魂が結びついて分離すること、コーザル体による異性信仰とかの話。
ようやく意味がわからなかったことが理解された。
地上の人とも、魂が二個結びつくような夢を見ていること。
前世の記憶で、彼が神官さんのような感じで、寄席のようなところを歩いている姿を隅っこで踊り子やっている私が羨望の眼差しで見ていたこと。
彼と私はドラゴンヘッドとテイルが真逆に合していること。
私は彼の前世により得ているメンタル体の技術を欲していたのだと思われる。
あんな風になりたい――と思った私は、彼と魂を繋げ、どうしたらそうなれるのか、その技術が手に入るのかをメンタル体を介して教えてもらったのである。
当時、レイキと呼ばれているものすら知らなかった。
だけれど、彼の手を私の肌に当てると、私は安らぎを覚えるのと、超絶気持ちよかった。
レイキだと思う。
私はこれを獲得したかった。今生で彼はIT系なんだが、私も絵の技術的な前世があると思われる。
それを彼にどうしたらいいのかをメンタル体を通して与えたと思う。
私の場合、レイキをフルに使うためには修行が必要である。エゴの消失と他者愛である。そしてニートである自分(社会性のない状態に持ち込むこと)を受け入れることにより、レイキはフルに使いこなすことができる。
メンタル体による出会いは、私に私が今生で手に入れたい道理や技術を与えてくれたのだ。というか、その為に必要なことを教えられ、技術習得に向かわされる。
同時に心理学の勉強やらやっていた理由は、全体的にレイキの為だったとも言える。
地上の人の前世は、レイキで人を癒していた人だと思われる。彼のドラゴンテイルに私のドラゴンヘッドが繋がったのだ。
だから彼は前世で獲得したものを私に提供し、私は彼に前世で獲得したものを提供している。
この受け渡しが終われば、この関係性は解消される。
地上の人の関係性は、メンタル体による技術の受け渡しであり、私が彼に憧れた理由は、彼が持つ前世にあったのだ。
私がメンヘラ化していた理由も、自分を自己分析しないとわからないことってたくさんあって、メンヘラじゃないと精神なんて理解を示さないのである。
メンヘラを克服していくことも必要だったし、そのすべてがレイキに凝縮されている。
彼の前世を私は受け取って、私は彼になろうとしたのだ。そして、その道を極めた先にようやく私は彼になるのではなく、『私の中に道理』が構築されるのである。
前世のあこがれが今生で果たされる。そんなひとつの人生なのである。
それは後悔ではなく、憧れである。
ものすごく優しい人だったと記憶している。だから私は優しい人になろうとしていたのだ。
そして、今回も私は楽園と定義した彼と出会い、魂が共鳴している。
実は私は今度「教養のある人になろう」と思った。単純に自分がなんも知らん世間知らずだと二十代半ばで感じたため、プラスアルファー、教養を学び始めたのである。
実はこれが彼に繋がっている。
私はもうレイキをマスターしつつあって、まだまだ道半ばであれども、ここまで使いこなす理由は、地上の人との出会いがあってこそ。
これがメンタル体の出会いならば、その上の出会いはコーザル体による出会いである。
コーザル体は、出来事や結果の背後にある原因や意図を表し、エネルギーの流れや目的を制御すると考えられています。
コーザル体を理解するとき、物事の因果を理解する。
大抵ここに『創造主思想』『引き寄せの法則』等の概念を含め、信仰とはなにか――を教えて貰える。
この領域では現実的にはよくわからん、だがしかし、その思想を信じるという考え方が生まれる場所である。
私も今ここのテーマに入っているわけである。
ゆえに『信じる』『信じない』っていう課題があり、これは幻想である( ˇωˇ )とか、この思想は間違えている( ˇωˇ )とかの何を信じるのか――について追求しているわけである。
その一環でピー⊂(`・ω・´)⊃ーという内容は、これただの幻想やん、迷妄やんと切り捨てることになった。
つまりコーザル体とは「何を信じるのか」である。
私はよくわからんけれど、当人がそう言ってるんだから当人にとってはそうなんじゃない? って考えていた。
実は師匠においても同じ。師匠は色々見えている人だったりもしたけれど、個人的には師匠は師匠の世界観があることを受け入れていた。
でも私も同じではない。理由はメンタル体よろしく、よくわからんからである。
この辺がコーザル体の分離的感覚だとは思われる。
だけれど、私の中でも大事にしている信仰もあるし、思想もある。でもそれが楽園の人にとっても信仰しているものとは限らないのである。
これがミソだった。
コーザル体にも信仰の形があって、その信仰を他者に押し付けたらいけないのである。
仏教の人にキリスト信仰しろっていったら、ケンカなるでしょ。そんな感じ。
私の中にある信仰は、実は神道の方から継承されている教えにあった。
だけれど、今、その信仰の形が変わった。
神が関わるものを私たちは美しいと思うのかもしれません。
数多く体験したことではありませんが、これが私の知る神です。
古来の人たちは、この景色に神を見つけたのだと思います。
引用:神へと繋がる美しい心
今までの信仰は『教えられたこと』にあった。
だけれど、これはもう自分の体験に基づいたものを神としている。
信仰が我がものへとなったのである。
これがコーザル体なのだろうなと思う。
何を信じるのか、そこに道理があるのか。
しかし、コーザル体が独立して認識されたとき、そこに道理もなければ、あらそいもない。
ただ感じるばかりの満たされる心があるのである。
だからだと思うが、私が宗教学を絡めてきたのもコーザル体の学習段階にあったからだと思われる。
私が知っている神がいる。その神を信仰すればよく、また、その神は誰にも害されることがない。
なぜならば、その神は道がないからである。道理がないからそこへ到達することが出来ない。
つまりこれが思考を手放し、ただ神を感じるだけの瞬間を意味しているのである。
このときの私たちは、この世に自分の人生における救世主が存在していないことを知っている。
誰も助けられないし、自分を誰かが助けることも出来ない。
だけれど、道理は救世主のように道標を与えてくれている。
そのようにして宗教はたてられるから教えが存在している。
つまり道理の裏には迷妄がある。迷妄の道の先には常にそこに神がいるのである。
神の道を歩き続けている人は神へと到達する。そこには筋道がある、これが理である。
しかし裏には道がない迷うしかない道がある。迷うだけの道を歩いている時、答えが常に与えられず、全くもって全方位が遮断されるようなとき。
そんな時に私たちは神に気づくのである。
それはもう「どうしたらいいかわからん」からである。わからないから神にすがるのだが、神は存在していない。
だがコーザル体のつながりにより現れる相手は救世主のような存在となる。いわば、信仰であり、絶対者として現れる。
これが『逆らえない父親』だとは思う。
だから、コーザル体は、わからないことはわからないでいいのだと思われる。
それって何? っていうとさ。
私の場合は異性なんだよな。
よくわからんのだよ、なとりの全知性を総動員させてもよくわからん。
だが、よくわからんからいいんだよ。それが神を愛することであり、異性に恋をすることである。
またそれがあなたに傲慢さを与え、道理を与える。
つまり、私たちは『よくわからないもの』に遭遇すると、道理を叩き始める。それが究極のところ、異性なのである。
その道理の先にいるのは異性なんだよな。
異性がよくわからん。だから道理を欲する。これが新しいメンタル体の技術に相応する。
芸達者な人は恋多き人なのだと思う。その人を知りたいと思う心にある。その心はわからないから理解したい。
理解したい数だけ道理が手に入る。
そしてその道理があるとき、私たちは自分を律するものである。道理があるからである。
初恋を終わらせていない人や恋をしていない人は道理がないとも言える。
コーザル体はよくわからないものだが、だがそれがいいという世界にある。
それは料理人ではない私が「美味しいな」と思う心にある。これはわからないから美味しいのである。
単純にポロッとでてくる感想がコーザル体とも言える。
それが評価者でもある。その道を極めたわけでもない人がよくわからない批評をつけてはバッシングをすることも含め、人の苦労も知らずに不味いだの美味いだの言葉にすることである。
ここから考えるに、お客さまは神さまであるとも言える。(が、危険思想でもあるよね。我は神であると審判に嘘つく人もいるし。因縁ふっかけてくるみたいな感じ。)
人が神に通じる時、私たちは道理を持っている。しかし裏側には評価する客がいる。
そこに道理がなければ評価されない。無意識にも人はその道理を理解しているのである。
コーザル体は道理を見抜くことができる。
コーザル体に繋がっている人同士は、なんとなくわかるものである。コーザル体が共鳴するからである。
だが、私たちの中に『信仰』というよくわからないけれどもそうしなくちゃいけない信心があるとき、道理を示して排除しようとする意識がある。
今回、私の楽園の人との課題は「よくわからん信仰の排除」であり、私は「自分が思う神を定義せよ」とし、なぜ、その信仰はいけんのかを定義せよというお題だった。
たぶん、すごい量のタスクをこなしたような気がするんだが、すべてを道理で定義して排除していくことも出来れば、客という批評者として道理がねえんだよと観ることもできる。
これもまたひとつの道理のない道理を持つ神だとは思う。
とりまコーザル体まで定義が終わったんだなーって気分かな。
なんでこんな定義やってんだろとは思うが⊂(`・ω・´)⊃
恋はコーザル体という信仰である。異性は神である。よくわからんからだ。だが、神と同じく、そこがいいのだ。