アダムとイブによるヤハウェから与えられる羞恥心と自己責任について(すっぽんぽん集合)

2024年11月24日

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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なかなかのカップリング。

イブは自分がないから、蛇に唆されて善悪の実を食べた。

アダムは相手を見ていないから、イブを守りきれなかった。

イブは自分がない。アダムは自分のことだけ。

アダムとイブのカップリングである。

 

失敗、失敗。仕切り直してもう1回。

私はそれまでイブだった。自分がなかった。

ちょっと違う、自己喪失させるようにしていたので、自分がない状態に自分をシフトさせていた。

彼はそれまでアダムだった。自分しかなかった。

とは言えど、今は自分のことしか考えられない状態の人だった。意識を常に自分にシフトしていた。

というような関係性が最後は、大失敗へと到達する。

このときの私たちは『善悪の実』を食べたのである。

そして、時を超えて羞恥心を手に入れた。数年越しにである。

それまでの私たちは、思い込みの激しいエスパー女子と、自分のことしか考えていない独りよがりのクズ男子だった。(道連れ御免)

私は『思い込み』という世界観に足を突っ込み、妄想、空想、幻聴、幻覚というものを分析しては克服してきた。

それはイブが持つべき善悪であった。自分がどれだけ恥ずかしい自分だけの世界に生きていたのかということだった。

アダムが何やってんのかは知らんケド。自分のことしか考えてない自分について善悪の審判つけられて、その内容に共感していくことになっているとは思うけれど。

そして、振り返って「自分は未熟だったな」と思うのである。

アダムとイブの善悪は別なのだと思われる。世界観が違う。

アダムはより現実的で、イブはより精神的なんだと思う。

イブもアダムも『社会からどのように観られているのか』については、よくわかっていなかったように思う。それが恥ずかしいことなのだと知らないのだ。

あのときの私たちの出会いは『丸出し⊂( ^-^)⊃』だった。隠すべきものさえなかったのだ。

『全なとり』が肯定され、『恥ずべきなとり』まで肯定されて赤裸々だった。

恥ずべきなとりとは妄想癖で空想に浸り、思い込みが正解だと思っているなとりである。

ただ、なとりは妄想も空想も、思い込みもなかった。

実は『恥ずべき失敗作のなとり』が完全体として分離しているからこそ『威風堂々とした成功作のなとり』も完全体として分類している。(ので、別に妄想でちゃったり、幻聴とか出ても問題がない( ˇωˇ )治せるぽい)

成功作のなとりは、失敗作の恥ずべきなとりを抱き合わせていくことで、失敗は成功のもと(〃•ᴗ-〃)と言っているのだ。

ゆえに私は恥ずかしい自分も赤裸々公開ができる。失敗した分だけ成功するからだ。

で、私がブログ公開しているのも「見よ( ≖ᢦ≖)私という失敗を見よ( ≖ᴗ≖​)ニヤッ」という考え方がある。

私は失敗するつもりで生きている。

さて、では「成功とはなにか」である。

それは「羞恥心」である。羞恥心を感じたら成功である。

恥ずべき失敗作の自分が「恥ずかしかった( * ´▿` * )」って思ったら、成功である。恥という意識が樹立するから。

恥ずかしいなと思うと、逃げ出したくなって、いなくなってしまいたい気持ちに駆られて逃走する。

失敗したと思ったら、たいてい逃げ出したくなる。

失敗したら逃げるのではなく、恥ずかしいなと感じることに意味がある。感じた瞬間、黒歴史が生まれ、黒歴史は過去のこととして始末される。

過去のこととして始末された分だけ、私たちは過去の積み重ねが生まれるのである。

これが人が持つ言葉の重みである。

殺人犯が「人を殺してはならない」と言葉にしたら、すごく重く感じられるような感じ。

それが殺人犯だと知らなくても、私たちは、なんとなく(;`ω´)ゴクリとしてしまう。

それは殺人犯が「自分は間違えてしまった」という後悔を持っているからである。

人はそうやって経験を積み重ねていくけれど、そこには必ず失敗があって、その失敗には羞恥心というものが生まれる。

そんな自分を隠すことで人は秘密が生まれる。その秘密が、魅力に繋がっていく。

漫画とかでキャラの過去の話とかあるやん。なんでこのキャラはこんな悪役になったんかとかのサブストーリー。

隠された記憶と、それが暴かれるときがセットで、案外「隠されたままわからない秘密」を持ったままのキャラってすげえ魅力がある。語られていないから魅力がある。

神話とかも「よくわからん」から、すごく魅力的な題材にあげられるわけである。そこにあるのが個人の自由なのである。

その自由を謳歌している人たちのなかでも、イブのように、思い込みで相手を決めつけるような癖が生まれたりするのである。

アダムとイブは楽園で超絶自由人だったと言える。

思い込みで相手を決めつけて勝手に妄想で話しててもいい。超自由。

自分がやりたいことやる。相手がやりたいことはガン無視。超自由。

その結果、ふたりは楽園を追放されることになる。超自由過ぎて、イブは実を食べ、アダムも実を食べた。

それから自分の責任について考え始めて責任転嫁を始める。

まんま、アダムとイブの超自由にした結果の責任は、自分がすべて背負わせねばならないことになる。

これが『大人になる』ということ。

イブは超自由に妄想しまくって決めつけまくった責任を背負わねばならないし、アダムは超自由に振る舞い続けた責任を背負わねばならない。

自由の代わりに生まれるものがある、それが責任である。

自分がした犯罪には自分が責任を負う、当たり前だよね。ヤクザ世界じゃあるまいし。

この期間に、起きていることのすべては『過去の責任を今、背負わねばならない』こともであるし、『責任を背負うために訓練している』とも言える。

ここで二分される。

  • 自分の責任を自分で背負っている人
  • 自分の責任を自分で背負っていない人

大人って、自分が自由である代わりに責任が伴っている。

つまり、超自由なのはいいが他人に迷惑かけたら、それはそれでツケがあるんだよってこと。ママやパパが守ってくれるわけじゃない。

パパやママになるんだったら、責任を持つ大人になりなさい。まずは自己責任なんだよな。

女性は自分の精神の責任を取らねばならないし、男性は自分の現実の責任を取らねばならない。それが真逆の世界に通じているのである。

女性は精神の責任がとれれば、現実の責任がとれる。男性は逆。

 

責任転嫁が起きるとき、自分の怒りを相手にぶちまけることが責任転嫁。相手をサンドバッグ扱いする。これが自分の感情に無責任。

自分の憎しみは相手のせいで発生した。誰かを憎み続けることも、自分の感情に無責任。根源にある自分が勝手にやった自己犠牲を「相手に犠牲にされた」と責任転嫁している。

思考の癖みたいなものなんだが、自分で得た感情のすべては『相手から発生している』と思いこんでいる。これが無責任。

自分で得た感情は自分の中からしか発生しない。他人は関係がないのに、他人がそこにいるから自分の感情が発生するっていう自分の感情の自己責任がとれていないってことになる。

誰かのせいで自分の感情が発生していると考えている人の多くが、妙に妄想性を発揮しているのである。

ピー( ∩’-'∩ )ーにも同じことが言える。

相手がいるから恋をするんじゃない。恋は自らのなかに発生するものであり、相手は関係がない。

つまり『自分の感情世界による自己完結』が出来ているかどうかがミソだったとは思われる。

それが『感情の自由』である。自由を尊ぶのであれば、責任が伴う。その責任がとれていないとき、私たちの世界は妄想世界でしかない。

思い込みで話をしているエスパー女子になる。めっちゃ恥ずかしい人になる。

最後に恥ずかしい自分を受け取って無花果の葉を贈呈される。

それまではすっぽんぽんの刑を受けており、周囲の大人からは「まだ隠せてないのね( *´ω`* )」と、生暖かい目で観られている。

これに気づいた瞬間、我らはりんごの如く、顔を赤くすることになる。我らの罪のであり、我らの徳である。

それが『羞恥心』という徳なのだ。

これは失敗したことがない人には与えられない。羞恥心は失敗を受け入れられていた事実により生じるのである。

相手は「自分が思い込みの話していたのをわかってたかもしれない。」って理解した瞬間、恥ずかしいのである。

失敗とは『他者に認められた』時点で生じる。否、それが思い込みでいい。

他者が自分の思い込みで喋っていることを知っていたかもしれない。

これが、恥ずかピー( * ´▿` * )

 

ヤハウェとは、ここから羞恥心の神なのかなと思う。つまり、客観性の神。

人類に対して、間違いや失敗とは恥ずかしいものであり、その恥ずかしさを教えてくれている神。

そして、その羞恥心があるから人は自分で自分を育てていくことが出来る。

なんなら、アダムとイブは責任転嫁をしたがゆえに羞恥心がパイパイにいってしまったのではないかと思われる。見掛け倒し、肩書き、表面的な取り繕い、外見へのこだわり、過剰なオシャレ、中身のない人間、数字。

ヤハウェは自己責任の神とも言える。代わりに人類への自由を与えている。

また、ヤハウェは自己責任をとることが出来ないでいる子供の存在を楽園という世界で囲っている。

そして、地上では大人になってパイパイを隠す自己責任がとれない存在と、羞恥心を覚えて自分が恥ずかしいと思っている存在を送りだしている。

性別を隠した無責任と、性別を隠さない自己責任である。

前者は恋が成立しないが、後者は恋が成立する。

何故ならば、恋とは羞恥心から生まれるからである。

相手を異性だと認識するとき、私たちは性別を隠していない。しかし、私たちは私たちのとるべき責任をとっている。

それは『性別としての責任』である。

 

恋だと言うけれど、それは本当に恋なのかな。そこに性別としての責任はあるんかな。

性別としての責任とは、女性は感情の自己責任で、男性は現実の自己責任。

この自己責任がとれていない人の子供はアダルトチルドレンになりやすいってことだな。

 

蛇=情に溺れる

善悪の実=投影、妄想を破る

引用:アダムとイブの神話による精神体系

善悪の実を食べると神になれる――んでしたっけ。

結構、今回、神になった人達も多かったような気がする(一応書いて置くけれど、皮肉だよ)

そっくりそのまま『蛇の言うことを信じた』ということ。

投影や妄想を破るものが善悪の実だけれど、蛇という自分が持つ狡猾さやプライドに溺れると『神になる』んだと思われる。

神になろうとした人たちが善悪の実を食べると『神になる』わけで、同情心で善悪の実を自ら食べた人は『羞恥心を憶えた人になる』んだと思う。

神になった人達は、自分の主観で神のように審判を今も下している。

それが傍から見れば、すげえ恥ずかしいことやっていることに気づかない。

神になった人たちが『羞恥心』を憶えたらどうなるんかはわからんが、全崩壊するんだろうなと思う。

それは私という存在を認めることだと思う。

 

私から見えた「あなた」は、どんな存在に見えていると思う?

今や「すっぽんぽん」にしか私からはみえていないものがものすごく増えた。

だが、私はそんなあなたたちに「何も言わなかった」のである。黙っていたのである。

そんな私があなたのなかにいるんだよ。

それが『神の意識』である。

恥ずかしい人だなと思ってもほったらかし。

それが神の意識。そう、あなたがいかに恥ずかしいすっぽんぽん人間でも、神はあなたを許しているし、存在を認めてくれている。

すっぽんぽんでもね。他人から距離を置かれているすっぽんぽんでも。

恥ずかしい自分がすっぽんぽんであることを「誰も指摘してもらえない」のは、みんなが『神』だからだよ。

人じゃないのよ。あなたのことがどうでもいいの。すっぽんぽんでも、どうでもいいの。

あなたが如何に恥ずかしい存在であることに気づいていない人で裸の王様だったとしても、神はどうでもいいの。

「あなたのことがどうでもいい神」もいれば「あなたを見守ってくれている神」もいる。

あなたのことがどうでもいい神を連れている人は羞恥心がない。あなたがすっぽんぽんでもどうでもいいねん。

あなたのことを見守ってくれている神を連れている人は、そのうち羞恥心がでてくる。大人になるときにすっぽんぽんを教えてくれる。

無花果の葉をプレゼントしてくれる。それが「性別としての責任の印」となる。

 

すっぽんぽんなら、男性に嫌がられても仕方ないと思う。

感情の自己責任がとれない。妄想に取りかれているヤバいやつ。

もしそれを嫌がらない男性に「そんな私でも愛されている」とかいう話が『ありのままの自分を愛される』ということならば、それは子供が親に愛されているってだけの話。

恋ではない、親への依存である。

ありのままを語るんだったら、自分の感情やら自分の悪意、思い込み。そのすべてを客観的に捉えて羞恥心を持ってようやく「ありのまま」を語れる。

親の庇護化にある束縛の中にある自由と、自己責任の中にある自由の意味は違う。

前者は猿だから束縛というルールが必要。

後者はルール不要、自分の中に社会適応に結びつけることができるルールが成立しているから。

 

自分はありのままで自由でいいんだ!!

そういって妄想の話をしてたり、人に自分の悪意を振りまいて押し付けては犯罪やってたら、刑務所か閉鎖病棟に連れていかれる。現実的に閉じ込められる必要性がある。

その辺、履き違えたらいけない。自由の意味が違う。

すっぽんぽんとありのままは違う。

すっぽんぽんになって自分の羞恥心を鍛えるのと、すっぽんぽんで他人に責任を押し付けまくっているのとでは雲泥の差がある。

だが、両者ともに同じ空間に入れられる。

なぜならば、ここはどちらもすっぽんぽんであるがゆえに集う浴場である。

⊂(`・ω・´)⊃すっぽんぽん、集合だ。

(`∩ ω・´)⊃🍀さァ、隠せ。恥ずかしいだろう。

( ;゚д)ザワ(;゚д゚;)ザワ(д゚; )オマエモナ-

 

じゃあすっぽんぽんの恥ずかしい人格って何か。

それが『自責』という自己責任の人格になる。

自己責任ない恥ずかしい過去を背負っていない黒歴史のない人って、たいてい恥ずかしい自分への否定がある。

みんなあるぜ、黒歴史。

恥ずかしい時分を受け入れられないと、他責になる。他人に自分の責任を押し付けるようになる。

 

自分で自分の人生の責任を背負っている人は、

  • 犯罪を犯さない
  • 妄想癖ではない
  • 過去のはずかしい自分を恥ずかしいと自覚している
  • 同じ失敗はおかさない
  • 他人の悪口いわない
  • 愚痴がない
  • 他人を許せる
  • 失敗を受け入れている
  • 自分が今やるべきことをやっている
  • 他人から見えている自分を理解している
  • 悪い自分を否定して分離させている
  • 自分の人生に無責任ではない

って感じかな。

自分の人生に無責任ではない――とは、悪いことしないって意味。

自分の人生を不利にするような生き方をしない。

それって

  • 犯罪をしない
  • 社会のルールを守る
  • 悪いことをしない
  • 道徳を守る
  • 相手を思いやる

それってすべてが『許し』に繋がっている。許しているから自己責任が成立している。

許せないのは自己責任がないってこと。

自分の人生の責任を背負っている人は、ものすげえ器がでかいもんなんだよ。

だから、ヤハウェは『許しの神』でもあるんだと思う。

一神教だと思う。だって、自分の人生の神だから。

自分の人生はひとつしかないから。自分の人生への信仰はヤハウェ信仰だと思う。