自己認識が増えた分だけ自己統合が出来る(ツインレイの両性具有への到達)
ツインレイでは、ずっと統合失調症のような症状が続いている——と書いた。
その過程において『サイレント空間』と呼んでいる空間では、サイレント期間に留まらせていくトリックのようなものが存在している。
それはツインレイが傍にいると言う妄想を始めとして、幻聴幻覚などから「ツインレイはここにいるんだ」と、妄想の相手をツインレイの相手だと見立て、その相手と結ばれていくがゆえに、スピリチュアルと妄想性の違いを認識することが出来ずにいる人たちがたくさんいるのかなと思われる。
この状態のなかで「ツインレイ」を語る人たちは、共同幻想へと陥っている。共同幻想とは、共に幻想を見てしまうことであり、「ツインレイという共同幻想」を起こすことにより、ツインレイという幻想空間を作り出していく。
ツインレイは幻想な訳で、冷静開花が幻聴幻覚であることをツインレイは存在していると盲目的な認知を持って「自分はツインレイである」と幻想を語り始める人多数。彼らによってツインレイの共同幻想が保たれている。
特徴としては再会後も「自分はツインレイと結ばれた」「自分はツインレイである」としているケースが多い。
この『妄想は妄想である』『幻視・幻聴はみない聞かない』としていくには、自分自身のなかに存在しているツインレイへの依存性をすべて断ち切っていくことにある。
ツインレイはもうここには存在していない。存在していないのに「妄想のなかにいる」のであって、過去を引きずったまま先に進むことができないツインレイ多数のように感じられる。これを『執着をしている』として考えられるかもしれないのだが、本質的には「ツインレイのことが好きだった経験の決着がついていない」として捉えるのがいいのかなと思われる。
未消化における感情が存在しているのである。これを私は「トラウマ」と呼んでいるが、このトラウマを克復していくことは、過去を断ち切る勇気と決断を必要とする。過去にすがらず、前に進むのだ! と強い意思が確認されたとき、先に進んでいくことになる。
このときに書いている記事は、洗脳について。トラウマがあると、その弱さに付け込むように洗脳される。たいていが「自分は選ばれた存在である」という選民意識に燃え、使命を貫こうとしている。
ツインレイという洗脳を受けた人たちが、この領域から脱出することができない。
幻想空間を抜けると自己統合が始まる
ツインレイの洗脳を解き、妄想は妄想だと理解したゆえに、私たちは幻想空間を抜けていく。
けっきょくのところ、自分がおかしい状態であることを認めた人から、ツインレイの幻想空間を抜け出していく。
副人格による自己統合
次には『自分のなかに他に人格が存在している』ことに気づくようににある。
今まで、統合失調症の症状として『幻聴』『幻覚』があったが、それが『自分以外の誰かからのシグナル』と解釈されるのが統合失調症である。
幻聴では「ツインレイの彼から話しかけられているんだわ・・・・」とか、幻覚では「恐ろしい何かが襲ってくる・・・・」とかの状態になるわけなんだが、これらが『外部に或るものだ』という概念が消失され、次には『すべてが自分の内部に或るものだ』と理解されるとき、私たちは統合失調による感覚を自分の為に使いこなすことが出来るようになっていく。
単純にスピリチュアルを「しゅごい能力」として考えているのか「精神性について」と捉えているのかによる違いがある。
しゅごい能力だと思っている人たちは選民意識的な「自分はツインレイとして選ばれている感覚」が否めない。
ゆえに、自分が選ばれているわけではない、自分は単なる『どこにでも溢れている人間である』という事実を受け入れたとき、私たちは宗教性を抜けていくとも言える。(キリストさんを現実的に解釈すると、ただの虐待サバイバーじゃんって理解に至ると宗教性は抜ける。じゃあ、宗教って何のためにあるのかの理由も分かる)
自己統合の段階では、統合失調の状態を内側に向けるために、自分のなかに存在している人格たちの声や姿を見ることになる。いわば、その人格たちが私たちの幻聴幻覚を支えていたということもここでは理解も容易い。
人格統合の経緯で私たちは、自分のなかに存在しているトラウマやPTSDやパニック(スピリチュアル的に表現すれば『ハートの痛み』)などに向き合うことになる。ひたすら、トラウマの追従をし続け、己のなかに存在している副人格たちを受け入れることを始める。
今まで自分の外部に存在していた人たちを投影により、己の姿を見て怒り悲しみの感情を繰り広げてきただけに過ぎないことを理解する。
私たちのなかに存在する副人格たちは、その双方によっても仲たがいを起こしていたりなども繰り広げている為、私たちは私たち自身と争い続けてきた事実を知ることになる。
自分のなかに存在している副人格を癒し、トラウマを吸収し、最終的には「いかなる自分をも受け入れる無条件の愛」への到達を迎えるようになる。そこに私たちのなかに存在する副人格たちに優劣もなく、また、勝敗なども存在していない。憎しみも愛もどちらも同等の価値があることを理解しながらも、憎しみの根源にある自己犠牲に触れたりしながら、私たちは心理の真相を理解していく。
愛することの本質を理解していく。
両性具有となるために異性性を自覚する
自分のなかに存在している異性性たる人格は、また『別人格』として捉えるが、これはトラウマにより生じた人格ではない。
トラウマにより生じた人格との違いは「自分だと感じる」のか「自分だと感じない」のかの違いである。
トラウマ人格は声をかけると泣く。愛に飢えているからである。異性性たる人格は無条件の愛に泣かない。
私たちが今まで自己統合をしてきた経緯は、自分という経験から生まれたトラウマたちである。このトラウマにより生じた副人格たちのトラウマが解消され、おおまかに必要最低限ほどに自己統合されると『ひと段落』を迎える。
自己統合の量が約50%以上をしめれば、私たちは精神への興味を抱くことはない。
精神への興味がないがゆえに自己統合はもういいかなと思い始める。とはいえども、この自己統合の量が異性性の人格へ到達するに至るまで——なのもあって、100%の副人格は迎合する必要性があるのかもしれない。
このサインにより、私たちは副人格の自己統合領域を抜けていくことになる。とはいえ共、これからもトラウマがあるのであれば解消し、副人格たちを迎合していくことをやめることはないと思う。
私はツインレイの彼を「抱きたい」と思っていたことを思い出した。彼を抱きたくて堪らないことや、彼を女性として見ている自分がどこかにいたことを思い出した。
私はツインレイの彼と結婚しようねという話をしていた時に「彼を待つ」という腹に決意を括った。これは彼との約束を自分に縛りつけ、私は彼を待ち続け、先に進むことが出来ずにいる原因となった。
それは「彼のことを好きでい続けること=待つ」という仕組みだった。
この副人格の子は、彼のことが好きでい続けることに意味があって、それが約束なのだと言う。
お、思い当たる節がある。そのように私は腹に括った記憶がある。
この副人格が持っている約束を解消していくと、裏側に存在していたのが「男性の私」である。
出会いの当時に「彼を抱きたい」と思った私である。
この「ツインレイの彼を待つ」とは「現実に出会った彼」ではなく、私のなかに存在している男性の私である可能性がある。
いわば「約束をやめる」ことは「待たない」。待たないと言うことは、そこにやってくる存在がいる。
それはツインレイの相手が現実的に戻ってくるのではなく、私のなかに存在していた男性の私が戻ってきたのである。
異性への依存を断ち切ることがキーポイント
私たち自身のなかには『異性へ依存する理由』がある。
そのなかでも、今時分、生きているなかで「将来が不安だから」とか「彼がいないと生きていけない」とか。そんな理由があると、妄想性へと傾倒し、私たちは妄想のなかに存在しているツインレイと結ばれることになる。
理由は、過去には存在していたが、今は存在していない事実を受け入れることができないことが依存に繋がっているからである。
私たちのなかに存在している副人格たちもこぞって依存を示しているケースも多く、私自身も、幻想空間でも「ツインレイの相手を切り捨てていく作業を何度も繰り返していく」ことをしてきた。
彼がいなくても生きていく。その決意が私たちのなかに存在する副人格たちにも必要なのである。
副人格たちがすべての男性依存を断ち切ることができたとき、副人格たちは皆が集まって自己統合を認めてくれた。
次には副人格たちのトラウマに着手していかなければならない。(ので、この段階で人格統合とは言えないんだろう)
ツインレイとは現実的に存在している『異性の象徴』として扱われており、現実に存在している異性に依存しないと決断しきることが自分のなかに存在している異性性を呼び出すことに繋がっていく。
私自身は、自分のへその緒に括ったような「彼を待つ=好きでい続ける」という異性を愛する気持ちは、反転して、自分との約束を守り続けていたにすぎず、彼との約束ではなく、私のなかに存在している男性人格との約束である。
私たちのなかに存在している『男性の自分』と『現実に存在しているツインレイ』は、別の存在である。
この理解をするためにはシャドウの克服が必須である。
この世とは、自分のなかに存在している人格の投影により生きている人たちもいれば、自分のなかにある人格を投影することなく生きている人たちもいる。
後者は統合者であるか、または無知者である。
私たちは自分の存在を誰かに投影することで学び、成長するようになっている。常に自分自身と向き合うことから逃げられない。それが常である。
しかし、人と向き合い己と向き合う。そして、己のみで向き合う。の順序を経ていくことにより、最終的には己の全領域を把握することで他者を自己投影することなく向き合うことが出来るようになる。
ふと、数日前に、彼は私のことが必要ないんだよなって思った。
それはもしかしたらいつかの私にとっては絶望だったかもしれない。だけど、今の私は平然とその事実を受け入れている。
今日は、私が彼のことを必要としていないことに気づいた。
実は『彼は私を必要としない』と思っていた内容は投影に過ぎなかったのかもしれない。
だから、私は彼を必要としていない。いらない。
結局は投影に他ならない。
相手がこのように思っているだろうと言う思い込みが生まれたとき、私たちのなかには投影がある。
投影は弱さとも言えるのかもしれないが、単純に無知なのかもしれない。知らないだけ、それが「思い込み」ってことを。
私のなかで「私の男性人格=ツインレイの彼」だと思っていたが、違うという方程式がたった。
この方程式がまだ慣れないんだが、とりあえず「別の存在であること」を理解したことが第一歩である。
私のなかに存在する男性性は、私のなかにしか存在していない。投影はなされない。
私は「私」である。