ツインレイの再会をする前に考える『自分は傲慢にならないか』という視点。あなたに責任をとる覚悟はありますか?

Kindle版
さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
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人は何かを得る時、何かを失う。そう言われたことがあるんだが、私はこのように思った。人は何かを得る時、責任が生じる。その責任を持たざるものに何かを得る権利などひとつもない——、と。
子供を生む。それは『育てる義務』がある。
お金を得る。それは『申告する義務』がある。
何かを得る時、私たちは必ずそこに義務が生じ、その義務とは責任である。
そして、ツインレイにも言えることである。
ツインレイと再会をするとき、私たちは何かしらの義務が生じていると思われる。それがもしかしたら使命なのかもしれないんだけれども。
いわば、ツインレイと再会することは、私たち自身が「何かを得ている」ということ。
もし、何かを得たとき、その責任を果たさないとき。私たちは必ず傲慢に陥ることになる。これはもう確定事項だと私は感じている。
ツインレイたちが再び再会するまで、どれだけの努力をしているのか。自分自身のなかで努力があればあるほど「辛かった」と思うことがあると思う。しかし、なにも努力をせずに再会を手に入れた人たちは傲慢になる。
傲慢とは何か。それは、ツインレイの再会をしていない人たちへの共感を欠くこと。苦しみを抱えている人の前で幸せを見えることは、控えるべきだと私は思う。
それは私の狭量とも言えるのかもしれないんだが、少なからず、持っている人が持っていない人の前で「自分は持っている話」をするべきではない。これは道徳性。人の心を思えば、それをするべきではないことは直ぐにわかるだろう。道徳とは心の社会性である。
少なからず、そういったことは「自分のフィールドのみ」で行うべきことだと思う。
では、どうしてそのような傲慢さが出てきてしまうのか。
それは、ツインレイとして努力をしていないからってのもあるとは思うんだが、何かを得るからこその義務が果たされていないというのがひとつにあげられるのではないかと思う。何かから逃げたがゆえに手に入れたものがある人もいるのかな。
降ってわいた幸運がツインレイだった。だから、何かの努力をしたわけでもないから「得たものを自慢してしまう」否、彼らにとってそれは自慢ではない。ただの事実として伝えようとするんだろう。
しかし、わざわざ未だ得ていない人の前で「伝えること」。それは「自分は得ているんだ」と思いたいっていう心理が隠れているような気がする。いわば、比較の世界で、相手がいることで自分は持っていると自覚する必要性がある。
ツインレイとしてもし自立しているのであれば、他者により自分が持っていることを自覚する必要性はない。私たちは精神的に自立していることが求められているのだから。
背景がないとも言えるのかなと思った。
得たものに対しての努力がないとは、得たものを得るまでの背景がない。それは逃げた先にあるものを手に入れたから。
ツインレイとは「逃げた先にいる人のことを言うのか」ということ。問題から逃げることは、それは「得た」と言えるのか。
だからこそ、私たちは向き合うべきものと向き合わなければならないのである。それが「ツインレイ」であると私は思う。
私が思うに、傲慢とは得た際の『心の身分不相応』ではないかと思う。
それを得るだけの資格がないという心の采配に、傲慢がでてくる。
- 逃げ出した先にある降ってわいた幸運を手に入れたから。(これが落とし穴なんだろうな)
- 自分が得ているものに依存しているから。
- 自分が得ているものに対して社会的な義務を果たしていないから。
私はこの3点が傲慢になってしまう理由なのかな? と思った。
得ているものに対しての『責任』というものが乏しいのかなと思いました。
もし、ツインレイの再会をすることが『責任』であり、また、その責任を果たすことができる覚悟を決めることが出来たならば、あなたはツインレイの再会をすることができるかなと思います。
人それぞれ責任の中身も違うし、それがなんなのかはわからないのですが、それは『未来への責任』。
その未来をちゃんと実行するには責任がある。それは『幸せになる責任』でもあると思っている。
幸せになる責任とは、自分の周囲にある不幸に対して共感を感じて、いっしょに幸せになっていく力を別けていくことなのだと思う。
それは「人の上に立つこと」ではないし、横に並び、一時の不幸だったときの自分を見つけたときにどうするのか——なのだと思う。
私たちは辛いことから逃げる為にツインレイと結ばれるわけではない。逃げた先にツインレイがいるわけではない。
辛いことに向き合い、努力をして、ツインレイと結ばれていいく。だからこそ、私たちはツインレイと結ばれたことをひけらかすわけにはいかない。その辛い気持ちがわかるからである。これは『向き合っているから』こそ言えることである。
ツインレイとは、あなたが幸福になるために再び出会う。幸福になるとは、責任を果たすことである。その責任を果たすだけの覚悟を決める必要性がある。
精神的な感情として『幸福』があるが、幸福を現実に変換するとき、私たちには『責任』が必要になる。その責任を果たすことなく幸福を手に入れた人たちは、幸福な心が傲慢へと切り替わる。さて、これを真実の幸福と言えたものか。
自分が持っているものを『外に出すこと』が悪いことではない。
ツインレイの再会を外に出すことも悪いことではない。だけれど、それを出すんだったら、ちゃんと責任を果たせと思う。その責任がなんなのかはわからないけれど、何かを得ていると思うのであれば、そこには必ず責任がある。
無責任であるならば、その責任がわからないと思う。
それはツインレイの再会のときにわかるんじゃないかなと思っている。
ツインレイの再会時に、配信をしていない人たちはもっとプライベート的な部分で『社会的な責任』が分かると思う。だって、それを果たすために私たちは出会っているんだから。
そして、配信をしていたり、社会的な交流を作っているツインレイたちがもし再会をするのであれば、それはコミュニティー部分で『責任』を果たすことになると思う。それがなんなのか、わからないんだけどね。これが「ツインレイの使命」だと思うんだ。
『再会』とは、たんなるものではない。
これは責任を果たすために、出会いなおすのである。
私たちは、未だに無責任で責任をとれるほどの器ではないからこそ、距離を置いた。それがもしサイレント期間であるならば、私たちはその期間で責任がとれる大人になっていく必要性がある。
大人でなければ責任をとることができない。大人とは社会性を持っているからである。
そして、道徳とは心の社会性であり、心もまた社会性を帯びる時、共感性を失うことはないし、「得ているもの」としての存在として責任を果たすことができるだろう。
ツインレイでは愛を語ることが多いけれど、愛なんて口先でいくらでも語れる。
愛の裏側に責任がないものなど、それは愛ではない。ただの戯言である。
その愛が真実のものであるならば、必ず、責任を果たすだろう。
しかし、責任が果たせないこともあるし、果たしたいのに果たせない自分のこともあるだろう。
愛が社会性を齎したとき、私たちは何かを現実で得ることになる。それが結婚である。
私たちは認められたい。それは傲慢の裏側にあるものかもしれない。
しかし、自分が「責任を全うできる」という自信や覚悟もなく、認められたいと他者を求めるのは傲慢に繋がるだろう。
私たちは認められたい。しかし、一番に自分のなかに自信がなければならない。自信もなく得たものなど、不安で堪らないんだろう。
持っていることに恐れを感じることもある。これを持っていて、それでいいのか——と。
愛を与えられ、それを受け取るだけの価値が自分にあるのかと不安になることもある。それが自信がないってこと。
私たちは、このサイレント期間で自信を構築してきた。その自信こそ、私たち自身が『幸福になる自信』のひとつになれる。
自信とは「蓄積」からしか生まれない。時間が必要なのである。
そして、愛が本当の愛であるとき、必ず社会性を持つことになるだろう。その愛は実ることになるだろう。
しかし、真実の愛ではなくても、社会性を持つことはできる。婚姻届けをだせばいいだけのことだからね。しかし、その結婚に不安が尽きることはないだろう。第三者を必要とするだろう。それがツインレイとして名前を出すことなのかもしれない。誰かに認めてもらわないと自分の結婚を認めることが出来ないからである。
真実の愛であるとき、私たちの愛は「他者に認められる必要性」はないだろう。
だが、私たちの愛が社会性をもたらすとき、「誰しもが認めてくれる結婚」が成立するだろう。
承認を求めたから承認されるのではなく、承認されるべきものが承認されるのである。
私たちは承認されたい、認められたい。
しかし、求めることはしない。求めずとも与えられるからである。与えられるほどの価値があるから与えられるのである。