幻想世界に生きるメンタル体について

2024年11月29日

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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ピー⊂(`・ω・´)⊃ーについて、私は幻想世界だと定義している。

そのロジックがようやく解けたので書き残して起きたいと思う。

私は哲学やら考えごとやら、推理等が好きなんだが、この思考を司っているエネルギー体はメンタル体と呼ばれている。

メンタル体は『夢』とかも関係しているのもあって、起きている時に思考のみに引っ込んでぼーっとしている人(意識がない)はメンタル体にアクセスしていると考える。

他にもメンタル体には過去に習得した技術などが蓄積されているのだと言う。

このメンタル体にアクセスしている人は、抽象的思考を愛し、概念的理解を好むとして考えられる。

さて、これがメンタル体の基本的理解とする。

 

では次に、世界についてである。

夢のなかでたまに『別の領域の世界』を見ることがある。この世と一致しているようで一致していない世界である。

こういう世界における階層があり、メンタル体にも階層が存在している。

その世界が二分されているように感じられている話である。

その世界は肉体における世界という地球がある。この地球は統一されている世界である。事実はひとつでしかないから。

次に、エーテル体やアストラル体がある。感情に関するエーテル体も他の人と共感するとき、一致の世界で共存している状態とする。

この世界で一緒に過ごすことは精神的に同じ感情を抱くことだ。

エーテル体が完全化されることは他者との感情の共有をしない。自己完結するものである。感情のすべてを自分が引き受けている。

アストラル体では光と影というように、自分が意志を持って生きている時に生じる影という存在と繋がり共存している状態とする。

この世界で一緒にすごすことは自己投影の為に他者が存在している。

たいてい人は、このアストラル体の世界に存在し、他者とは自己投影でしかないと言える。

アストラル体が完全化されることは他者投影をやめていくことである。投影する自分をすべて引き受けている。

では、本題の『メンタル体』である。

メンタル体では自己概念における形成により『世界』を構築している。それは自分なりの道理が構築されていることである。

メンタル体は技能等の蓄積があるが、技能獲得によりメンタル体へと正常にアクセスすることができる。

同時に、道理は自分にメンタル体にアクセスしているのであり、他者との共有メンタル世界にアクセスしているわけではない。

単純に『自分が出来ること』と『他人が出来ること』とは別である。しかし、他人が出来ることをコピーしてモノにしている人は、道理がないために自分が出来ることには分類されない。

いわゆるメンタル体とは他人の夢を共有する、他人の道理を共有する、他人の技術を共有する――という状態が成立するが、自分なりに技術が成立することが出来れば、道理を踏まえて自立することになる。

メンタル体とは大学である。大学で手に入れた道理が自分のものに出来ているかどうかである。

メンタル体に道理が確立している人達は『夢』や『幻想』に対して道理や哲学、感情を排除した視点をもって分解したとき、これが幻想世界であることを理解する。

つまり、道理と真逆の世界は迷妄だとしているが、迷妄とは幻想か事実かを判断しかねてしまうことである。

それはメンタル体にまでアクセスが出来ておらず――。または、メンタル体領域の意識レベルに入りながらも、メンタル体にアクセスが出来ていないがゆえに妄想を発揮するとも言える。

すごく難しいこと書いているけれど、単純に説明すると、メンタル体を活用できていれば「これは事実では無い」と判断が1秒で出来ることが、メンタル体が活用出来ていないから数年以上も事実では無い夢に囚われてしまうのである。

それは何故かというと、エーテル体とアストラル体の傷にある。HSPというエーテル体が傷つき、共感がある(という思い込み)を持ち、アストラル体に傷がつき、意思がある(という思い込み)がもたらされる。

共感とは他者を決めつけるものではないし、意志とは自分の思い通りに他者をコントロールしようとすることではない。

ここらへんの認知が狂っている人が迷妄するのである。

 

ではピー⊂(`・ω・´)⊃ーに出会う人達は魂の双子ということである。

それは魂だからコーザル体あたりになるのかなと思われる。

肉体レベルで出会うためには、魂の受肉レベル(赤ちゃん)にまで意識が浄化されていることが条件にあげられる。

また、課題としてメンタル体という道理をひとつは持っていなければ、その上のコーザル体にはアクセスができない。

メンタル体の段階で、道理がなければ迷妄へと引きずり込まれてしまうのである。

自分に一切の傷がなければ、メンタル体にはアクセスされない。傷があればメンタル体にアクセスされる。

その傷を背負っている(自分のものとしている、人のせいにしない)人たちはメンタル体にアクセスし、アクセスされたとき、技術や道理を理解する。

これが何かへの没頭である。ただ他責が強いと没頭しないのと、ただの学習。道理にまで到達せず、メンタル体は活性化されないと思われる。

条件として、自分の傷を人のせいにしない人生を送っていると、その分だけ、メンタル体にアクセスができる。

メンタル体にアクセスができなければ、魂にもアクセスができない。

だからここで審判にかけられる。

『魂の双子を概念化させなさい』『魂の双子を哲学しなさい』ってときに、できる人とできない人が出てくる。

ここに道理があると思える人と、道理がないことが理解される人の二種類に分類されるのである。

これが事実では無いものを事実と信じた迷妄の道と、道理の道を生きる人の差である。

迷妄とは迷い続け、道理とは一本道である。答えがわかる。

メンタル体にアクセスしている人は、どうしたらいいのかの判断を他者により左右されることなく進むが、判断を他者に左右されることがメンタル体であるとき、道理がないのである。

道理を通せと言われても、道理がなければどうしたらいいのかがわからないのである。

そしてエーテル体の感情が他責であり、アストラル体の他者投影が他責であるとき、道理を持つ人を嫌うのである。

お前のせいで自分の人生が狂った。これが道理の履き違えとなるから、道理がないのである。

あなたはあなたの人生を生きているって道理がない。

それを逆の方向からみれば『孤高』と言う、他者を排除している人だと思うらしい。ただ自分の道を生きているだけの話なんだが、自分が関与しないことや見向きもされていない事実が受け入れられないのである。

自分はライバル視しているけれど、相手は眼中がないことが耐えられない。分かりやすく言えば、自分の人生をひたむき生きている人が許せないって意味。

孤高だと思われるってことはメンタル体が完全化されているサインということになる。

 

メンタル体に繋がっている人は、感情論で相手を攻撃したりすることがないかな。

自分の怒りを人のせいにしたりもない。自分の憎しみも他人に押し付けない。感情的に傷つけあうことがない。

メンタル体の激怒は拒絶にある。怒っているのではなく、拒絶。ただ拒絶しきれなかったとき、相手へ拒絶のための理由作りとして人格否定が起こり得る。

人生否定を道理を持って行う(論破したがる)んだが、その道理は個人的に見ていても破綻してんなと思うことが多いかな。

そこに感情介入があるから。メンタル体は個人意識を廃することが目標にある。

だが論破するために道理つかって人を傷つけるとき、道を踏み外すと思われる。

道理って人を否定したり、傷つけたりするためにあるわけではないから。

美学だからね、そこにあるものは。

『学んだだけ』の人って論破傾向がある。信仰を汚されて怒っているんだと思う。

学ぶって信仰だからね、でも、その学習をどう捌くかは自分が判断するんだが、信仰で終わっている。学習段階においては小学生ぐらいかな。

東西南北を丸暗記しましょうっていう話のベクトル。それがなぜ東西南北かっていう抽象性に疑問は抱かない。それが世の中ルールであり共通言語で、最低限もっていれば理解が可能ですって範囲の話。

これでコミュニケーションを取ろうとするのが中学とか高校になる。

そこから独自の理解に基づかせていくのが、大学で本質たる道理を理解する。

個人的にはコピーで書かれたスピリチュアル系の記事は幼稚園ぐらい。だって幼稚園生ぐらいになれば、似せてそれなりに書き写すことぐらいできるから。

ぐちゃぐちゃで下手っぴな絵であることには当人わかってない。だから幼稚園、他者比較すら出来ていない。

今日はクマちゃんのパンチュにしゅる( *´ω`* )っていう感じ。そのクマちゃんが何かはわかっていないんだけど、ビジュアル的に気に入った程度の感性。

で、クマちゃんのパンチュが世界一のパンチュなんだよ。他者比較がないから。

 

メンタル体は道理があるし、その道理という参道を歩いて胎児という魂に還る。

でも、還ったら、そこが魂じゃないってこともある。

それが『魂』だと思いこんでしまうのは、比較がないから。

私たちは必ず理解をするとき、比較がある。私は地上と楽園として定義しているが、人は絶対的に何かしらを理解する時に比較が存在している。

その比較は他者にはない。自己の中でふたつを比較する必要性がある。そのとき、私たちは三つ目を得てようやく真実を理解する。

魂の概念への理解をメンタル体で行う必要性があるが、このとき、自他において分析を行うのではなく、自己比較をしなければならない。

メンタル体での分析能力も自他分析ではなく、自己におけるふたつの概念を比較して分析するのである。

つまりクズの自分と、天才の自分――という二軸を必要とする。

ゆえに私たちはひとつの人生で二重、三重の人生を持っていると理解しては比較するのである。

そしてメンタル体は概念を通して、ひとつの真実へと到達する。

それは自分の人生という筋道である。

感情を配した論理の先には直感がある。

直感が高い人は自分の理論に感情や欲求を介入させない。メンタル体の極めた先にあるものである。

冒頭の幻想世界の話に戻すが、自分の理論のなかに感情や欲求を排する時、私たちはとてつもなく直感的に自分の人生を選び抜くことが出来るようになる。

だが、自分の思想の中に感情や欲求が介入するとき、私たちは幻をみることになる。

それが幻想である。あなたが見ている幻想は、自分の感情と欲求により生み出されている夢である。

それが妄想である。

 

単純にメンタル体って『思考すること』で鍛えられるんだが、なんも考えてないと恐怖とかの感情や欲求に飲み込まれて判断を見誤るよって話。

拳銃を突きつけられている時にパニック起こしてる人と、この場面をいかに切り抜けられるかを思考して虎視眈々と隙を捕らえようとする人だと生存確率どっちが高い? って話だよ。

前者は煩いから射殺されるけれど、後者は生き残る可能性は残されている。

で、今回、幻想世界に突入した人のなかで抜け出せなた人かどうかは、現状について虎視眈々と考え続けていたかどうかの話でもある。

ここでもうひとつの世界線が生じるんだが、それについてはまた今度機会がありましたら。