報告|今度は子供の自分が終わる——愛の幻想世界の終了。

2024年10月3日

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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今日は、親殺しの記事を上げてきたんだけれども。

少し前は、子に親殺しの目に合う視点だった。それは『大人』とか『母親』っていう立場で、彼を子に投影して行ってきた自分自身についてだった。

今回は、親殺しをする自分。

自分自身のなかに、母殺しを終わらせていないと、親と対等な立場に立つことができない状態になる。

日本の男性の多くは、母殺しが終わっていないらしいのだが、彼くんは多分、私を通して終わったんじゃないかなと思っている。

そして、私自身も「母親を対等にみること」が出来るようになった。

 

今まではやっぱりちょっと違ったかな。

ひとりの人間として見ることが出来なかった。

ひとりの人間として見る——とは、母親に対して母の問題は母の問題として切り分けられるようになること。同じように、自分の問題は自分の問題として捉えることである。

自分の問題は母のせいである。これが親離れできていない証拠であり、自分の問題と母の問題を切り分けることが出来ていないと言える。そもそも切り分けて考えられないことが同化現象とも言えるのではないだろうか。

私の場合は、母の問題は私の問題である——という状態にすらされていたことにあるんだが、母の問題は母の問題として切り分けられるようになった。

私も親を対等に見ている。

 

母親のイメージとして「無条件の愛を与えてくれる」というものがあるけれど、無条件の愛を与え続けてくれる存在に甘え続けているのでは、それでは男が廃るモンである。

自立した男の子は——。自立した男性は、無条件の愛を与えてくれる存在にくっついている存在ではないと思われる。

今度は、自分が我が子に無条件の愛を与えていかなければならないし、妻や子を守っていく立場になっていく。

そのときに、無条件の愛がなければ動けないのは問題である。

私自身のなかに、彼に対しては無条件の愛があった。それは我が子のように愛していたってことなんだと思う。

だけれど、そのままいっしょにいれば、彼は一生涯「子供のまま」だった。

離別時に感じていた、支配したくない気持ちや言いなりにさせたくない気持ちとか。それはもしかしたら、母への服従をやめてほしかったのかなって思った。

そして彼は自立していった。これが私のなかの最新の事実。

 

自立した人間は愛を求めない。

ツインレイは愛だ、なんだ話をしているけれど、そもそも自立している、自己統合されている存在は愛を求めない。

愛されたいとか愛したいって思うのは、やっぱり自立が出来ていない状態だからこその欲求なのだなと理解。

必要なものは愛ではないなと思った。私の世界は愛で溢れていたよ。

愛されていたというか、そして愛していたけれど、そもそも『愛の循環世界』とは、愛がないから循環させないといけないのだなというか。

成熟した大人にとって、愛は循環していようがしていなかろうが、そんなことよりも大事なことがある。現実である。

私は愛されて育った。それがそもそもの間違いだったとは思う。子供は愛して育てるものではないということ。欠けている部分がある子には愛が必要だが、そもそもこの世に生まれ育ち必要なのは現実であり、精神的な愛ではない。

子供を愛して育てること自体がそもそも間違っているのだなと理解。現実性は愛では補えない。そもそも愛がある世界は、子供の世界だなと実感中。愛が幻想とも言える。

本当に愛しているのであれば、この世で生きていくために必要なものを与えてくれるだろう。どうしたらいいのかを教えてくれる。そして必要な思考を与えてくれる。

自分の人生を生きる力を与えてくれる存在こそ、愛しているってことなんだと思う。

でもさ、自分の人生を生きることが出来ていない人にとって欲しいものが「愛」なんだよね。

 

私が思うに、その『愛』の世界を抜けていく必要性があったのかなと思っている。

もう自分の人生を生きているから、愛は必要がない。

そもそも愛というもの自体が幻想でありながらも、そこにある愛が存在し続けている事実に気づけるのは、それは愛を信じた者にしか到達しえない世界だとも思う。

私たちが知っている幻想の真実。

幻想は愛なんだよ。

 

愛の世界、それは未熟な世界だと結論付ける。

 

私が彼を愛したのも未熟性で、彼が愛を求めたのも未熟性。ここでカップリングが完成したけれど、これで循環が完全成立してしまえば、今度は次の段階に進まなければならない。

愛し合って、心を補い合ったら「もう愛は終了。自立できるでしょ」って言われる。

完成したものは次に進んでいく必要性がある。世界のタロットカードは「新しい世界へ進む」という意味合いがある。完成したならば次に進む。

過去の私たちは愛し合った。相思相愛だった。センキュー。

愛は完成した。ならば次に進む。

次の世界では、無条件の愛も条件付きの愛もいらない。愛がそもそもいらない。私のなかはもう満たされている。

 

精神的自立って、たぶん、愛がなくても大丈夫ってことなんだと思う。

愛されていなくても大丈夫、愛さなくても大丈夫。

心の配慮がない世界。

配慮してもらっているうちは、やっぱり、あなたは愛されているし、あなたは誰かを愛さなければならない。

あなたのなかの愛が欠けているから。

 

自己統合しきると、愛は否定されるみたい。いらない。

愛は幻想である。

愛を否定する、その日のために愛せよ。そして愛されよ。