自分のなかで受け入れられなかったもの『妄想性』について。
単純に、自分のなかに妄想性を孕んだ人格が存在しているんだけれど、私は妄想性よりも現実性を尊ぶ生き物だからか、妄想性人格障害的な意識人格は抑圧されているんだと思う。
なぜか、私は妄想性障害について受け入れられなかった。
見るからに妄想やんってわかるものが受け入れられなかった。
もっというと、どのように対処すればいいのかがまるでわからないと言いますか。
私のなかに存在している理知的ななとりは『妄想性人格がまるで理解の範疇を超えている存在』だった・・・・・・。
簡単に言えば、脳内にいる恋人の話をされても、恋人・・・・・いないやん・・・・・・っていう方が理解されるから、妄想性障害を本当の意味で理解することが出来なかった。
客観的に見えた自分っていう視点を育ててあげると、妄想とかに憑りつかれにくくなる。
精神的にトラウマ抱えている人は客観性を鍛える必要性があるんだが、ほったらかしを受けて客観性を育てる機会を失っている人が多いように感じられた。
視点をクリッと頭のなかで切り替えていくレバーみたいなものを脳内に持っておく必要性がある。
常にふたつの側面で理解していかないと、本当に障害者とか精神疾患に飲み込まれてしまうんだが、出来るようになると大抵の問題はこれで解決できるようになる。いつかはそれを人の為につかったらいいのさ。
つい昨日のことである。
「そっか。彼らは恋人が存在していてイチャイチャしてキャッキャウフフでめっちゃ楽しく幸せなんだ・・・。なんだ、よかったじゃん・・・・・」
って思った。他人の妄想性の内容を丸ごと鵜呑みにして「よかったじゃん」って思えた。そうしたら、ものすごくすっきりした。
私のなかの妄想人格が肯定された瞬間であった。
すると、妄想性人格者たちのことを受け入れられるようになった。
妄想性人格の問題って何か——っていうと、自分が抱えている妄想が、さも現実だと思っているから妄想なのである。
妄想を妄想として捉えることができないから妄想なのである。当人では判断不可能なのが妄想。
妄想の内容を現実だと思い込んでいるから、妄想性障害者であって「それは現実ではないよ、偽物の妄想だよ」といっても、それを認めることが出来ない。だって当人にとっては現実だから。
これが妄想性障害者にあたるんだが、私のなかには妄想性障害者の病理の原因があるんだと思うんだが、それを抑圧しまくっていて認知ができない状態になっていると思われる。ので、他者を通して自己受容するしかない。
面白いことに私の人生では——、ここ最近では特に頻発して妄想性障害の方が訪れていたとも言える。
妄想性と言っても、頬を殴れば正気を取り戻す人たちもいる。衝撃を与えれば、幻想が閉じてしまうことも多い。これが妄想性障害の一歩手前だと思われる。客体性を持ってこちらから殴れば治る状態。
だけれど、妄想性障害の人たちはそもそも殴っても頑なに自分の妄想を守る。
妄想を人に否定されたと感じられる瞬間に、攻撃に走ったり、妄想は現実であると思い込んでいるがゆえの発言なども見受けられるが、ホントのところでは理解しているらしく、家族などに打ち明けたりなどはしない。
「だってホントのことなんだもん!」と小さい子が大人をにらみつけているようなイメージが妄想性障害者たちの攻撃性かな。
エロトマニア的な視点で解釈すると、彼らは特に精神的な純粋さを求めているとも言える。簡単に言えば、ツインレイで金儲けは許せないし、ツインレイへの愛を金に換金しているなとりなんて言語道断の極悪人である。
理論でツインレイを追求するなとりも極悪人ですし、証明したら現実化してしまうからこそ、それも悪である。
純粋な精神性を求めているのであって、現実的なものは排除する対象なんだよね。
そして、私がもしツインレイの再会をしたとしても、それは許されないことである。現実性を持ってはならないのである。
精神的な存在でなければならないのである。
簡単に言えば、脳内の恋人が現実に存在してないことが重要だからである、これが妄想性のミソなのかなと思った。
脳内の恋人にはよく手紙を書いている人が多いらしい。なるほど・・・・・・。宛先不明と客観者たちは思うが、当事者にとってはあて先は存在している。
私はすごく現実的な存在である。過去の恋人的な相手が存在している時点で、私はすでにリアリズムなのである。そして、再会させようとするスパンそのものも、より現実化させようとする意識にある。
いわば、妄想性人格障害の方からすれば、現実化させたくないものを現実化させてくる、自分の世界を破壊される感覚がする。
霞食って生きているわけではないんだけれど、彼らにとっては脳内恋人だから霞食って生きている恋人がいるんだよね。なんなら、脳内の自分は霞食ってるんだと思う。
なとりはすごく精神的な話を現実化させてきている。何かしらの証明をし続けている。それは『現実化』なんだよね。この現実化がなされるたびに、妄想の方々にとっては破壊を受け取ることになる。
だからなとりの証明は死ぬほど嫌い。だって現実化されちゃっていくから。疎ましいんだと思う。自分を破壊していく感覚がする。
精神を現実化させていく人たちは、特に問題なく通過できるんだけれど、妄想のなかに生きている人たちにとってなとりの記事に書いている内容についても、読むだけで、自分のなかに存在している妄想が破壊され、断末魔の叫び声があがっている。
精神が妄想に切り替えられてしまっている場合、なとりに破壊されるんだと思う。
なとりはいつだって妄想を破壊してやるって姿勢なんだけれど、妄想性人格障害にとってはそれが『現実』なんだよね。つまり、妄想性人格たちにとっての現実をなとりが破壊していく。
恋人と幸せに暮らしているのをなとりが破壊していくんですよ。私からすれば、妄想だけど、当人からすれば現実なのよ・・・・・・。
私がツインレイを現実化させることは、彼らにとって現実的に恋人と別れることを意味している。認識が逆。
なとりがツインレイの再会を迎える=自分はツインレイと離別をする
彼らにとっては現実崩壊を受け取るんだけれど、実際は精神崩壊を受けてしまう。
なので、彼らは脳内の恋人を守るため——精神崩壊を免れるためには、なとりはすげえ悪い奴で大悪党じゃないといけない。
いわば、妄想人格の人たちは精神と現実の認知がひっくり返っているとも言える。精神内が常に『現実』になってて、現実は常に『精神』に支配されている。
なとりは精神は精神、現実は現実——として捉えている。それはそれ、これはこれという分類が凄まじく甚だしい。これが定義するっていう能力でもある。
ひっくりかえってしまったまま、元に戻せないでいるのが妄想人格たちであり、それがデフォルトと化したんだな、と。
妄想性人格者にとってなとりは『精神破壊者』なんだなと理解した。でも彼らにとっては現実破壊者なんだよね。
真っ当な人間がすげえ怖いんだと思う、現実的に生きている人間が。破壊される感覚がヒシヒシと伝わってくる。自己肯定をするために自分の妄想を必死に守っているんだなと理解。
現実に生きている人間からは常に自己否定されている感覚が強いんだと思う。だから妄想に逃げ込みたい。
私は精神の破壊を受け取っている。だから、私は妄想性人格なんだけれど、私は破壊を受け入れている。
妄想性人格たちは、自分の精神の破壊を受け取れなかったんだなって思った。
破壊を受け取るってどんな感じかっていうと、言葉にならない。痛いとか、辛いとか。そういうんじゃない。交通事故にあう感覚とか、そう比喩表現もできない。
破壊されるという言葉も適切ではない。ダメージがあるわけじゃない。ただ「自分が崩壊する」んだよ。
自分のすべてが崩壊される感覚がする。ばらばらになる。
死ぬとかでもない。なんだろう、本当に言葉にならない。
ああ、そうか。あれに耐えられなかったんやなと、今更ながらに理解して納得ができる。
本来、何も精神修業していない人が打撃を受けたら、簡単に頭おかしくなると思う。精神疾患を患ってそのまま。
うつになるとかだったら、まだ優しい。
理解が出来れば、なんとかできる。
理解できないと、何もできない。
精神的に理解できると、知性でも理解ができる。精神のことだから共感性がないと知性でダイレクトに何が起きているのかを理解できない。
なとりはなとりのことをなんとかするように出来てて、他人に何が起きているのかは共感性からしか理解ができない。ホントの根っこの部分で共感が生まれれば、それはなんとかしてあげられると思う。
自分のことは自分でできる。でも他人のことを自分のこととイコールで結ぶには根っこの共感性を導き出さないといけない。
自分のなかにロジックが構成されていないものは対処しようがない。
で、妄想性障害はね。
現実側からの対処は出来ない。
だってもう当人が妄想を妄想として捉える能力を失っているから妄想性になっている。
理知的な理解をなとりがしたってことは、ヒーラーなとりもちゃんと対処ができる。
わかっているのが理的ななとりで、わかっていないのがヒーラーなとり。
わかったってことはわかってないってことなのよ。だからヒーラーなとりは「共感しようとする」んだよな。
つまり、理解する=共感するってこと。精神的理解と知性的理解。IQとEQだな。
でも、本当になとりのなかに妄想性人格なとりがいるかどうかは謎。とりま、自分のなかを探ってみようとは思っている。
いるかもしれねえしな。