実存主義の私と、虚構を生きるツインレイたち。

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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私は実存主義だったんだなと、改めて思う。

私は「優しい人になる」「教養のある人になる」という、自分をどのような人になるのかを定義し、その定義に向かう私は確かに実存しようとしていた。

実存主義とは、この人生に意味はないし、自分の存在に意味はない。だからこそ、自分の人生は自分で決める。代わりに、どんな選択をしようが結果どのようなことになろうが、その責任はすべて自分にある——という思想である。

そして、今回、私は自分の存在を認め受け入れることが出来た。

人はそうやって自分をどんな人になろうか——と虚構を生み出し、その定義に向かって生きる。これが実存主義の生き方だとは思う。

だからこそ、私は実存主義だと思った。

 

そして、実存主義が否定する存在というものがある。

それは『自分で自分の人生を生きることがないこと』です。自分で自分の人生を選んでいるように見えて、ただ誰かのストーリーを同じように生きていることがある。

実存主義には虚構という言葉があるんだけれど、これがツインレイにも当てはまることがあるのかな? と思いました。

ツインレイは虚構だなと思いました。誰かが与えてくれたストーリーであって、自分がその道を開拓しているわけではない。なぜならば、そこに『自由による選択』が与えれていない場合があるから。

自分の人生の責任を取らなければならない。それは自分により生まれる責任である。

自分自身がツインレイを信じ、そのツインレイのステージを進んでいくのかどうかは自分で決める。そして、それがどのような結果になったとしても、その人生の責任は自分で持つこと。

私は、この数年、ツインレイとしての活動をしてきた。そして、ステージを登っている体感もありながら、それを『自らの道』としている。私は提示された誰かのツインレイストーリーを生きているわけではない。

私は「私が自分をツインレイと信じている」わけで、「誰かにツインレイだと言われているからツインレイをやっているわけではない」のである。だからこそ、私をツインレイだと思ってもらう必要性もない。

私は、この『自分がツインレイの道を行く』ことの責任をとっているつもりである。そして、私がツインレイであり、今の自分が実存している理由は、虚構を信じることが出来たからなのだと思います。

では、虚構とは何か。それは未来の希望です。私はツインレイの彼と再会したい。そういう虚構を信じていました。そして、その虚構を生きることがこの数年間の自分の人生の励みともなりました。

しかし、私がツインレイであることに意味はありません。それはフィクションですし、私がただその希望を必要としていた。

だけれど、その希望は「誰かが再会しているツインレイの姿」を追いかけてきたわけではないと思っています。私は彼と再会する自分を夢見てきた。これが『虚構』です。

私は、彼と再会した姿のフィクションを希望として見てきた。それが希望でした。それが数年の私の人生の励みであり、誰かの人生と同じような人生を生きるために、誰かが羨ましいから私も同じように再会したいとか、そういうわけではありません。

私は自分でその再会を勝手に夢見て、勝手に希望を見つけ、その方向性へ向かってきた。その最中に、多くの苦しみ、悲しみ。つらいこと、しんどいことありました。だけれど、この希望があるからこそ、今の私がいるのです。

私は、この数年間の自分の責任を取りたいと思っているし、当初も覚悟は決めていたところはある。

もし、追いかけ続けたところで、結果は出ないかもしれない。再会は出来ないかもしれない。だけれど、私は希望を捨てることなく生きるという選択をする代わりに、その期間の責任をとる。

ツインレイの再会が訪れなくても、私はこの期間に彼との再会を励みし、先に進むことが私自身を前に進ませるための大事なことでした。そして、今、ツインレイの再会は訪れていません。しかし、私はひとつも後悔はありません。

それは「ツインレイの再会を希望する」という虚構を私自身が生み出し、前進することが出来たから。

ときおり聞かれました。「何がしたいのか」と。この人生に意味などありません。意味などないのに「何がしたいのか」とは本当によくわからない話です。やりたいからやっているだけであり、私は自分の無意味な人生を意味あるものにしたいと実存しようとしていたに過ぎない。

実存主義に重要な思想の一部として「自由には責任が伴う」ってこと。私もたまにこれについては書いてたりしますが、自分がした選択という自由を得る代わり、その選択には責任が伴う。

そして、その責任をとれない人たちもいますし、責任をとれる人たちもいる。

最終的に「ツインレイは嘘っぱちだ!」ってところに行き着くとき、ホントに『嘘』なのか、それとも『虚構』として理解できているのかってところなのかな? と思います。もしくは『真』だと思っている人もいる。だけれど、真であると『信じている』ことこそ、虚構の姿であり、私たちは無自覚にもそれは『嘘である』ということを理解している。

この壁を乗り越えることは、虚構に気づくことでもあるけれど、同時に『選択には責任が伴う』ことに気づき、責任を受け入れることでもあるように思う。

責任とは何か、自分の人生、自分のしたこと、自分の発言、自分の人間性。『自分の存在』に付随するものへの責任があること。

そして、責任と共に生じるもの。それは『後悔』だと私は思います。

もし、あなたのなかに後悔があるのであれば、それは責任感があるから。その責任を果たすことが出来なかったことが後悔として自分のなかに芽生えている。それが『大人の兆し』だと私は思います。

ツインレイの出会いからサイレント期間。あなたは後悔がありませんでしたか。その後悔に気づき、その後悔を受け取ることは、私たちをひとつ大人にしては私たちを「再び同じ失敗をしない」と思わせる人にさせていく。

実存主義とは何度だってアップデートが可能なのだということです。

 

残念ながら、私たちはツインレイではありません。しかし、ツインレイの虚構を持っています。ツインレイという未来への希望を抱え、その希望を叶えた自分になろうとしている。

それはさなぎが蝶にかえる姿であり、私たちが前進する力でした。自分が求めた自分の姿になろうとする力。

『ツインレイ』という言葉は、私がサイレント期間に苦しい時も辛い時、どんなときだって私を支えてくれました。ツインレイであると思えるから頑張れるところがあったと思うから。この虚構もそろそろ終わりなのかなと、兆しを感じながら。

 

私は『傲慢』を切り離していました。

自我意識の拡大と縮小の経験をしていますが、その過程で、私は私のなかに存在している傲慢を切り離していきました。

そして、その過程で、彼の存在も切り離しています。

傲慢とは、損得と優劣でしかものを考えられない倫理観の欠如にある。

この傲慢さは、人の比較のなかで生きている。誰かよりも得をしたい、誰かよりも優位でありたいという『誰か』がいなければならない。

実存主義に『他者の虚構』は必要がない。

つまり、人と自分を比較しているとき、自分のほうが得をしていたい、優位でありたいと考える時、私たちは他者の虚構を生きているとも言える。

たとえば、ツインレイの再会を目指す私たちが誰かがツインレイの再会をしている状態に嫉妬したり、妬んだり、恨んだり。また、憧れを持つことは私たちのなかに他者の虚構が存在しているということ。

この他者の虚構を切り捨てていくと、私たちは「自分のツインレイの再会」を見つけることができる。それが自分自身が持っている希望であり、未来であり、たしかな自分だけのオリジナルの幸福となる。

ツインレイの業界では、多くのツインレイの虚構が存在している。しかし、型にハマる必要性はない。自分が思うツインレイの在り方でよくて、しかし、それは未来への展望であり、希望であること。

私たちがすべきことは、ツインレイである期間の責任を自分でとること。それを決断したのは自分自身であり、自分で選択したのだから。

ツインレイは『否が応でも』というところがあると思っているかもしれないんだけれど、ここはもう自分の選択をし続ける必要性があると思う。つまり、人のせいにするなってこと。ツインレイの相手のせいにするな。

今の自分が苦しかろうが、つらかろうが、何があろうが、私たちは「自分の選択し続けた結果」であり、もし、自分の願いが叶っていないことが苦しかったり、比較で劣等を感じるのであれば、それは他者の虚構を追いかけてしまっているから——である。

それでも、他者の虚構を自分のものだと取り込み切ってしまえば、それはそれで『自分の虚構』である。

 

私が思うに「どのような結果になっても、その結果による責任をとれること」が大人だと思う。

私がこのブログを書き続けたことによる結果もあるんだろうし、

私が「このままじゃいけない」って彼の傍から走り出したことによる結果が今の私だし、

私が彼との再会を目指し、数年がたったけれども、再会が見込めていない今。これもまた、私の選択による結果である。

選択による結果が生じ、その結果は自己責任なのである。

だからこそ「人は何しようが自由」なのである。

自由になりたい、誰かが言ってたけれどね。

人は何しようが自由だけれど、その選択による結果はすべて自分が背負わなければならない。その結果を背負うことを思うと私たちは『恐怖』『不安』が生じると、実存主義でも言われている。

でも、責任をとるだけの価値がある。恐怖や不安を乗り越えるだけの価値がある。

自由に、それだけの、もしくはそれ以上の価値がある。

ツインレイの再会をするために私は、自由にブログを書き続けたし、彼との離別だって経験しているし、今もまだ再会だってしていないし。

だけれど、私はこの期間の責任を取っているつもりだし、だからこそ充実していた。そして、これが自由なのだと思う。

ただ、この自由には『責任』があると書いたんだが、この責任とは「他者に迷惑をかけないこと」でもあり、自由に振舞うあまりに他者に迷惑をかけてしまえば、それは自由ではなく無責任な行動でしかない。これは真実の自由ではないと思う。

これはどういうことか。私たちをホントの意味で誰にも迷惑をかけずに自由であるとは、倫理や道徳をちゃんと持っていること。ここに心があること。

そして、倫理を持って自由を謳歌することができる。これが一人前だと私は定義したい。誰にも迷惑をかけずに、自分の在り方を定義することができるからである。

これぞ実存主義である。また、このときの私たちは傲慢ではない。自分のことしか考えないでいる自由は他人に迷惑ばかりかけている。他者を不自由にさせる自由を、一人前の実存主義とも思わなければ、ただの迷惑な人でしかない。

誰かに迷惑な人になるのか、それとも、誰かをも自由にすることができる人なのか。

真実の自由な人とはどちらなのか——だったのかな? と思われる。

少なからず、一人前の自由な人は、誰かをも自由にし、自分さえも自由である。

サイレント期間の突入は、あなたにとって『自由』を与えられた機会でもあり、あなたが誰かに『自由』を与えた機会かもしれないよ。

そして、次に、自由による責任がとれているのか。後悔があるのか。後悔はあなたに心を与え、再びの機会を与える。

信じるべきは「明日の自分の背中」であって「誰かの人生」ではない。誰かの人生はあなたの人生を保証するものではない。

ただ、自分の虚構(未来の希望)を作り出すヒントかもしれない。

 

そして、自分が他者に不自由を与え、不快を与え、人に嫌悪感を与えるような実存をしていたとしても。それはその人の自由であり、その人がとるべき責任がある。

だけれど、昨今は「人に不自由を与えたことへの責任がとれない」人たちが続出もしている。

大人と子供が明らかに分別されつつあるとは思うけれど、子供でい続けることを選択することも自由だし、大人になろうとすることも自由。

すべてが『自由』であり、もし忘れてしまっても事実は自分自身のなかに残り続けるし。そして、そんな子供たちも自分の人生の責任を取っている。

とっていないように見えるかもしれないんだけれど、絶対的に責任を取っている。責任とは「人生を生きる」ことだから。

これを因果応報というのかもしれないんだけれど、精神が無責任な部分だけ分離してしまい、認識が出来なくなってしまう。(だから、他者への共感性を失うのだけれどもね)

そうなってしまうのも自由だし、変わりゆくことも自由。そのあたり、どう生きようが自由であり、人に不自由を与えるような自由であろうが、同じように責任を取らされている。

だから、たぶん、簡単に「どんな自由でもあれども責任はとっている」ってことを書いておきたい。

責任を取らない人もまた絶対「とらない責任」を背負っている。その分だけ、捨てることができるはずの荷物を背負い続けているだけ。

とることだけが責任ではない。とらない責任だってそら存在している。

そう考えると「無責任だ」と思う人たちが、何をやっているのかがわかる。彼らは自分が生きるだけのことに必死。

責任をとれる人たちは、自分が生きることだけじゃなくて、他者を生かすことができることにも気が回っている。自分が生きることに必死ではない、余裕がある。

まァ、無責任サイドからすれば、余裕で生きている私のことが羨ましいんだろうなとは思う。

姉なんかは私が三十代半ばまで独身ニートでい続けられる、この余裕が羨ましいだろうなと思う。彼女はバツイチになる覚悟もできなくて、男にすがることしかできない人だったから。それは余裕がないんだろうなと思う。

余裕は「元々ある」わけではない。自ら作るものだとは思う。私は自分のことよりも人のことと率先してやってきた代わりにボロボロになってしまったが、余裕はすごくある人だと思う。ボロボロになった分だけ、気合いで余裕を作ってきた。

余裕とは「どんなシーンにおいても人のことを思う」ことなのかな? と思う。それが難しい、自分の生きることだけしか考えられない余裕のない人もいる。無責任ってそういうことなのかな? と思う。

 

彼があのとき、無責任だったならば、それは時間の余裕がなかったんだろうなと思う。私も、精神の余裕がなかった。

それで余裕が生まれたら、傲慢になる人と、幸福になる人に分かれている。

お金をいっぱい手に入れて人よりも上だと思う人もいるし、ツインレイの再会をして人よりも上だと思う人もいる。傲慢だと思うし、優劣と損得でしか見ていないし、他者の虚構を生きている。

自分が幸せでなければ、人に幸せを与えることが出来ない人たちもいる。

でも、別に自分が幸せでなくても、人に幸福を与えられる人もおるんやで。それが余裕だから。

ツインレイの再会をしたら、傲慢になる人もいれば、幸福になる人もいる。

ツインレイの再会をして調子に乗っちゃって、人よりも優位だ、ウェーイ! ってなって配信する人もいるし、ツインレイの再会をしてなくても、配信しているなとりもいる。

人は追いつめられると『本性が現れる』っていうけどさ、

私は、人は余裕が生まれると『本性が現れる』と思う。それが傲慢という本性。

人よりも多く持っていることが偉い人たち。

ツインレイって「人の本性を暴いている」のかな? とも思う。