心の具合が悪い自分を受け入れること。(無の自分を受け入れる)
ずっとそこに自殺願望があって、でも、分離させている意識であったことや、気を逸らす方法を多く持っていたのもあって、自分のなかで自殺願望があることすら生活のなかで気づくことがなかった。
代わりに、振り切れたような生き方をしていた。
没頭する時間を多く持つことで向き合わないようにする。
そうやって自分を殺さないようにしながら生きていたんだなって気づいた。
これは無からの逃避であり、自分のなかで自分の存在に意味が無いことに向き合わないようにしていた救済措置である。
ほかにも依存によって無から逃避することが出来る。
傍ら、ずっと心の具合が悪い自分がいたのだ。
しかし、無視していただけで、ずーっとそこにいたのである。
心の具合が悪かったらいけない。
そんな思い込みから、私は随分と自分の心の調子から目を背けてきたのである。
もちろんそれは私の命を救いはしたものの、もっと大きな規模で見てみると、自分の感情を無視していたようなものである。
いいのである、心の具合が悪くても。
なんだか心の調子が悪くて、何もやりたくない時間があってもいいのである。
そんな日があってもよくて、毎日元気じゃなくてもいい。
無が私の友達になって、私の中でボーッとしている時間も増えた。
まっさらな時間が増えた。
その無の時間が破壊されているとき、私は比較に晒されている。
私が誰かの価値下げにあっているとき、私は無から引き摺りだされ、自己肯定感がだだ下がりしては死にたくなるのだ。
それは私のなかで『確固たる価値観』が明確に樹立しきれていないことでもあるんだと思う。
他人の価値観に引きずり込まれてしまうというか。
でも、私のなかで絶対的な価値観が産まれてくる時、きっと私は価値下げに飲み込まれることはないんだと思う。
それは私という価値が他者による何かしらの影響で変動することがないってことに気づくことだとも思った。
私のレイキの技術は、もし誰かにバッシングを受けたとしても技術力が低下するわけではない。
でも、なぜか自信とは面白いもので誰かに否定されると私の技術が低下してしまったような感覚を覚えるのである。
この領域を抜けていくのには『確固たる価値』『絶対的価値』を認識する必要性がある。
それが相対評価的なものでない限り、私には価値下げの影響を受けないのである。
無と在のバランスから、『在』という部分に絶対的価値観が生まれるとき、必ず相対評価的なものが生じる。
絶対的価値観とは自己の中に相対評価が生じるからこそ、出来上がるものなのだと思う。
つまり、自他比較ではなく、自己比較が成立するからこそ、絶対的価値となる。
そのとき、真逆に『無』が生じる。
絶対的価値が生じれば、必ずそこには『無』が生じ、その無を迎合するとき、私たちは絶対的価値そのものと一体化する。
絶対的価値(在)――無価値(無)
っていうパワーバランスが生じ、ふたつを自己の中でバランスをとり、仲良くできるようになると安定するのだと思われる。
私のなかに『私が存在する』という確固たる存在が生まれてしまえば、真逆に『無』っていう概念が生じてしまうのだ。
ゆえに、存在するか、死ぬか――っていう選択が生まれてしまうのが無と在なのだと思う。
存在とは何か――っていうと、自分と自分の比較である。
つまり、自分のなかにふたり以上の人格がある人は存在があるとも言える。
絶対的価値とは「カタチにすること」である。
存在とは「カタチ」である。
いかなるものでも、カタチにすることができ、そのカタチを絶対的な評価をという概念を抜け出すとき、私たちは絶対的価値とも言える。
絶対性を極める感じ。
その存在がカタチとして安定しているとき、私たちは無をようやく迎合できるものではないかと思う。
それまで、どれだけ逃避していようが「カタチ」が出来上がれば、それが私たちがマイノリティーとして生きる土台となるのである。
この絶対という土台が出来上がるまでは比較に晒されている気がする。
自分のなかで葛藤があるってことは何人かいるってことなんだよな。
葛藤がないってことは『絶対的価値』ではなく『相対的価値』になっている気がする。
自分がひとつとして捉えられるから、相手と自分を比較するしかないんだけれど、自分のなかでふたつあるから比較するし葛藤する。
最終的には絶対的価値に到達すると多様性を理解する。
甘いものを甘いと感じ、苦いものを苦いと感じる。これが多様性だと今は感じている。
甘いものが好きで苦いものが嫌い――ではなくて、それぞれの味に価値を見つけられるようになる。
そうすると、美味しいカフェラテが生まれてくるねん。
コーヒーは苦いけれど、ミルクを混ぜてカフェラテにするとちょっとマイルドになって口当たりが優しくなる。
つまり、創造とはそういうことなんだよな。
多様性を理解しなければ、その先に創造は生まれない。
ピーマン嫌いでピザからピーマンを抜くと、なんだかパンチが効かないわけで。ピーマンにはピーマンの役割があるんだよ。
それぞれ皆、自分の役割がある。
その役割が何かがわかると、相手の役割もわかってくるものかもしれない。そうすると、人に優しくもなれるんだと思う。
相手の価値を知れるというか。
ピーマンもトマトといっしょにパスタの上に乗ってでてくる瞬間がやってきて、お互いの価値を活かし合える。
それって、自分が何が苦手で何ができるのかをしっかりと見極めていくことと、相手の苦手と得意を受け入れていくことなんだと思う。
無の自分を受け入れると、評価のない世界がやってくる。その世界では、それぞれが活かしあえている世界でもあるんだと思う。
でも道のりは長いよね。
だって無と向き合うと、死にたくなるんだもの。乗り越えるには確固たる自分を構築しないといけないんだが、相対的なものに飲まれて自分が構築できないんだよ。