自分を大事にすること、自分を愛すること。あなたが望む私を演じること。

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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自分を大事にすること、自分を愛すること。これがとても難しかった。よくわからないからである。

自分を大事にするとき、じゃァ、誰かを大事にすることが出来ていないってところに意識が向かってしまっていたから。

そもそもこれが間違いだったのだなと思う。認識できている領域が狭いというか。

図の説明:自我と自己の共存により他者との共存を意味する

共存領域である『自己』とは、自分が他者に投影することにより、成立する自分自身である。この他者に投影している自分自身(自己)と、自分の本体である自我の対立が起きている時、私たちは共存することが出来ない。これが自己分離状態にある。

つまり、他者とモメてしまう=自己分離状態とも言える。他者とモメるごとに、そこには自己分離している部分が存在している。ただ、次第に自己と向き合っていくことにより、自己統合されていき、私たちは統合意識へと向かう。

この構図から『自分を愛するとは』の意味がわかってくる。

図の説明:自分とは『自我』と『自己』である

私たちのなかにある『自我』と『自己』の両方が自分自身を意味し、自己とは、他者と共存する為に必要な自分を意味する。

つまり、私たちが目指している自己統合とは、他者との共存体系を目指しているということ。自己分離がなければ、他者とのつながりも出来ないとも言えるし、自己分離があるから他者とモメることになる。

この自分を愛するとは、他者を愛し、また、自分を愛することを意味する。

しかし、自己分離している段階では、自己を愛している時、自我が愛されていない状態が生まれる。逆然り。

この状態が私たちを苦しめている。つまり、誰かを愛している時、自分を愛することが出来ない状態が自己分離状態。

自分を愛することが出来ている時、私たちは誰かを愛することも出来ているということ。

私たちが向き合うべき存在は、他者を本当の意味で受け入れるとき、私たちは「あなたは私のなかに存在している一部です」と受け入れていくことにある。

この自己愛が広がっていくとき、私たちは『他者との共存』が出来るようになっていくのである。

嫌いな自分、愛せないでいる自分、自分だと認めたくない自分、過去に選択しなかった自分。この自分をホントの意味で受け入れ、自己統合させることが出来ている時、私たちは、いかなる存在とも共存することができるのである。

自分を大事にするとは、自己を愛することであり、自分のなかに存在する他者を愛することである。また、その愛が広がっていくと、自己統合されていく。

 

さて、それを踏まえて、自己統合をしていくと、私たちのなかには『共存』が出来るようになっていく。

あなたと私のどちらかを優先する必要性がなくなっていく。

自己を優先するのか、または自我を優先するのかではない。どちらをも大事にすることが出来るようになっていく。

つまり、あなたを優先して私が苦しむという状態も無くなれば、私を優先させてあなたを苦しませるという状態も無くなる。

つまり『他者』と『自分』の違いを認識できるようになる。

それは、自分の領域と、他者の領域が別のものであることを自覚される。

図の説明:自我と他者は一致しない

あなたは私ではない事実を知り、あなたと私の好みは別であり、あなたと私の趣味は別であり、あなたと私の仕事は別であり、あなたと私の身体は別であり、あなたと私の心は別である。

あなたと私の違い。その不一致の部分が『他者』とする。自己ではない他者の部分である。

もし、私たちが恋をするのであれば、それは『自己』に恋をする。そして、その向こう側に存在する他者を愛するとき、私たちの関係性は円滑に進む。

愛に発展するとき、私たちは自己と自我を統合させ、次に、明らかとなる自分の不一致である他者を愛するのである。この愛とは『自分とは一致しないから愛する』ということ。受け入れるということ。

しかし、私たちは、自分とは一致しない部分を愛するのではなく、支配してしまいやすい。

あなたと私は違う。だから、あなたをコントロールすることは出来ないし、あなたの趣味趣向や、あなたの仕事、あなたの身体、あなたの心をコントロールすることも出来なければ、あなたの私とは一致しない部分を決めつけることも許されない。

それは、あなたと私は別の存在だからである。

 

この一致しない部分を『大事にすること』が出来るようになっていく必要性がある。

これが『自分を大事にすること』『相手を大事にすること』である。

 

意識レベルが自我を大事にする方(自分を大切にする)に偏っている人たちは、他者を自分とはまるで違う存在だと認識し、その存在との関係性を拒絶的に分離させるきらいがある。(ので、他者との関係性が継続されない)

意識レベルが自己を大事にする方(他者を大切にする)に偏っている人たちは、自分と他者を同一化させ、自分を大事にすることが出来ない。(ので、不満が蓄積する)

また、自我と自己をひっくり返って認識していることもある。それは、他者の意見が自分の意見となっている時、自我と自己が反転している。ほかにも、自分の意見が他者の意見となっている時も同じような反転現象である。(これがエンパスと逆エンパスの原理)

この自己分離を整えていくこととは、自分を大事にすることばかりを優先してきた人には、他者を大事にすることを学ぶことになる。他者を大事にしてきた人たちは自分を大事にすることを学ぶことになる。自己統合された日には、私たちは「どちらも大事にすることができるメンタリティ」が成立しているのである。

 

さて、では『自分』とは何か——。個とは何かである。

それは、

  • 自分の身体
  • 自分の人生
  • 自分の趣味
  • 自分の感情
  • 自分の精神
  • etc

と、思いつく限りを載せてみたが、自分を大事にするとは、これらを犠牲にしないことを意味する。

自分の身体を粗末に扱わず、自分の人生を大事にし、自分の趣味、感情、精神とオリジナルとなる部分を大事にすることを意味する。もし、自分の身体を犠牲にし、自分の人生や感情をどこかで犠牲にしているのであれば、それは自己統合がなされていないということ。

単純に、自己分離状態とは『他者から大事にされる自分』が統合されていない状態にある。こんな状態では、他者に自分をもっと大事にしてよ! と訴えるか、または自分をまるで大事にすることが出来ずにボロボロになっていくのか。

もしくは『自分しか大事に出来ない自分』の人たちは、他人からの干渉を嫌い、他人との関係性を断ち、深くかかわらず、自分を開示をしないことに繋がっている。

見え方の違いである。自己から見てんのか、自我から見ているのか。その違いの過ぎない。どちらも、エネルギーの方向性が真逆なだけで、同じ現象である『自己分離』を起こしている。

いわば、自己の部分が分離している時、ふたつの現象が起きるのである。

『他者との同一化』『他者との分離化』

このふたつの現象は互いに惹き合うものだある。裏側にある存在だからだろう。

他者との同一化をしている人たちは、他者への依存を持ち、自我を喪失させていく。「あなたがいないと生きていけない」状態になる。

他者との分離化をしている人たちは、他者への回避を持ち他のものへの依存物を持ち、自己を喪失させていく。お酒やタバコなど、行動による依存が生まれる。

精神的な依存は自分の時間を失っている。

精神的な依存は「あなたがいないと生きていけない」って気持ちとかかな。

現実的な依存は共存の時間を失っている。

現実的な依存は、お酒やギャンブル、ワーカホリック、ゲーム。ネットサーフィンなど。行動によって依存すること。

引用:依存を断っていくと『現実』が見えてくる。そして時間を取り戻せる。

さて、個人的に『他者を大事にする』のではなく、結局は『自分を大事にする』のだと思う。

そして、自分自身から逃げないことなのだと思う。

 

それは『時間』と『お金』の話だと思う。

自分の身体を大事にする時間を持つ。これがもしかしたらお風呂の時間なのかもしれない。私は最近、シルクのボディタオルを買った。(Amazon 絹姫 シルクボディタオル あかすり

ほかにも気に入ったアクセサリーを買ったり、自分の洋服を買ったり。

レイキは自分の精神や感情を大事にする時間となっている。レイキを当てている時間は、ずっと自分を愛している時間である。

そうやって、自分にお金を使い、時間をつかうこと。これが『自分を大事にすること』であり、それに意味があることのように感じられない時、私たちは自己分離していると言える。

こちらは「なにかを行動すること」に意味がある。

それは共依存型の人たちがしなければならないことなのだと思う。

いわば『現実からの逃避』はここにある。

 

もう一方では、自己からの逃避のために『何か』を代償にしていること。

それがお酒だったり、ゲームだったり。何かの『もの』や『時間』に依存している時、私たちは逃避しているものと向き合わなければならない。これが精神と向き合うことであり、向き合いたくない自分と向き合っていく過程にある。

代替品をやめてみると、案外、何と向き合いたくなかったのかが見えてくるから、おすすめかもしれない。

盲点としては、カフェインかな。

これが『精神からの逃避』である。

 

そして、これをひとつにまとめると『自分を大切に』『自分を大事に』に繋がってくる。

結局、現実から逃避している時の私たちも、精神から逃避している私たちも、どっちにしたって、自分を大事に出来ていない時、自己分離状態なのである。

分離している自分を回収するとき、私たちは向き合わねばならないものがある。

個人的には、現実から逃避している部分と、精神から逃避している部分が、個人のなかに両方ともがあるから、一概に『現実と向きあう』『精神と向き合う』とは言い切れないと思っている。

基本的に人にはパワーバランスがあって、私は共依存型だし、自己を優先的に受け入れる人だったから、自分と向き合っていくと、現実と向き合うことに繋がっていくことが多い。でも、だからといってカフェイン依存がなかったわけじゃないし、ゲームだって遊んでいたし。今はカフェインはほどほどになっている。周1でとったり、とらなかったり。依存に振り回されて、のまなきゃやってられんってわけでもない。

つまり、自分のなかには、現実から逃避する為の精神依存と、精神から逃避する為の物品依存の両方があり、どちらも、時間泥棒にあっている。

 

自分を大事にし、大切に出来ているとき、時間泥棒にあうこともないし、いつだって充実した毎日を過ごすことができる。

自分と向き合おうとしても「自分と向き合うって何?」って最初思っていたんだけれど、だんだん理解してきて感じたことは、毎日が充実していない理由はどこにあるの? って部分に向き合おうって話なんだと思う。

誰かがいなければ充実していないのは違うし、何かに依存しなければ、充実していないのは違う。

つまり、そこに『誰か』や『何か』がなくても、私たちは毎日の生活のなかで充実した日々を送れるはずなのに、どうして、誰かや何かを必要としているのだろうか。

それらがなければ、本当に充実させた日々を送ることは出来ないのだろうか。

もっと、大元に立ち返る必要性があるんだと思う。

基本的な部分で、生活のなかで充実した日々が送れているのであれば、その次に『誰か』や『何か』が私たちの世界をもっと豊かにしてくれるはずである。しかし、生活が充実すらしていないなか、誰かや何かを与えられると、私たちはそれらに依存を示す。

私たちが根底にある『生活』である。この生活とは『自分だけ』の世界であり、『自分を愛でる』世界であり、自己完結的な世界観である。

私たちはもう既に大人であり、一人でできることがたくさんある。

それは『生活』である。その生活とは、衣食住にある。

着ること、食べること、住むこと。

つまり、自分の着る洋服を自分の好きな服を着ること。自分の食べたいものを食べること。自分の好きな場所に住み、自分の心地よい空間を作ること。他にも、お風呂やら歯磨きやらとたくさんの生活が存在している。

私たちは服を一人で着れるし、私たちは1人で食事ができる、私たちはひとりで部屋のなかにいることができる。

「ひとりでいる」の部分に生活がある。その部分を充実させていくことに意味があるのだと思う。

そして、それから次に『共存』である。誰かや何かが入ってきて、誰かと共に何かをシェアすることに豊かさが倍増するものである。

ひとりよりふたりである。私たちはひとりである。しかし、ふたりになれば充実が増えることもある。それは、お互いが、自分の好きな服を着て、自分の好きなものを食べて、自分の好きな部屋にいるとき、お互いがお互いをようやく知ることができる。

あなたが好きなものを知れて、ようやく、私たちは二倍の喜びのなかにいる。

あなたがいなければ、私の喜びはなにもなくなってしまうのであれば、それは、そもそも別に好きなものでもなかったのである。あなたが好きだから私も好きになっただけ。

私が好きだからあなたにも好きになってほしいわけで、あなたに受け取ってほしいと思う。

しかし、あなたが好きだから私も好きになったり、あなたが好きなものを私が受け取れずに拒絶することも大いにしてあるものかなと思う。これが自己分離であり、共存ができていないことなのだと思う。

 

自己の部分が共存としたが、この一致の部分をいかに私たちが演じることができるのか。

それが『愛』である。あなたが思う私でいることも、一つの愛である。それが自己を恋から愛に変換することである。

そして、他者の部分を愛するとしたが、全くもって不一致の部分を好きになることもある。

違うから好きなのである。全くもって予想外であるあなたのことをより一層好きになることもある。

それが『恋』であり、『刺激』なのだと思う。好きでい続けることが人はなかなか難しい。あるとき冷めるのが恋だから。だからこそ、ある一定の期間を空けて、歳を重ねても、新しい未知が恋をし続けることでもあり、それは私たちが新しいものを受容する力を持っているかどうかである。

自分の思い通りではないあなたを好きになっていけるのか——。

 

私が思うに、人は常にペルソナをかぶっている。

そのペルソナをかぶってくれる人たちもまた、あなたを愛しているから演じてくれているときがある。

これは『演じる』とした。悲しいと思うだろうか。あなたを愛してくれている人たちが、心からあなたを愛しているわけでもなく、ただ演じているだけだということ。

でも、それが本来の私たちなのだと思う。

いつか、そのペルソナが自分と同化したときこそ、それが自己統合である。

 

あなたが望む私を演じ、それが私となるとき、それが私は愛だと思う。

最初は嘘でも、最後には真となる。そんな日がやってくるまで、さようなら。