私は愛し合いたいわけじゃない、知りたい。

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Kindle版
さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
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私は知り合いたい。
あなたが何を考え、何を感じ、どう思っているのかを知りたい。
私は別に愛し合いたいわけじゃない。
無条件の愛を与える母になりたいわけじゃない。
条件付きの愛を与える父になりたいわけじゃない。
私は「あなた」という自分ではない存在を知りたい。
あなたを知りたい。
すごく考えていた。ずっと考えていた。
それは知りたかったから。
あなたが何を考え、何を思っているのかを知りたかった。
知りたいのに、答えを与えられはしなかった。
だから、自分のなかから答えを導くしかなかった。
教えてほしかった。それはわからないことを教えてほしいとかじゃない。
ただ「あなた」という存在を知りたかった。
でも、あなたは「あなた」ではなかったし、
あなたこそ、あなたを知ることも出来ていなかった。
それは私にも言えること。
私も「私」ではなかったし、私を知れていなかった。
だから、知り合うことすら出来なかったような気がする。
これをもしかしたら、未熟と呼べるのかもしれない。
私は愛したし、あなたも私を愛してくれていたような気がする。
でも、そうじゃない。知りたかった。
だけれど、愛し合うなかで知り合うことは出来ない。
無条件の愛、条件付きの愛。
どっちにしたって『相手を知る』ことではない。
愛は本当の意味で相手を知ることができない。
だから、私たちは自分を自立させねばならなかった。
それは母から与えられた無条件の愛を自らに与え、
父から与えられた条件付きの愛を自らに与えること。
相手に与えることが正解ではないのだと——、
そのとき、私たちは支配と従属という一方の言いなりの構造を生む。
愛を語れるのは、親子の関係性だけなのではないか。
そこにある愛は、誰かに与えるのであれば我が子へと、そう思う。
そして、自分自身へと与えること。
大人になれば、私たちは『愛そのもの』だと、自己循環させる愛になる。
自らを無条件に受け入れ、自らを時には失敗を繰り返さないように律し、間違いを犯さない人生へと導くこと。
他者から与えられるのではなく、自分が自分に与えられる人になっていくこと。
そして、信頼できる人と結びつき、その人を知ることができるならば、それこそ、拡大をも意味するだろう。
私たちは他者からしか新しい世界を与えられない。
それが二倍になるが夫婦の在り方なのだと思う。
大人になって、ふたりの関係性に愛がないかもしれない。
でも、そこには信頼があるんだなと思う。
イチャイチャキャッキャラブラブなんてものもないかもしれない。
だけれど、信頼があれば、いつまでも共に過ごすパートナーになることができるだろう。
ふたりの関係性のなかに依存がなければ、
きっと、そこには信頼が生まれる。
そのとき、知ることが依存や洗脳には繋がらない。
なぜならば、信頼と信仰は違うものだからである。
私は自分自身のなかに『愛』と『信頼』を取り戻した。
それは人を愛するのではなく、自分を愛すること。
自己統合すること。
それは依存ではない、自立すること。
それは自分を信じるのではなく、人を信じること。
統合すること。
それは洗脳ではない、知ること。
あなたが悲しいとき、私も悲しい。
共感したい。
あなたを知り、受け入れたい。
そうやって、あなたを愛したい。
それは「あなた」が成立し、
「私」が成立してこそのこと。