真実の愛~True Love

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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真実の愛とは何か——。それはひとりの人を純粋に思い続けることなのか。

それとも、無償の愛のような、すべての人を愛する心のことを意味するのか。

色々な答えがあるんだろうと思うし、人それぞれ『真実』が違うわけである。

ツインレイの道のさなか、私たちは『真実の愛とは何か』の解を探している。その答えを追い求めている。

その答えを、私が私なりに表現してみようかなと思う。

 

真実の愛とは、私の胸に灯る小さな灯であり、小さな輝きである。

それは、私の霊体そのものである。これこそが私の真実の愛の形である。

霊体は私自身ではなく、私のなかに宿っているものであり、その宿った霊こそが私の愛である。

すべての人のなかに霊体は存在している。ときに霊体がいない人もいるけれど、その霊こそが私たちの愛である。

真実の——とするとき、私たちはそこに行動も、発言も、在り方も、何も意味を持たすことができない。

私たちは、愛を表現することができない。こと、真実の愛こそ私たちは表現を失う。

私のなかにある小さな灯、小さな輝き。そして、小さな光。

私はこの光を視たことがある。そして、その光を受け取ったこともある。私は、ときにその光であったこともある。

しかし、私は霊体ではない。私は肉体を持つ『人間』であることをゆめゆめ忘れてはならない。

私はときに、霊体が私こそだと思うこともあった。だからこそ、私は自分がツインレイであるとも感じたこともあった。

しかし、この愛の目覚めは、身を律する思いを与えた。

いいや、愛は私ではない。愛は、私のなかに宿る、この霊体こそが光なのであり、愛なのであり、ツインレイなのだと。

そして、これを『神』と呼ぶこともあるのかもしれないし、しかし、私のなかにいる小さな霊体は神ではない。どこにでもいるようなだと明言しよう。

 

霊体は私ではない。光は私ではない。輝きも灯もまた、私のなかにいる霊体は私ではない。

どこからかやってきた私のなかに宿る存在。それが私の愛である。

私は、これを『真実の愛』だとするには、それなりの理由がる。

その愛は、私のなかに存在している。ただ、ここにいる。

誰かに気づかれることもなく、私でさえも気づくこともなく、ただここに存在し続けている。

私のなかに存在する霊体は、ただ存在しているだけで何かをしているわけでもない。

 

だけれど、初めて私の愛が動いたことがある。彼に対してだけは愛が動いたのである。

彼に話しかけ、彼に愛を覚え、彼を受け入れたいと思い、彼に降りかかる全ての火の粉を私が背負うのだと、光が語る。

私はそれを聞きながら、大したものだとは思うわけれど、それがもし『愛』なのであれば、確かに愛だけれど、今ならば、それが愛かといえば、愛ではないこともよくわかっているかと思う。

愛とは何か——。その探求は、霊体がしていたことであり、人間側の私がしていたこととはちょっと違うんだろう。しかし、私は愛と共にあった。それは確かに共にあれた、二人三脚でいられたと思う。

私のなかの光は、愛を学ぼうとしていたし、より輝こうとしていた。

私が持つ記憶であれば、この世に生まれる時の光として「みんなの念願をかなえにきた」と言っていた。

その光は、私のなかに宿る希望のようなものである。それは「人間側の念願」ではない。霊体側の念願である。この地球に閉じ込められている仲間たちを解き放つこと。これがみんなの念願だというのだ。

 

少し話が脱線したが、真実の愛とは、私のなかに宿る不思議な女の子。私の分身でもある霊体である。もうひとりの私でもあるし、それは私ではないし。でも、ずっと共にいた分身である。

この子は私自身にとってのツインレイでもあると思うし、共に生きてきた存在である。

私のなかに「もうひとりいる」という体感は、随分前からあったが、それが「霊体の私」であり、私ではない私である。

それが私の真実の愛であり、私のなかに存在する愛である。

それは存在するだけであり、ここに「宿っていること」に意味がある。

そして、私が器として少々闇深いがゆえに浄化を必要とした。その過程が色々あった。それが神かかりによく似ている。

 

私は、私を『光』だとは思わない。でも、私のなかに確かに『光』が宿っている。

その光を受け入れるには浄化が必要。そして、真実の愛への到達も必要。

愛とは、言葉ではない。行動ではない。在り方でもない。

真実の愛とは、私に宿る小さな光である。この光こそが愛である。

この光を共に輝かせるにいたるまでの道を彼くんが霊体の双子として存在してくれていた。

彼くんもまた光だと思うし、真実の愛に到達しているはず。光に気づいているはず。

そして、この双子の光である光の柱が立つとき、私たちはツインレイである。

この光を私は「小さな神さま」と呼んでいた。いつだってそばにいてくれる小さな神さま。

この神さまに気づくことが私は必要なのだと思う。

その愛に気づき、この愛が何かをしてくれているわけでもないのだということ。

真実の愛とは「ここに愛があること」「ここに共に生きる霊体がいること」に気づき、それこそが愛なのだと知ることだと私は思う。

そして、その霊体が私たち自身ではないからこそ、私は私がツインレイではないし、ツインレイであることを否定することが重要なのである。

自らがツインレイになったとき、私たちは霊体が与えてくれている、そのすべてを自らこそが神になった気分で生み出したのだと言う傲慢を言葉にすることだろう。

私はツインレイである。これこそ、私たちの傲慢により生み出された言葉だし、私たちはツインレイではなく、ただの人間であることを忘れてはならないし。

なんなら、私たちのなかに存在している霊体こそがツインレイであり、そのツインレイたちが光であるがゆえに私たちは、真実の愛に気づくのである。

 

愛はここにある。私たちの中に宿っている愛がある。この愛を受け取るとき、私たちの世界から闇が晴れる。

愛。それは自ら湧き出るものでもある。

私たちのなかに愛の源泉があることに気づけば、私たちは、愛を無限に生み出すことができる。

私たちのなかには、愛の源泉が存在しているのである。とどめなく溢れてくる愛を、私たちは受け取り続けていくし、私は私にも、あなたにも愛を届けたいと思う。

なぜならば、それが私の光であり、私の愛だからである。

しかし、愛とは「ここに愛があること」でしかない。それが何かしらの行動として現れ、何かしらの分かりやすい感謝を受け取れるような姿をしているとは限らない。

ただ、私は、言葉に、行動に、所作に、私の存在に愛をのせるだけである。それは視えないし、それはわからないだろう。

それは気配すら感じられないだろう。ただ「愛はある」のである。それを信じるしかないし、信頼するしかない。

もしかしたら、納得がないかもしれない。それでも、すべてに私は愛をのせるのである。

これを『慈しむ』と言うのではないだろうか。

 

いつか、私は霊体から受け取る愛をすべて私の『生きる』に乗せることが出来るようになるだろう。

私は能動的に生きている。私は自分の在り方まで哲学をする。だからこそ、私は私に「愛をのせる」ことも、意図して行っていくだろう。そして、それが息をするようにできるとき、私は愛を誰かに届けることが出来ていると思う。

私は、霊と共に生きる。それは、愛と共に生きることだし、霊から生み出される無限の愛を受け取っていきながら、愛をすべての存在に差し出していく。

 

愛している。この言葉の無意味さを、本当は意味あるものにしたかったんだと思う。

真実の愛。それは、私のなかに宿る霊体そのものであり、それは愛の源泉。

私は宿り木、霊と人の共生をする。霊を私は「小さな神さま」と呼んでいた。それは私と共生している存在である。

 

小さな神さまはみんなの念願をかなえにきた。いっしょにかえろうと言う。