心の目が視え始めること。現実が動き始めること。

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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最近、ようやく現実が動き始めました。

脱毛にでかけたり、行きたい場所にでかけ、自分がしたいことをして。自分の身体のケアをちゃんとするようになり。

物質的な自分の肉体を大事にすること。これもまたひとつの現実なのかな? と思います。自分の身体にクリームを塗っている時、何とも言えない幸福感が込み上げるようになってきた。

生活のひとつであるお風呂の時間。とても苦手でした。でも、今はお風呂で幸福感が込み上げてくる感覚がしてくる。お風呂が好きとか、そういう気持ちがあるわけではなくて、お風呂に入ると幸せになれる。そんな感じ。生活ってそういうことなのかなと思いました。

他にも、現実が動くと言う意味では、母が転倒し救急車で運ばれたりとかかな。

 

私は、自分だけで幸せになるつもりはなくて、たぶん、みんなといっしょに幸せになりたい人なのだと思う。

私のなかには『自己(他者)』と『自我(自分)』があるけれど、私はこのふたつが同一化しようとしている。そして、その同一化を『自己現実』と呼ぶ。

自己現実とは、自分も他人も、どちらも同一的なハッピーに進む道を指し示していると思う。

つまり、自己の概念に当てはまる相手も、私自身も、同一化させることで互いに自己現実をさせよう! ってことである。また、そんな自己現実的な意識を持つ人と縁が生じている気がする。

とはいえ共、私自身もまた自己現実の段階でも、未だに『自我と自己の共存(これが自己統合であり、自己結合になる)』というラインに到達しきれていない部分を、少しずつ矯正させながら、到達させるべく立ち位置にまで、バラバラだったり、いっしょだったりもするけれど、互いに切磋琢磨しながら進んでいこうっていう考え方である。

なので、分離と再会を何度も何度も繰り返している。いつも新鮮な気持ちで再会している。

自分だけが幸せで、誰かが不幸でも許される。それはなんだかちょっと違う。同じ願いがあるのであれば、その願いをいっしょに叶えていこうと思う。願いを叶えるのに競う必要性はなく、互いが互いを尊重し合うことができる。

ツインレイは特に願いが叶うのに、誰かを踏み台にして、自分が何かを勝ち取ることも出来るんだと思う。でも、『敢えて』それを選ばない人たちが私のメンバーみたいになってる。

私がするべきことは、ひたすら自己統合で、ひたすら自分を磨きあげていくことだけ。洗練された視点を手に入れていくだけ。それは、私が思う『幸福とは何か』を突き詰めていくことなのだと思う。

幸福とは何か。その幸福の本当の真髄に手に触れていくこと。それに気づいていけること。そして、共に気づいていける人を自己にしていく。自己に当てはまる人を引き寄せているんだと思う。

 

ただ、この場合、自己と自我による構造上、自己における他者とは「自分自身である」とされてしまうが、私は、ここを『自己ではなく、他者の自我』としたい。

私は自分の願い(自我)と、他者の願い(自我)がふたつ揃うと、そこで実現が起きるのではないか——と思った。それは、私の願いとあなたの願いは、押し付けられた願いではなくなる。自己実現だと、自分が持つ願いを他者に押し付けるようなカタチをとってしまっているよな感覚がして否めない。(自己たる投影を受け取る側もまたひとつの愛だとは思うが)

自己の投影では「相手に押し付けるもの」でもあり、自己の投影を自ら率先して引き受けるものもまたいる。そして、自己統合をしている場合、自己の投影を自ら率先して引き受けることにより、自己実現という他者と共に願いを叶えようではないか——という現実化を起こすことができる。

自己統合していると『本心からの願いが一致する相手がやってくる』のかもしれない。このときの私たちは自我が成立し、この自我を『念願』と呼ぶのかもしれない。

本心から願って叶わない想いを念願。生まれ来るその願いがそこにあるとき、私たちはそれを定義することができる。定義とは、そこに固定してカタチを生むことができる。いわば創造だ。

私たちの心とは『願い』なのではないか——ということだ。

心は願いを生み出し、その願いを具現化するとき、私たちは創造している。それは先ず自分の願いに気づき、その願いのかなえ方についても問わねばならない。

 

ただ共にありましょうってことなのだと思います。

共にある。それは、同じ願いを抱くこと。そして、それが共にあることであり、それが念願ではなく、その心ではないことがある。そして、神社とは『本心を差し出しなさい』ってことなのかもしれない。

その本心に気づけないでいるからこそ、その本心を差し出すことがなかなかできない。これもまたひとつの徳なのだろうと思う。それは確かに『純粋な想い』だからである。

 

私は『現実を動かしている』という実感がある。そして、共に『心の目からみえている現実』がある。

それは、心から現実を見ると、他者の気持ちは何もわからないってことだ。これが分離的感覚であり、他者の気持ちを自分の経験から引き出すことは出来ても、同じように感じることは私たち自身ができないってこと。

純粋な心は、他者の心との一体感を失っている。私たち人間とは、そのような存在なのではないだろうか。

だからこそ、人間意識では『他者を思いやること』や『他者を尊重すること』が求められている。しかし、私たちのなかに存在しているプライドは、他者を尊重することができない。

そして、プライドが高ければ高いほど、心の目からみえている世界では『他者は道具』のように見えている。

心の目からは他者の存在は認識できるんだが、そのなかに他者の心が存在しているとはまるで感じられないからだ。そして、他者が道具であるうちは、自分のなかに存在する自己の投影に過ぎず、自己投影している限り、私たちは他者の気持ちが分かると思い込みをし続けている。

そして、思い込んでいることにすら気づけないでいるのが、愚かな人間と言う存在なのかもしれない。

現実を動かすとき、そこには他者への尊重と、他者への配慮と思いやりが必要である。

現実を動かすとき、自分だけ良ければいいだなんて、そんなことはないはずだ。そして、私が実感しているのは『現実を動かしている』のではない。『現実を創造している』のである。

動かすとは「あるものを横に移動させること」である。これを引き寄せと呼ぶ。

創造するとは「ないものを生み出すこと」である。

私は創造している感覚がある。ここには『ないもの』を現実として未来を創造している。しかし、そこに対価を必要とするのが引き寄せであり、対価を必要としないのが創造である。

たとえば、縁を横取りすることが引き寄せとも言える気がする。たとえば、座席がそこにある。そこに座るのはあなたと私のどっち? もちろん私が座ります。あなたは別のところで座ってください。これが引き寄せである。

これを『その座席に座るのは誰でもいい』ということ。

これを伴侶の座席に書き替えれば、わかりやすい。そこに誰かの伴侶になる座席がある。そこに座るのは「あなた」または「わたし」のどちらかであり、私は引き寄せが出来るから、その座席に私が座りますが、あなたは別のところに行ってください。しかし、そのあなたもまたその座席に座りたいと思っているとき、争いが生まれるわけである。

いわば、その伴侶の座席を奪い合うことが引き寄せのように感じられるし、あるものを横に移動させることができる。

創造とは「そこに座席を生み出すこと」を意味している。

私がしたいのは『創造』である。では、新しい座席を生み出すこととは何か——である。

その座席に座れるのは「あなたしかいない」という座席である。引き寄せでは「そこにある座席にあなた、または私が座ること」であったが、創造とは「自分専用の座席」を生み出すことである。

もし、これが『伴侶の概念のアップデート』とも言えるのかもしれない。

今までの伴侶の座席とは「あなた、または私が座る席」であったのもあって、誰が座ろうが構わないものだったかもしれない。しかし、伴侶の座席を「私しか座れない席」へと作り変えていくことが創造である。

ゆえに私たちは『固有名詞』を大事にしている。

私たちの脳は「あなた」と「わたし」の分別をしないと言う。私たちは誰かの悪口を言えば、自分が一番に聞いているという。お釈迦さまのお話にもある。相手にプレゼントを渡したとして、相手がプレゼントを受け取らなければ、そのプレゼントは誰の元にいくのか。それは、自分の手元に返ってくる——と。

私たちの脳は「あなたと私を分別しない」が、お釈迦さまは「あなたと私を分別している」のである。どうして分別することができるのか。その理由は、心があなたという固有名詞を認識しているかどうか——なのだと思う。

心の目の話に戻るけれど、相手の気持ちはわからない。でも、相手の気持ちがわかっていると思ううちは、相手と自分を分別することができないのだと思う。

けれど、相手の気持ちはわからないものだと理解した後からは「相手と自分を分別する」のである。分別すれば、相手と自分の違いを認識し、受け取るか受け取らないかを判断することができる。

これは『伴侶の概念をアップデートすること』に繋がっていると思う。引き寄せから次に、創造に繋がっている。

創造とは『誰と』『何をしたいのか』が明確に理解されていること。その『誰と』が判断されるとき、私たちはあなたと私を分別して認識している。その『何をしたいのか』が判断されるとき、私たちは自我が存在している。

誰と何がしたいのか。それは念願である。その念願は心である。

念願であるとき、私たちは誰かを不幸にすることもなければ、誰かを悲しめることもないし、誰かから何かを奪うこともないし、引き寄せることもない。

すべては私の為だけにあるものが、そこには存在している。これが創造である。引き寄せとは「自分、もしくは誰かの手に渡ったもの」であるが、創造とは「自分だけのもの」がある。

自己統合とは、自我と自己が足並みをそろえる為、他者の願いを叶うとき、自分の願いが叶う仕組みを生み出している。これぞ共生である。

 

引き寄せるな、創造せよ。

誰かのものを奪うな。だから『与えよ』である。奪うのではなく、人に与えよ。
与え続けている時、私たちは奪われることがないから。

自らのものは創造せよ。
それは自分の『念願』に気づくこと。

でも、被害者意識と加害者意識があるとき、念願に気づくことはない。

そして、与えるものが何もないとき、私たちはまだまだ子供だと言うことだ。

では「人に与える」とは、何を与えればいいのか。

 

それから心の目とは「現実しか見えないこと」である。

心の目はリアリズムへの傾倒であり、また、その他者に対して『道具』だと認識するのか『尊重するべき存在』だと認識するのか。これが『人間性』である。

前者は支配として認識し、後者は同胞として認識している。

ちなみに、心の目が視えている時、マジで現実しか見えていなくて「存在がいる」程度にしかわからない。相手の気持ちとかもさっぱりわからないし、ある種、他者と分離が凄まじすぎて、ものすごい恐怖感がある。

つまり、心の目ではなく、幻覚を見ている心の目は『思い込みを相手の気持ちだと思っている』ことであって、それは他者がよくわからなさすぎて怖いのだと思われる。分離していることが怖い。もしかしたら、ワンネス感覚が抜けない子たちなのかも。

わかるはずもないことが視える・分かるのは、そこに恐怖があるからなんだと思う。直視できない現実がある。心の目が閉じていること。

そして、心の目が明確に『現実だけ』を捉えられるようになる。そして『思い込み』『投影』を抜けていくと、現実が創造されるようになる。

あと、良き霊が視えるようになったかもしれない。汗

 

 

 

念願は果たされた。あとは受け取るだけ。