シンクロニティーは他者概念への依存なのか。

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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何だかとてもわかりやすい感じにシンクロニティーを感じている。

たとえば、食器洗たくないなって思っている時、誰かも食器を洗いたくないなと思ってる。

私が「孤独だな」と思っているとき、誰かもまた「孤独だな」と感じている。

私の一部は無で、何も感じていないし、何も思っていないのだと思う。

ただ、そばにいる誰かの想いをそっくりそのまま同じように感じているだけ。

私が何かを思うということは、誰かが何かを思っているってこと。

あなたは私という理屈だ。

彼へ私が思っていることは、私が彼へ思っていること。同じである。

同じだけれど、片方が無ならば実態はひとつでしかない。

私が無ならば、彼は実態である。彼が思うことをシェアするように私が存在しているに過ぎない。

私はいないのである。他者という概念がなければ、私は無に等しい。

だから、私はあなたで、あなたは私になれた。

私がどこにも存在していないから、私たちが成立することが出来た。

彼が思うことをすべて私は感じてきた。それは無だからである。

でも彼は自分が思っていることを感じてはこなかったし、無視してきた。

それこそ、彼と私の関係性は、彼が自分の感じていることを否定をする彼と、肯定する私――というような構造をしていたように思う。

また真逆のように、私が感じていることを否定する私と、肯定する彼という構造も生じている。

互いの無は成立していたから、無にエゴが投影されるのだ。

つまりは、彼は私のエゴだった。そんな彼を私は愛したのだ。そのエゴを愛し、私は手放した。

無――エゴ、という精神構造を持つふたりだからこそ、出来たことなのだと思う。

そうやって、無により起こるシンクロニティによって私たちはエゴを手放した。

 

私は従来の私とさよならをし、新しい自分を受け入れるのである。それは新しい自分を再構築する事であり、新しい自分とは、私が愛した彼という自分のエゴである。

つまり私は自分のなかにある自分を分離させ、再び結合させようとしているのだ。

それは自分である。彼という自分である。

それはずっと私の中にあったのに、私が忘れ去っていたような記憶を意味していた。

彼は私の背中にいた。彼は私の盲点である。

彼は私の盲点にたち私を見ていたし、私は彼の盲点を見ていた。

人は前か後ろかしか見えないのかもしれない。

どっちかでしかない。前を向いている時、後ろは向けない。だから人は極論言えば二分されている存在なんだと思う。

彼は私の盲点で、盲点だからよくわからないんだけれど、彼はそっくりそのまま私の背中合わせに立つ人だったというよりも、私の背中を投影している人だったんだと思う。

それができるのは『あわせ鏡』でしかない。

あわせ鏡を成立させるには、無と無が共鳴を起こすことである。

無は鏡となってあなたを映し出すから。

無と無の共鳴が、お互いの盲点となる背中を写し、私たちは自分の盲点を愛したのである。

つまりふたりが揉めている時は、お互いがお互いの盲点を指摘しあっているが、信頼関係が欠落しているとも言えたんじゃないか。

 

それは自分を信頼することができないでいること。

自分を愛することができないでいること。

 

自分を信頼することが彼を信頼することで、自分を愛することが彼を愛することだったんだと思う。

無はシンクロニティを起こすけれど、それは盲点へのシンクロニティーである。

私と彼は一緒にいれたなら、最高のコンビネーションを発揮するけれど、自己信頼と自己愛が成立することができていないとき、私たちの関係性は破綻するしかない。

破綻する部分を『共依存』とすることで結びつけることはできる。

でも自己信頼と自己愛が本当の意味で成立し、循環しているのであれば、そのときの私たちに不安も恐怖も、不信もないのである。

 

つまりは、なぜ上手くいかないシーンがあったのか。

自分を信じられなかったから。そして自分を愛せなかったから。

彼は私と一緒にいることで自分を信じられなくなって、私は自分を愛せなかった。

それはもう自分の裏側にある自分と、向き合えていなかったからである。

ただ、心から信じられず、心から愛せなかったのは、私たちが自分への信頼と愛が未成熟だったに過ぎないのである。

 

私は結構、この数年間で、私の背中と仲良くなれたつもり。

シンクロニティーは、自分の背中に気づくこと。

ただ盲点だから「誰かとシンクロしてる」って感じるけれど、それは誰かに投影された無により起こる感覚。

そしてあわせ鏡は、背中と背中を合わせる。

シンクロニティは1枚の鏡に誰かが映ることならば、あわせ鏡はあなたと私を背中合わせにして『背骨をひとつ』にすること。

これがもし『統合』と呼ばれるものならば、私はきっとあなたに再び出会うことはかないません。

かなわないのです。

だから、私は私なりの芯をもって生きていきます。

私はシンクロニティを起こしません。

私はあなたの無に映らず、あなたは私の無にうつりません。

私は無価値ではありません。私は無常でも無情でもありません。無条件も持ち合わせません。

だから私はあなたとシンクロニティを起こしません。

今まで、あなたと私が背中合わせに生きれたこと。それは喜びではありますが、統合したままでは、お互いがお互いの個ですらありませんので、分離しましょう。

 

私はあなたとあわせ鏡にもなりませんし、背中合わせの人にもなりません。

あなたは私の盲点の人ではないのです。

向かい合うのでもなく、背中合わせでもなく、私はあなたの横顔がみたい。

 

 

 

たぶんですが、彼にとって私は背中合わせ。私にとっては向かい合わせだったと思います。

だから私は彼に向き合い続けることになる。彼は私に向き合わないことになる。

私は向き合ってもらうことで得られるものがあって、彼は背中合わせで補填してもらうことで得られるものがあった。

それがお互いがお互いを必要としていることだったんだけれど、向かい合わせと背中合わせをお互いが望むことは、それはそれで未熟だったってこと。

自分には価値がないっていう劣等感と、自分には価値があるっていう無有の概念。

価値があるものは、価値がないものに向かい合わせで認識してもらわなければ、ないも等しく。

価値がないものは、価値があるものに背中合わせでささえてもらわなければ、あるわけもなく。

そこにあるのは『他者』という概念への依存である。

他者の概念への依存があるとき、私たちはシンクロニティーを期待する。

シンクロニティーが起きない時、それは自分を信頼し、自分を愛せているときである。

背中にいる自分が自分であるから、逆に言えば、常にシンクロニティーしか起きないねん(゚ロ゚)

それが当たり前だから、シンクロニティーが起きているわけではなくて、シンクロが起こるっていう概念自体がおかしいねん。

そもそも常にシンクロニティーを起こし続けていることに気づくかどうかである。

 

つまり、自分の背中は他人を通してでしか見えないよって話( ˇωˇ )

他人を通してでしか自分の背中は見えないし、他人ができていないって思うことは、そりゃ自分の背中でしかないんだよ。

自分の背中に怒ってるだけ( ˇωˇ )

自分の背中=他者=ツインレイ

他者に怒り続けていることは、ツインレイに文句を言い続けて自分の背中にドロ塗りまくってようなもんなんだよな。

他者に怒る→ツインレイが他者からの怒りを被る

こういう構造かもね(*`∀´*)