彼は裏切り者ではない。愛による再会について。

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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私のなかで「裏切者、地獄に堕ちろ」って言葉あったことを思い出した。この言葉の真相を未だに理解は出来ていない。

ふと、彼は私を裏切っていないと信じたい気持ちがあることに気づく。

私は私のなかで「彼を信じる」ことをし続けてきたが、正直なところ、彼がどんな気持ちなのかがわからない。

あのときもどんなときだって、彼の気持ちを「信じる」ことしかできなかったのは、彼の気持ちが見えないからである。私のなかではソースがないっていうか。経験がない気持ちは知ることができない。

知ることができない気持ちがいっぱいあるから、彼の気持ちを「信じる」しかなかった。

正直、信じるって苦痛だった。

それは、自分のなかになにひとつ確信もなければ確証もないなか、ただ闇雲に信じているだけ。

ただ「私が信じるって決めたんだから信じ切る」っていう信念で乗り越えてきただけの関係性だった。どんなことがあっても、私は彼を信じる。したならば、私のなかにある不信がひたすらでてくる状態が続いていた。

だからこそ、私は「理由もないのに、信じている」っていうむやみやたらなやり方をしていたいに過ぎない。

ここでなにかしらの確証があればよかったんだけれど、確信も確証も、なにひとつ確かなものがないなかで信じていただけ。

今回、サイレント期間で、彼の視点というものを理解していった。

彼が持つ被害者側の視点でもある。だからこそ、彼も同じように私がよくわからなかったんじゃないかなと思う。その視点側からすれば「何やってんだかよくわからないし、信じるしかない」ていう世界で私を信じていたのかな、と。

つまり「同じだった」んだけれど、でも、同じとは思えなかった。話すこともあんまり出来なかったし、ただ自分のなかにある「信じる力」だけを行使して関わっていたっていうか。

最終的に、彼の視点を手に入れて、尚、私の視点が加わってみると。やっぱり、私は「彼は私を裏切ってない」んじゃないかって思うんだ。

それは真逆の彼の視点でありながら「裏切る——裏切らない」という二軸ではないっていうか。

信じていたのに裏切られた——ではなく、ただ、愛していたから裏切ったっていうか。

私の思いと同じだったんじゃないかなって思うんだ。

現象だけに囚われてみると「裏切り」に見えるんだけれど、その裏側にある心理はやっぱり相手の言葉を聞いてみないとわからないものだよなって。

サイレント期間、彼もまた、私が「裏切ったのか」「裏切ってないのか」については甚だ疑問で、よくわからなかったじゃないかって思う。

だけれど、裏切っているわけではないんだと思う。

なんだろう。たぶん、裏切りというのは現象をそっくりそのままひっくり返すと、そこには『悪意』がある。

では、ふたりには悪意があったのか。悪意はなかったんじゃないかって思うんだ。

そこに「悪意があった」と思うのは、被害者意識である。

しかし、彼が私に悪意を向けるとは思えない。とても善良な人だったと思うから。

裏切られたと思うのは、そこに悪意があったという思い込みがあるからであり、でも、悪意なんてないなら「あの別れの意味は」と考えてみるけれど・・・・・・・。

彼も同じように考えていたんじゃないかなと今ならば思う。

彼もちょっとメンタルやられてて、このままいっしょにいるのは共倒れだなんて考えていたんじゃないかな、と。相手も同じように思っていたかもしれなくて、私の方では「相手がどのような状態なのか」が見えないからこそ、わからないっていうか。

インターネット越しってそういうとこある。相手の状況が読めないから、わからない。だからこそ、混乱するっていうか。

 

だからこそ、私は彼は私を裏切ってなどいないと思う。

そして、私は私の未来を信じている。未来の私は幸せだと言っていたんだから、それが「事実」だと思う。

私の未来を信じることは、彼を信じることでした。

彼の言葉をすべて丸ごと信じ切ることが、私の未来を信じることに繋がっていて、正直なところ、すごく不安定なところに立たされるんだろうし。それでも、私の未来を信じることは、彼を信じることです。

その選択は、賭け事みたいなところもあるんだけれど・・・・・・、だからこそ、怖い。

でも、私の明るい未来を信じることは、彼を信じることだったと思う。それは「彼の言葉を信じる」こと。

 

信じるってどれを? って思うけれど。誰の言葉を信じて、誰の言葉を信じてはならないのか。

そのあたりさっぱりわからないんだけれど「誰の言葉を信じるのか」によってもかなり結果が違うのかなと思った。

それは「その人が裏切っているのかどうか」であって、裏切りとは裏に悪意があるってこと。

彼に悪意があったのであれば、私は彼の言葉を信じてはならなかったんだと思う。

だけれど、彼に悪意はなかったと思う。そこには愛があったと思う。

悪意とは何か。悪とは何か——である。

私はここで『悪意』について定義がしたい。

悪意とは、あなたを陥れようとすること。あなたを利用しようとすること。あなたを傷つけようとすること。あなたを尊重しないこと。

悪とは「相手を私利私欲のために利用すること」だと思う。

それは、あなたのお金目的であること、あなたからの承認目的であること。あなたを傷つけることで自尊心を保とうとすること。あなたを利用して何かのメリットを得ようとすること。あなたを道具にして自分ばっかり良い思いをしようとすること。

それは、あなたである必要性はないこと。それが道具って意味。

ここに私は『悪意』を感じる。すべてが「自分の為」である行為に、誰かを犠牲にしてまで自分の為のメリットを得たい。ようは誰でもいい。自分の目的を果たせるならば、誰でもいい。

話を聞いてくれるならば誰でもいい。サンドバックだって誰でもいい。

そんな人たちのなかに私は悪意を感じる。

そして、最近もあったんだけれど、私は私をバカにする人が嫌いだなと思った。そんなつもりはないんだろうなと思うんだけれど、そんなつもりがなく、どうして人を馬鹿にすることができるんだろう?

そこには『心』がある。人を見下すような発言を私は「なんだこいつ、うぜぇ」と思っている。

私はよく見下される。理由はしらない。私は誰かを否定することもなければ、誰かを陥れようと思わない『善良な人』である。

そして、善良であることは「見下される」ことではない。問題はそこではない。

残念ながら、善良であることが誰かに見下される理由にはならない。ここには相関性がない。

私が見下されているのは、私が善良であるからではなく、当人たちのなかに「悪意」があるからである。その悪意が私を見下すのであり、私が善良であるから見下されているわけではない。

つまりは、そこに悪意があるからこそ「見下している」のであり、善良である私のせいで誰かが悪意を持っているわけではない。

善があるから悪があるのでもなく、悪があるから善があるのではない。

ここに相関性があると思ってしまっている時点でアウトだったんだなと思う。

善悪とは表裏一体ではない。善と愛が表裏一体なのである。

だからこそ、このように思う。

私は、彼との別れという現象を『善行』だと思う。その裏側にある『愛』があるからである。

その別れが『悪行』であるとき、その裏側にあるものは『裏切り』である。

愛は再び繋がれども、裏切りの裏では『切る』がある。裏では心が切れているということ。繋がれない。

愛と裏切りは二極化している。

どこかで裏切りがあるならば、それは断たれる。結ばれない。

でも、どこにも裏切りがないのであれば、それは再び結ばれる。

今までは「裏切りが結ばれていた」ってだけ。

そして、そういう人たちを見てきたけれど、これからは「愛が結ばれる」。

下々の民共、喜べ。

そういう「心が満たされる時代」がやってきた。今は切りかわり。

 

縁結びは、切れているものを結ぶ。

しかし、愛は縁結びではない。そもそも切れ目などないからこそ「愛」なのである。

そこにもし「愛」があるならば、それは切れてなどいない。

しかし、愛がないのであれば、再び結びなおす必要性がある。

結びなおした紐は、解けることもある。これが裏切りによる結果である。

誰かを裏切った瞬間、縁は切れるのである。それは悪意があるかどうか——である。

悪意があるものは「切れる縁」であり「結ばれる縁」である。

愛とは、そもそも切れ目など存在しないものである。

切れ目が存在していないからこそ、何度だって出会うのである。

 

人と人との縁には裏切りが生じる。

しかし、魂との魂の縁の世界に「裏切り」など存在していない。

だからこそ、本当の意味での『結び』とは、切れ目のないことを意味しているのではないかと思う。

糸が吉であること。それは切れ目のないものであり、誰かが結べるものではないこと。

魂の世界で、ツインレイであれども裏切りは存在しない。懐疑も存在しない。

「愛があるだけ」である。

愛とは切れ目がないことであり、裏切りも存在しない。裏切りが存在するのは「人であるから」である。

人と人の縁は、どこかで裏切りがあるが、魂の縁は裏切りは存在しない。

それが「いつ、いかなるときであれども」そこにあるものすべてが愛で満たされているものである。

 

しかし、人はいくらでも言葉で偽ることができる。

だからこそ、それが本当の愛かどうかなど、死んで棺桶に足を突っ込んでみなけりゃわからない。

 

魂として生きるとは「裏切りのない世界」であり、人として生きるとは「裏切りのある世界」となる。

魂として覚醒するとは「人と魂の違いを認識すること」でもあると思う。

人は裏切る。でも、魂は裏切らない。だからこそ、魂として生きることは、人を裏切ることがないことである。

魂として覚醒していく人は、人を裏切ることはないが、多くの人に裏切られることになる。

 

裏切りには裏切りとして向き合うしかないのかなと思っている・・・・・・とこ。

「自分だけだったんだな」ってことだな。目が醒めちゃう、魂としてね、目覚めちゃう!