コーザル体で理解する因果応報(憎しみという責任転嫁)
幼少の頃から、あんまりいい環境で育った訳ではなくて。教育って意味では劣悪だったんだなと今では理解している。
ただ、親を恨むということはなかった。
今回、コーザル体の出会いを果たして、全体的に見ると前世による因果応報だなと思った。
生まれそのものも因果応報だな、と。
私は『自分の身に起きるすべてが因果応報』みたいな感じで教えられている。
だから自分に起こる不幸は、たいてい前世、自分がやらかしてるんだろうなって思ってる。
目を瞑ることが多いのはそれが理由にあげられる。
自分がやってることがやり返されているのが今生ってこと。
私が家族のなかで犠牲っていう立場にあるのも、師匠からは前世で家族を省みなかったんじゃない? って言われて「なるほどー( ˇωˇ )」って思ってた。
やって、やられて――。という循環が生じるとき、私たちの分離人格が反応するんだが、やり返すというのが一番にいけないなって思った。
やられたらやり返す。次にまたやり返される。っていう因果応報が成立する。
つまりしっぺ返しにあっても構わないからやり返すのである。
単純に『自分は犠牲者だ』っていう意識は『前世にやらかしましたので、今生にてしっぺ返しにあってます』ってだけの話だったりもする。
つまり自己犠牲をした量っていうのは、前世のやらかしを全部、無にかえす作業だとも言える。
自分がやらかした前世の罪を許します。
そんな意識が自己犠牲の姿勢にある。
宗教で自己犠牲が喜ばれる理由はここにある。でも、その犠牲が意志の元でなければ、それは犠牲ではなくて加害者を憎む被害者でしかない。
ただ、まだ輪廻のなかにいるとき、人はまだ憎しみ合ってるんじゃないかって思う。
加害者と被害者の関係性。
だって自分が前世にやらかしたことが現世でやってきて、その罪を憎んでる。それが前世の自分が許せないってことなんだと思う。
だから前世の自分を許すっていう領域がコーザル体では求められている。
それは現世で起こり得る、すべての現象に対して許すこと。
親を許し、兄弟姉妹を許し。出会う全ての人を許す。
許せないのは、家族でもなければ、出会うだれかでもない。
ただ前世の自分が許せないっていう感覚を教えてくれているのがコーザル体。
憎しみは何も生まないという。でも、コーザル体に繋がる憎しみは悪縁を生み、輪廻を生み出すのである。
ただ表面的に許すことではない。物事の本質を理解した時、私たちは誰かを許すようにしながら自分を許すのである。
許したいと思う気持ちがあれば、コーザル体に繋がれると思う。でも許したくないなら、許さなきゃいいと思うんだ。
ホントのところでの理解がうまれるまで、やってやられて苦しみながら、そのなかで他者の中にみえる自分の苦しみに気づく時、私たちはコーザル体につながって輪廻を断ち切りながら許す以外の道はなくなる。
だから、許すのが『今』ではないだけで、でもいつかは許さなくちゃいけないときがくる。それが大人になることでもあると思う。
誰かを許せない人がいてもいいんだろうなって思った。
誰かを憎んで生きて、来世にふたたび誰かにやり返されても、それが当人の望みだったりするのかもしれない。
いや、まったくそんなことはないとは思うけれど、許せないことに苦しんでいるんだとは思う。
許せないのが自分であることに気づけるまで、人は人を許せず、人を認めることができない。
人は生まれて育ち、死ぬまでの期間に、多くの人たちに囲まれているけれど、自分にはどうしよもない年齢から、因果応報は始まっているんだと思う。
というか、コーザル体には個人の年齢なんて関係がない。人の人生は一瞬で終わる感覚がコーザル体。
因果応報も人生の全てに通じるように存在している。それは人生かけて最初から最後まで苦しむ内容ってことでもある。
私の場合、たーぁんと詰まっているがゆえにメンヘラ化している。
ちなみに個人的な感覚でも、私が途中で師匠に出会うこともなければ、今ここでブログ書いてるよりも、布団の中で寝込んでいたと思う。
そこから再起復活したことは、こたび輪廻終わらせるっていう方向性だったんだとは思う。
私は今生で人を終わらせるつもり――とたびたびいうけれど、私は因果応報を全て受け取って浄化し切るつもりなんだと思う。
やりきれるかどうかは別だけれど、生まれたときから背負っている。子供時代に構築されたアイデンティティは全体的に因果応報にて構築されていると思う。
だから私がメンヘラであったことも因果応報って考えるのが妥当。
これがコーザル体視点。
私が自己犠牲的であり、人を許し続けているのも、憎しみに囚われないような人生を送っているのも、全体的にコーザル体の因果応報を全力で受け取り続ける姿勢なんだと思う。
でも、今回、たどりついたのは。
私の罪じゃないものまで背負わされていくことだった。
自己犠牲も自分が背負うべきものをすべて背負い終えると、最後は、本当の意味で自己犠牲となって、自分の罪では無いものまで背負うんだなって思った。
押し付けられるというか。
それは道理に反することを学ばないといけなかったなと思った。
でもそれもまた、自分の姿の側面だったと思う。
自己犠牲をするものの、そこに憎しみに蓋をしようとも、憎しみが存在する限りはコーザル体の視点では責任転嫁でしかない。
意識では憎まないようにしていても――だ。
で、今、この憎しみによる責任転嫁をやめようよっていうターンに入っている。
憎しみで責任転嫁したぶんだけ、来世に持ち越されるって話。
母娘の間では憎しみの継承を行っている。