女性が社会で生きていくために体を差し出して、憎しみを貯めてきた人格をレイキで癒す。
これは私が家系の因縁で引き受けているものだと思います。たぶん、多くの人が背負っているのではないかと思う因縁です。
女性は社会で一人で生きていくと言うことがなかなか難しい時代もありました。そんなとき、私たちが差し出したものは『身体』でした。
結婚をするのに身体を差し出し、自分の身の安全を守ることも出来ましたが、同時に自分の身体を犠牲として差し出したことへの自らへの憎しみが募ります。
私のなかの憎しみの人格が「このことは記事にちゃんと書いて残してほしい」と言いました。
自分の憎しみがここにあったのだということ。この憎しみを記録しておいてほしい、言葉にして残しておいてほしい、と。
昼に起きて、ゆるゆるとレイキを始めたのですが、食欲もあまりなく。
というか、レイキをしているときはあんまり食欲がわかないことのほうが多いのです。心が満たされていると食欲も最低限でよくなってきてしまうというか。
そんな感じで、レイキをしていたところ、左わき腹に緊張が走りました。なにか訴えてきているようでした。
そこには「体を差し出した自己犠牲人格」がいました。
私は私の身体を犠牲にしていました。私の身体を異性に差し出すことで私は何かしらの安心や安全を欲しがっている人でした。自立することが困難である私にとって異性は道具のようなものだったように思います。
だからこそ、途中で「人は道具ではない」と理解し、その後は恋愛依存も落ち着いていくことになりました。
私自身の不安や不安定さを支える道具として異性を欲した期間は、地上のツインレイの少し前あたりまででした。地上のツインレイは、その領域を脱していくときの恋愛でもありました。
レイキをしている最中に、脳裏には多くの記憶が蘇ります。走馬灯のように、過去の恋愛について感じたことや思ったことが脳裏を駆け巡っていきました。
そして、ふと私のなかに『憎しみ』が存在していることに気づきました。
私は過去の恋愛をしていた恋人たちへ強い憎しみが残っているのです。それも、安心のために付き合っていた異性への憎しみ。それは自分の思い通りになってくれない異性への怒りでもありました。
根底に何があったのかはわかりませんが、私がなぜ彼らを許せなかったのかが今ならばわかります。
身体を差し出す代わりに見返りが欲しかったのです。安心や安全という見返りや、自分の想うとおりになってほしいという見返りです。その見返りを欲したのは、私が身体を差し出すことが自分の意思ではなかったためでした。
私は体を差し出しては自分の為に自分を犠牲にしました。その代わりに得たいものがありました。しかし、それが与えられることはありませんでした。
悪魔の契約とは、このようなことかと思いました。
自分の為に自分を犠牲に差し出す人格がいること。それは自分の精神の欠片が人格化したものであり、その犠牲を差し出すことにより『願いを叶える』ということです。
それは不安や恐怖といったネガティブな感情から、自分を犠牲に差し出しては受け取れるだけのメリットがあります。自分の願いは不安や恐怖から守られることです。
悪魔は自分の一部を差し出して願いをかなえてもらいますが、その一部は『地獄』を味わうことになる。
憎しみは自己犠牲人格の一部から生まれます。
自分の願いをかなえるために、異性に身体を差し出さなければ生きていけないような不安や恐怖に溢れた時代もありました。
憎しみの人格へ私は「願いを叶えようとしてくれてありがとう」と伝えました。
そして、自己犠牲人格へは「私が間違っていた、ごめんね」と伝えました。
わんわん泣いて終わり、小さな女の子が出てきました。
「失敗しちゃった。」と言っていました。
私のなかに存在している小さな支配者でした。
支配をしようとしたのですが、失敗の連続で、けっきょくは他人を支配しきれなかったようです。
自分の願いを叶えようと、自己犠牲をしていましたし、かなわないことに憎しみが生まれました。そこには見返りがあったからです。この仕組みそのものを産みだしたのは、私のなかにいる小さな支配者でした。
「次は成功できたらいいね。」
と伝えたところ、ようやく自分の存在を認めてもらえたことに涙を流しました。
支配人格は子供の頃に失敗を認めて貰えなかった経験から生まれる。だから「次は上手くいくといいね」と言ってあげるとおさまる。
親は「上手くできてるよ」と親の主観を押し付けていくから、子供の視線にたって「失敗した」と思っている気持ちを大事にしてあげたらいい。
たった小さな経験がここまで肥大した。
昨日は『憎しみ』を悪としましたので、たぶん、憎しみの人格がでてくるかな? と思っていましたが、やはり出てきました。
ツインレイには憎しみはありません。見返りがありませんでしたから。
でも、憎しみが生まれるよな恋愛がなかったわけではありません。
憎しみがあるのは、そこに自分の願いを叶えようと努力している人格がいるからです。
見返りがあるからです。だからこそ、私たちは私たちのなかにいる自分に感謝をしなければなりません。
自分の願いを叶えようと努力している人格がいます。それが自己犠牲の人格であり、愛に見返りを求める人格です。
最後には憎しみが生まれます。
しかし、自己犠牲人格が憎しみに溺れ、愛に見返りを求めて憎しみが生まれたとしても、それは悪とは思いません。
自分が自分の願いをかなえるために努力をし続けてきたということです。
だからこそ、私たちは憎しみの人格たちに感謝をしなければなりません。
自分の願いを叶えようと努力をしてくれた結果に生まれた人格たちへ。
そして、今度は憎しみ人格たちの願いをかなえてあげるべきだと私は考えています。
そしてこの記事を執筆することも、憎しみ人格の願いでした。
「なかったことにしないでほしい」ということでした。
頑張って生きてきたことをなかったことにしないでほしい。
自己犠牲人格を100%差し出しきると、憎しみ人格が100%として解離すると思われる。
不本意に自己犠牲した数だけ、憎しみが生まれる。