精神による近親相姦の結婚はタブーなのか。

2024年11月29日

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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結論から言えば、全然かまわない。

 

精神の近親相姦とは、父を投影した存在と結婚する。兄弟姉妹を投影した存在と結婚する――というような近親者により生まれたセルフビジョンにより、その対象者と結婚することである。

つまり、自分のいかなるセルフビジョンが、夫と結びついているのか。

人はパパと結婚する≡⊂( ^-^)⊃と言って、本当にパパと結婚するのである。否、精神上で。

これが精神の近親相姦である。

 

私は父との近親相姦は地上の人と行った。

途中で、彼から前世におけるレイキマスターになるための人生をわけてもらい、私と彼はわかれた。

彼にとっては妹との近親相姦である。(彼には妹がいたのだ)

最後に別れた時の私たちは、私が持つ父への甘えを断ち切り、彼は妹への怒りや支配を断ち切った。

この段階で父への甘えを排除しきれない時、世のなかでの優劣関係での恋愛に勤しむことになる。

結婚相手の基準が社会となるため、誰かよりも優れた異性と結婚する――という優劣社会による結婚が果たされる。

 

次に、楽園の人は弟との近親相姦である。

私には兄弟に男はいない。彼も兄弟に女がいない。

ゆえに私たちは新しく自分のなかに『兄弟姉妹』の概念を生み出した。

つまり、精神上でのふたりは兄弟姉妹として扱われている。だが、別に事実上の兄弟ではない。

兄弟姉妹に異性家族がいないとき、私たちの中には新しく兄弟姉妹の概念を生み出すようである。

これが私のいう初恋でもある。

この恋は傲慢により彩られ、私たちが甘えを切り離し、大人になる第一歩を踏み出すための重要な儀式とも言える。

つまり、兄弟に異性がいないとき、私たちは『いもしない兄弟と結婚して戸惑うこと』にもなる。

同情結婚と昔は呼んでいたんだが、自分がいないとダメなんだと思いこんで結婚をする。のび太くんと結婚するしずかちゃんスタイルである。

幼少期からの弟の面倒を見続けているしずかちゃんといったところだろうか。ここには姉というしずかちゃんと弟というのび太くんがいる。

昔は幼なじみや小さい子たちは血縁関係なく兄弟のように育てられたことで一人っ子だったとしても新しい概念として他者により構築することができたのである。

だがしかし、私のようにそんなことにもならず、弟や兄という愛着スタイルによる概念を持たない人は、実際、恋愛では困ることになる。

異性にどのように接したらいいのかも分からなければ、異性との関係性(夫婦)が支配や甘えになってしまったりなどが起きるのである。

つまりこれが精神による近親相姦である。精神のなかに甘えや依存、支配などがあるとき、結婚相手に求める素養として兄弟姉妹を求めるのである。

それは兄に甘えたい、姉に甘えたい。弟を守りたい、妹を守りたい――という兄弟愛である。

こちらは社会の優劣ではなく、自分の基準により恋愛を果たしているとも言えるが、同情などにより結びつき、好きの気持ちにより結婚が果たされているわけではない。

 

私のケースとして楽園の人があげられるが、彼は私の中で新しい概念として生まれた、兄であり、弟である。

目下の時には『大事にする』、目上の時には『大好き』という気持ちを持って接し、兄妹関係を築いてきた。

ここには、大事にされたら甘える構造があり、言うことを聞かなければ支配しようとする意識がある。

また、関係性は同情により生まれ、可哀想だから一緒にいる――という関係性である。

私は玉依の話を追っているけれど、玉依さんも豊玉さんとの姉妹であり、豊玉さんは離婚して出戻り。

玉依さんは豊玉さんの子を育て、その子と結ばれることになる。

豊玉さんは同情結婚が果たされ離婚した。それは豊玉さんの神話に残っている。

豊玉さんの産屋を見ちゃダメと言われておきながら、夫の山彦は見たわけである。そう、見てしまった。

ここには豊玉さんのなかにある「本性がバレないだろう」という夫を見下す意識と、山彦が「辛い思いをさせてごめんね」という妻への出産への共感により、豊玉さんは逃げ出したといっても過言ではないだろう。

つまり、豊玉さんは山彦さんが大好きだったのと同時に、それが姉弟愛だったのである。そのまま、生まれ落ちた鵜葺草葺不合からすれば、迷惑な話ではあるが。

玉依さんはやはり弟の概念を持っていない。鵜葺草葺不合さんを弟として愛することになるが、鵜葺草葺不合は父と母が同情結婚により産み落とされた存在である。

ここで因果の一致が生まれ、玉依さんは鵜葺草葺不合と結婚することになる。

これが未熟な神のお話だと思われる。

「弟の概念がない玉依」と「両親が同情結婚(姉弟結婚)の鵜葺草葺不合」により結びつくのである。

 

段階を追うようにして、精神発達による問題が生じている事実である。

  • 父親から自立(小学生)
    • 優劣社会による結婚
    • 自我の芽生えと自慢
  • 兄弟姉妹から自立(中学生)
    • 同情による結婚
    • 同情と甘え、人生への悲観

父親からの自立を果たすことが、優劣社会に対して『自分が負けてもいい』という意識を産む。自慢とは勝ちたい意識により生じるためである。

兄弟姉妹からの自立を果たすことは、感情社会における同情心や哀れみというような自分や人生への悲観を乗り越え、自分の人生を生きることに繋がっている。

今回の私は兄弟姉妹への甘えを排除し、『自分の人生を生きる決意』を決めたわけである。

それは自分がどのように生きるのか、何をするのか、どういう人生を送りたいのか――というセルフビジョンを構築することでもある。

ここには他者に頼らず、自分で自分の人生だけを歩むという視点である。

初恋と傲慢なのである。つまり、自我肥大ともいえる自分のおこがましい意識を撤廃し、他者への甘えを抜き落とすとき、自分はどのようにして社会の役に立とうかを考えるのである。

そのヒントが初恋に詰まっているのだ。

この段階で人はようやく『自分は』という視点だけで何がしたいのかを考え、高校、大学と進路を決めるのである。

 

私たちは、この家族への甘えを全撤回しなければ、自分がどうしたいのか、何がしたいのかはさっぱりわからないものである。

なぜならば、誰かが自分の人生を何とかしてくれると思いこんでいるからである。

で、ほとんどの人が父親か、兄弟姉妹と結婚しているのである。

私の親も姉と弟のような関係性をしている。しっかり者のお姉ちゃんと、ダメな弟である。

ここでは関係性が明確に序列が成立している。

本来の私たちは、家族に甘える意識を排除しては自立することにより、本当に好きな人を見つけ出すことができる。

甘えが介入している限り、私たちが自立しているとは言いきれず、甘えによる決断をしかねないのである。

執着も甘えである。なぜ執着をするのか、甘えているからである。その対象者が自分を助けてくれると思いこんでは甘えている。

だが、自分の人生に救世主という夫は現れない。

 

精神上での近親相姦では、自分のなかにある甘えにより構成されている。

現実における『何か』からの逃避は私たちに甘えを生み出し、好きな人を遠ざけ、自らの人生を堕落させるのである。

自分が好きな人だと思ったら、実はパパに甘えたかっただけ。実は弟を溺愛してただけ――。それが私である。

 

天照と素戔嗚による誓約は、どこかトンチンカンだと思われる。

素戔嗚の屁理屈である。

天照の勾玉を素戔嗚が口に含み、噛み砕いて吹き出したものが五人の男神として生まれ、素戔嗚の剣をおり、三人の女神が生まれた。

ここで素戔嗚は屁理屈を言う。自分の持っていたものが三人の慎ましやかな女神を生み出したんだから、自分が正しい――と。

普通に考えてみても頭おかしいなと思う。自分が何がなんでも勝とうした意識がこのようなおかしい発言となり、天照は天岩戸に引きこもることになった。

素戔嗚が言いたいのは『現実的にどんなに悪いことやってても心はピュアピュアな俺が正しい( '֊’ )』ということである。現実的に悪さをしたのは素戔嗚である。それは事実であるが、その事実を精神的にピュアであるからなかったことにしたのである。

ちょっと意味わからない理屈を捏ねている。

素戔嗚の心理はこうである。姉という道理に立ち向かえないから、よくわからない屁理屈で相手をとっちめては自分が優位に立つ。

姉はその反抗に太刀打ちできずに天岩戸に引きこもったわけである。

素戔嗚は未熟だった。優劣にこだわる意識があった。まさにマザコンのような意識である。

天照もまた未熟だった。優劣にこだわらせてしまった理由は天照の中に素戔嗚への支配へのこだわりがあったからである。

 

個人的にも天照側として『屁理屈素戔嗚』とは対峙することになったが、正直、こう。「言っている内容に齟齬があり過ぎる」と思い、ねえわって思った。私の一度行った婚活であり、私の闇の刺客である。

追い詰められると、何がなんでも自分が正しいに持ち込まないと気が済まないってやつだとは思う。でも屁理屈なのである。

単純にしていいこと悪いことがわからんのかな? とは思ったが。

それは道理のない支配にあい続けた結果、どうしたらいいのかがわからない、自分のなかで倫理や社会的ルールっていう道徳が成立していないんだろうなとは思った。

楽園の人は、不条理にプンプンしている姿を「可愛いな」と思って見ていたが、自分がいっぱいっぱいになると余計に不条理になってしまうようだった。が、言えば気づいていたし、反抗されることもあったが、特に追い詰めるようにはしなかったかな。

彼も私に対して兄としてちゃんと「ダメなものはダメ」としてやっていた。別に支配とも感じてはいなかったが、個人的には甘えたい意識は全て拒絶されたのもあって、そこらへんは凄く傷ついていた。

 

姉としての天照は道理が通り、弟としての素戔嗚は正義感が強い存在だとは思われる。

姉は弟の正義ではない部分を見破り、姉の道理ではない部分を見破る。

屁理屈素戔嗚は正義を振りかざし、自分に絶対性がある。屁理屈を捏ねてまで自分を正当化させる。

道理のない天照はルールや法則を振りかざし、自分にルールに従えとうるさい。どこまでも自分ルールへのこだわりがあるのである。自分のルールに従わないものは悪である。

道理がない人は屁理屈と繋がるし、屁理屈がある人は道理がない人と結びつくってことでもあるが、天照と素戔嗚は最後に離別している。

なぜならば、天照がルールを捨てられないからであり、素戔嗚が屁理屈を捨てられないからである。

そこから天照は天岩戸へ引きこもり。

素戔嗚は黄泉の国へ追放される。

天照は天岩戸で自分のなかにあるルールを組み替えなければならないし、素戔嗚は自分が持つ思い込みを捨てなければならないからだ。

 

天照と素戔嗚は結婚しているという説は、誓約により子が生まれているからである。

ただこれは姉弟における婚姻ではなく、ふたりが自立するために必要とした儀式でもある。

その儀式において、姉が女神を産み、弟が男神を産んだという事実が通されるとき(事実が捻じ曲げられないとき)。

天照の勾玉を素戔嗚が口に含み、噛み砕いて吹き出したものが五人の男神として生まれ、素戔嗚の剣をおり、三人の女神が生まれた。

これは屁理屈と書いたんだが、もうひとつの側面では『交配』という視点がある。

誓約後に『勝敗』が決まるのか。はたまた『対等』が決まるのかにより結論は違うともいえる。

素戔嗚が勝った、または天照が勝った。このとき、どちらかが服従に入るわけである。

神話では素戔嗚が勝って天照が負けている。実はこれで対等とすることが出来るのである。

今まで素戔嗚が逆らえずに意見が言えなかったが、意見を言う。そこに道理があるならば、交配が成功である。

そのときの天照に正義があるならば、交配が成功である。

単純に『交配が出来ていれば交わっている』わけで、『交配ができていなければ勝敗が決まっている』のである。

 

個人的には素戔嗚って甘えん坊だけれど、すごく優しい。優しいが故にモジモジしちゃって内弁慶になっている。

天照はお姉ちゃんとして「自信を持ちなさい、さァ、この姉に反抗しなさい」って役割だと思われる。

でも弟に反抗されることが許せない姉は弟を追放するのである。そして天岩戸に引きこもる。殻に籠って、素戔嗚が降参するのを待つわけである。

 

素戔嗚と天照がしっかりと交配を済ませて居るのであれば、姉は自分の技術を習得し女性特有の論理的思考が可能になり、素戔嗚は自分の気持ちを大事にする男性特有の共感性が可能になるのだと思われる。

つまり、信頼関係を持ってけんかするのと、一切の信頼のない状態でけんかするのとではワケが違う。

ちゃんとそこには心の底から信じられたのか? っていうと信頼がないものは交配ができないわけである。

屁理屈で事実をおかしいことにする人を信頼することは出来ないし、甘えて自分の責任を押し付けてくる人も信頼することは出来ない。倫理観や道徳が欠如している人も信頼はできない。

人の気持ちを考えて行動ができない人を信頼することもできない。自分の私利私欲とエゴイズムに系統している人を信頼することはできない。

自分のことを守ることしか考えていない人を信用することは出来ない。責任転嫁の話である。

単純に兄弟姉妹の結婚とは『男女における信頼関係を構築できているのか』ってことでもある。

それは社会への保証でもあり、一人前の証拠である。

この信頼と愛による関係性を持って私たちは自立をしていくのである。

素戔嗚は『一人前』の保証がなされて根の国の管理を任される。天照は『一人前』の保証がなされて高天原の管理を任されているのだ。

そこには民からの信頼を得ている。なぜならば、姉弟の誓約を終わらせ、たったひとりだけでも信頼と愛があると保証してくれている存在がいるからである。

 

ちなみに私だが、なぜ、このサイレント中に余計なものまで背負ったのかの理由だが。

信じてもいないのに信じてもらわれるわけがない。愛してもいないのに愛してもらえるわけがない。

単純に私の道徳性から、信用ならない人をも信じたし、愛さなくてもいい人を愛した。

でも、結局、私はバカをみた。信頼がない人は私への嫌がらせを続け、愛がない人は私への依存を続けた。

信頼が甘えであり、愛が依存のこともある。それはただ私が甘やかしていただけなんだなと思った。

それは兄弟姉妹という契のなかで、本当の信頼と愛による経験を構築したからこそ理解できることだったんだと思う。

 

さて、冒頭の近親相姦による関係性は悪なのか――である。

別に親と結婚してもいいし、兄弟姉妹と結婚してもいい。精神上の近親相姦だったとしても構わない。

そこで課題や成長が現実的に固定されるだけである。

親との結婚では『優劣意識』『自我の芽生えと自慢』という課題。

兄弟姉妹との結婚では『信頼関係』『甘え』という課題。

この課題がクリアされている場合、特に離婚はないんだが(お互いいっしょに自立したがるから円満離婚みたいなケースは多いかもだが)、クリアができずに明確に『男女の優劣がつく』とき、家庭内がモメまくる。

モメた結果、誰かの精神が病む犠牲を産んで家族を保つことになる。離婚しないために犠牲が必要。(離婚は親が人生に×を受けることになる)

つまりここで『親が未熟であるが故に犠牲を必要とし、子供に全責任をおわせる』ことができるようになる。

なんなら兄弟姉妹の責任も背負うことになる。

子供は責任背負ったら徳がいただけるんよ( ˇωˇ )

なとりは親の責任をすべて背負って地上の人と出会っている。姉の責任をすべて背負って楽園の人と出会っている。

背負わないとメンタルを病む。誰かが責任をおわなきゃいけない。で、犠牲側の子は徳が高いと言われているが、犠牲の子でも、犠牲の犠牲を産むことに長けている責任放棄型もいる。

自分がメンタル病まない代わりに誰かを病ませることで責任転嫁させることが可能。

その責任を背負う代わりに犠牲の子は徳をいただいとる。そんだけ。

だから不幸な人生や犠牲者は徳があるとは語弊がある。そこから如何に這い上がって犠牲を責任に変え、他責を背負ったのかが徳になって、つまりは徳が高い人は犠牲側に多いって話になる。

あと徳を積む機会によく恵まれる。それをモノに出来るかどうかが、その人の徳次第。

不幸で辛い人生送ってるから自分は徳が高いんだって話をする人は人生で苦労していないと思われる。これを自己憐憫という、情けない話だよ。

長子が結婚しやすいのは兄弟姉妹の結婚。二番目を犠牲にする意識が強い支配だから。(結婚が支配と犠牲)

次子が結婚しやすいのは父親との結婚。一番目と親に依存する意識が強いから。(結婚が依存と甘え)

私は依存意識が強いので、父親⇒姉弟とやっている。依存気質か支配気質で結婚も変わるかもね。

私は依存の克服、次に犠牲の克服だった。色々だよ、マジ。

パパと結婚したいのに、弟と結婚したのが姉。甘えたい欲求を我慢して弟を支配することで安心を得ようとしてた。

あたいはパパとは結婚したくなかった。弟の彼くんは溺愛した( *´ω`* )けれど、健全なるブラコンとシスコンは自立しちゃったよね・・・・・・。

はー自立させたくなかったなー。弟の彼くん、すごくきゃわいかったから(〃ω〃)でもまァ素敵な男の人になってくれたらお姉ちゃんは嬉しいね。

犠牲