。実体とは自分の意志や意思の違いです。