私のなかにいるルサンチマンを退治するには。
Kindle版
さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
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ルサンチマンとは、
「貧しき者こそ幸いなり」「現世では苦しめられている弱者こそ来世では天国に行き、現世での強者は地獄に落ちる」といった弱いことを肯定・欲望否定・現実の生を楽しまないことを「善い」とするキリスト教の原罪の価値観・考え方、禁欲主義、現世否定主義につながっていったキリスト教的道徳はルサンチマンの産物と主張した[3][2]。
という哲学的な考え方なのだが、実際、なかなか難しい。
私が今時風に変換するとしたならば「自分を不幸にやつが憎くてたまらない。あいつらは来世は地獄に落ちるだろう。」って感じだろうか。比較して、自分たちは苦しんでいるがゆえに、天国にいくことができる。そんな心理をうまく利用してキリスト的な道徳を構築している——としている。
キリスト教的道徳——ルサンチマン心理
ってことで、どちらかが欠けても、成立し無い関係性としている。
さて、私も自分のなかに「姉への恨み」があるわけで、私を散々傷つけ、しかし、傷つけがゆえに私がどうなろうがどうでもいいという姿勢に対して私は「良心の欠如」「不道徳的」「共感性の欠落」と考えるわけなんだが、これこそ、キリスト教的道徳なわけである。
この状況を打破するために「姉のどこが嫌なのか」についてを片っ端から上げてみて、それはすべて自分自身のなかに存在していると認めていく。いくばかこれで姉への嫌悪感は多少なりとも軽減するところはある。
そして、根底には『恐怖により自分を押さえつけたことへの恨み』があるわけである。そもそも、そこには『恐怖』が存在しているがゆえに恐怖を再び体感するわけなんだが、これがまたシンドい・・・・・・・。こんなにも怖い思いをしていたのに、当時は『怖い』という感情を感じてしまえば、生死を問う為、恐怖を感じることすら出来ていなかった。(これが複雑性PTSDへの架け橋である)
ふと、こうやって向き合っていくと「姉は本当に地獄に落ちることはないのか」ということについて考えざるを得なくなる。
私も、師匠には「この世で楽をした人たちは、向こうの世界で下に落とされるし、苦しい思いをした人たちは、向こうの世界では優遇される」ってことは言われていた。ただ、これも弱者に寄り添う為のものなのかなァ、と。だから頑張れよ的なもので真理ではないような気がしていた。
簡単に言えば、疑っていた。ちなみに私は師匠の教えも全くそっくりそのまま受け入れることはない。師匠はそんなことは言っていたが、事実かどうかはわからないっていう考え方をしている。
このルサンチマンの経緯を経て、私はふと「強者」たるものへと観察をすることにもなった。
私は、
- 良心の欠如
- 不道徳的
- 共感性の欠落
としたのだが、これは「自分良ければそれでいい」という考え方の傲慢な人たちのほうが豪勢な暮らしをしている節を見ている。
女性の場合は玉の輿、男性の場合は仕事で成果をあげるなどなど。私は周囲の女性たちとして「玉の輿」の人たちをよく見ているので、そのケースとしてあげる。
まず、彼らには絶対的な自信がない。面白いぐらいに自信がないのに、その自信が「ないってばれることを恐れている」し、なんなら、自分が欲しいと感じている得するようなこと(お金を得ること)が起きると、自信が生まれる。いわば、これが虚勢的な自信というかわいらしいものではなくなり、傲慢という肥大した自我となり、自分こそがすべて正しいと思い込みきることが出来るようになるようだ。したらば、もう手はつけられない状態になる。
では、どうしてこのようなことになったのか——まで追いかけてみる。つまりは『強者はなぜ強者なのか』である。これは弱者がいなければ成立し無い強者の話である。
ここに書いたように自信がないわけなんだが、なぜ、自信がないのか。
その理由は「自分から逃げたから」なのだなと思った。これは過去から逃げたとも言える。
自分の過去を背負うこともなければ、自分の未来の責任を取っているわけでもない。いわば、自分が自分である責任や覚悟を持たずとして生き続けていくと、最終的には「逃げ切れる」のがこの人生である。
逃げ切ることができるとは、自分から逃げ、自分が背負うべき責任から逃げ切り、最終的には『無責任』になることだ。
いわば、逃げ切った暁には、無責任な人生を送ることができるメンタリティーが成立する。自信がないことに怯えている彼らは今そこには存在しない。逃げ切ったことにより得られる無責任な人生を謳歌することができる。
無責任な人生とは、自分の人生を責任を取らず、他者に自分の責任を取ってもらう人生である。いわば、自己責任の欠如も極まれば、無責任となり、人に頼らなくては生きていけない人生となっている。
自分の責任から逃げきると、無責任になるのだな、と。そして、自分の責任から解き放たれ、自信を喪失するも、他者から与えられるものに『大満足』し、さも、それが自分だと思いこめるのである。しかし、それは他者に与えられたものであり、それを『自分』とは言えないだろう。
そして、他者として強者に与え続けた存在が弱者となり、その弱者はルサンチマンとなって強者を憎むのである。しかし、弱者は道徳的であることに誇りと『善』を見つけるが、現実的には弱者であることから目を背けているってのがニーチェの持論である。
しかし、私が思うに、強者こそは『自分自身から目を背けきっている』『自分の人生から逃げきっている』という結論を持っているからこそ、強者なのだと思う。これぞ傲慢であり、人間性を失っているとしかいいようがない。
この人生そのものの意味は「自分の人生を生きること」であり、自分の人生を生きていないものは、もう一度、同じ人生を望まれることになるだろう。何度も同じように繰り返すように。それが前世という概念であり、やられたらやり返すというもの。
人生のなかで「自分が何をするのか」と「お金を稼ぐのか」は別の話である。楽をしてお金を稼ぐことも何もしなかったということでしかない。何もしないということは経験がないのである。
いわば、強者とは「何もしませんでした」と天に返って報告をするわけである。そして、弱者もまたルサンチマンに囚われている限り「何もしませんでした」と天に返って報告するわけにはいかない。
だからこそ、私たちは恨み辛みに囚われずに、自分の人生を生きねばならない。しかし、それでも、私たちを支配し、脅迫し、恐怖で押し付けた人たちを指示することは出来ないし、強者のための犠牲であり続ける必要性もない。
彼らのご機嫌取りをする必要性もないのである。
強者において「自分と向き合っているわけではない」「楽をし続けている」「責任がない」という問題は、自分の人生を生きているかどうかであり、生きていなければ責任をとることも出来ない。ましてや、自分の責任を他者に押し付け切った結果、無責任にまで昇りつめることができる。
私の経験上、逃げたら逃げた先に「降ってわいたような幸運」がある。それこそ、玉の輿にのるための人とか、お金を得るための楽な方法とか。色々あるわけなんだけれど、降ってわいたような幸運を手に入れてしまい、それをご利用なさる人たちがいらっしゃるわけだ。
私も何度か「降ってわいたような幸運」が目の前に降りてきたことがある。そして、それを手に取るかどうかを考えさせられることがしばしばあった。それこそ、試練のようにやってくる。
そして、そこへ逃げ込む人もいれば、私のように逃げ込まない人もいる。
逃げ込む人は晴れて責任から逃れることができるし、逃げ込まない人は自分の責任をとるように促される。
降ってわいた幸運を手に入れた人は「人から羨ましられるような強者人生」になるんだろうが、手に入れることができない人は「責任をとる弱者人生」を歩むことになる。
私たちは、どっちを選んでもいいし、どのような人生を送ってもいい。
しかし、人から羨ましがられる人生とは「自分がない無責任な人生」であり、自分の責任を他者に押し付けている状態である。それこそ、向こうの世界に返った際、この人生で何も得てこなかったとしか言いようがない。
彼らが何を為そうが、その結果は天には反映されない。なぜならば、その名誉は弱者のものだからである。
まァ、簡単にいうと、自分とか、自分の人生から逃げてる人って、最終的に『逃げ切る』ことがあって、逃げ切ったとき、目の前に降ってわいたような幸運がやってきている節がある。それを手に入れて、強者となって傲慢になっている。しかし、その人たちは自分から逃げているから自分が失われてて、共感性とか良心とか『心』の概念が消えている節がある。
だから、何かを得るってことは何かを失っている。これが優劣世界の法則なんだと思う。
弱者は心があるけれど、強者は心がない。強者は心がないけど金がある。弱者は心があるけれど金がない。
弱者は心があるからこそ、強者が金を持っていることが羨ましいと思うかもしれないんだけれど、そいつら「心で感じることから逃げた」っていう感じかな。だから、優劣世界の『強者』であり続けられるのは、何も感じることがないから。
何か感じる節があれば、強者ではなく弱者であっただろう。ここで二分されているよな。
そして、強者が強者であろうとし続ければし続けるたびに「人から恨まれて当然」なのである。そうやって、強者でい続けているけれど、弱者からすればウザい。だからルサンチマン化し、聖人君主が生まれるわけである。
優劣世界のなかで、弱者はルサンチマンのまま復讐精神に生きている人もいれば、ルサンチマンの感情である復讐を抑圧し聖人君主になることもある。私は後者である聖人君主になっていて、私のシャドウはルサンチマンなわけである。
そして、ルサンチマンが「私である」ということを認め、また、強者もまた「私である」ということを認めることが出来れば、晴れて私は自己統合にされるわけである。

そして、私はここで気づくわけである。
『存在には善悪がない』ということ。
強者がなぜ強者であり、弱者がなぜ弱者なのか。その理由は『存在に善悪がある』という思想にある。
私たちの存在、人間と言う存在に善悪は存在せず、しかし、私たちは「存在に善悪がある」と考えるからこそ、強者と弱者に分離することがあり、善の道へ進めば進むほど、私たちは『聖人的な善人』になることができる。
そのとき、心を得ていることになるだろう。しかし、真逆の道に進む人もいる。「存在に善悪がない」と考えている人たちがいる。確かに、存在に対して善悪と言う概念はないが、善悪がなければ私たちは心を学ぶことができない。
善悪がないからこそ、罪悪感がない。罪悪感がない人たちは『良心がない』のであり、自分の責任を他者に押し付けることにも罪悪感が生まれない。
いわば、善悪を学ばないということは、心が生まれないということ。
それを『無垢』とも呼べるのかもしれないし、それを『楽園住まい』とも言えるのかもしれない。
支配者とは『責任』が伴う。しかし、責任のない支配者に誰かが快く付き従っていくことはない。こればっかりが真実ではないかと思うんだよなァ・・・・・・・。
そして、今、恐怖で支配することができない時代に移り変わりつつある。恐怖で支配することができない『新人種』がでてくるよ。というのは、今まで、恐怖で支配し続けたからこそ、適応をみせ、その適応から頭一つ抜けるような新人種がでてきてもおかしくない。
で、その新人種が徐々に出始めてきているし、その人たちを『支配することは出来ない』わけである。
そして、国民は「恐怖で支配してくる人」と「幸福で満たしてくれる人」のどちらを支持するのか。その瀬戸際にきているともいえる時代に来た。
最終的に恐怖で支配してくる人が総スカン受けても仕方ないと思う。