創造主の肝、無有の概念
Kindle版
さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
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タイムラインが2本あるって話なんだけれども。
ここで、自分のタイムラインを『無』とするか『0』とするのかの違い。
そもそも「ない」のか。
それとも「あるものがない」のか。
無:1
と、
1-1=0:1
では意味が違う。
創造は『無:1』のほうになっている。こちらは『無』のタイムラインに『1』を統合することができる。
そもそもない部分だから統合が出来る。
だけれど『1-1=0:1』だと、『あるものがない』だから、そもそも最初に『1として存在している』がゆえに『あるもののところに上書きは出来ない』ゆえに、1を統合することができない。
だから『無』を認識しなければ、創造ができない。
で、この『無』が自分のなかにあるかどうか——である。
でも人は、思考を持っているから「1-1=0」という方程式を立ててしまう。
あるものがないって認識してしまう。
たとえば、自分の理想の人はいない。という感じで「理想の人ー理想の人=理想の人はいない(あるものがない)」という方程式が出来てしまう。
「理想がない」と「理想がある」の部分で分岐がないといけない。
それは「自分のなかにそもそも何もない」から「もうひとつのタイムラインにある」って状態が生まれる。
これが「手放し」とも呼ばれているものなのかもしれない。
そもそも自分のなかには何もない。何もないということは、もうひとつのタイムラインに『有』というものが成立する。
このもうひとつのタイムラインに『有』けれど、自分のほうには『無』から、無+有(1)=1ということになる。
無+理想の人=理想の人
ってことだな。で、これが『統合』という概念だと思う。
タイムライン1(無)+タイムライン2(有)=統合
というのも『何もない』部分には『統合が出来る』んだよな。
お皿の上にケーキがのせられる。
『どちらにも何かがある』ならば、統合ができない。
お皿の上にケーキがのっていれば、ケーキはのせられない。
片方が『無』ならば、もう一方を統合させることができる。
お皿の上にはケーキがないから、ケーキを乗せられる。
でも「お皿の上にケーキがのっているかもしれない」可能性があるならば、ケーキはのせられない。
無とは『可能性がない』ってことで、可能性をひたすらすべて潰せってことなんだろうなと思った。
何も考えられないぐらいに、可能性をひたすら潰しつくせば、人は『無』になれる。
最後に「お皿の上にケーキがのっていない」という確実性が生まれたとき、私たちはようやくケーキを乗せてもらえる。
つまり、ツインレイって「片方が空っぽ」だから統合が成立する。
統合とは「ない」をしつくした先にあるんだと思う。
それは「ない」「ない」「ない」と、すべての世界線を潰し尽くせば、その先に「ない」からこそ「ある」という提供がある。
ただ、人には思考がある。その思考が「ない」ことを受け入れられないから、お皿の上にケーキを乗せてもらえない。
もしかしたら、お皿の上にケーキがのっているかもしれないから。
でもさ、それいつの話? 過去の話? 未来の話?
「今は、お皿の上にケーキが乗っかってないよ?」ってことが大事なんだけれど、人は思考するから「お皿のうえにケーキが載っている可能性」から、お皿の上にケーキをのせたがらない。
だって「あるかもしれないから」である。
いや、ないんだよ・・・・・・・。