ツインレイの自己結合(じこけつごう)から真我への到達性のまとめ
爬虫類ってかわいいね。
今回は『自己統合(人格統合)』では、何をやっているのか——を書き纏めておきたいなと思ったので、書き纏めて置く。
前にもなんか謎に自己結合の理論を立てていたような気がする。
たぶん、私はたいていはあやふやなベクトルでの自己統合を明確な人格レベルにまで存在を定義させて自己分離させているから、何が起きているのかがすごくわかりやすいんだと思われる。
ツインレイの自己統合の目的
当初に自己分離させ、その後、自己統合させる。この経緯を人格の解離、そして人格の統合とする。また、私たち自身のなかに多くの分離している記憶などのデータなどを統合させていく経緯もこのなかに存在している。
自己統合の目的は複数存在している。
第一にサイレント中に自己分離させた人格を再び統合させる経緯によって『当人の力量をあげること』が目的となる。
第二の目的として、真我への到達のために、後天的に培った自分以外の自分をすべて排除していく必要性があるため、一度は、自分以外の後天的に構築した人格を解離させる必要性がある。
このふたつの目的を達成するために、自己分離、そして自己統合のくだりを必要とする。
ほとんどの人が自己統合だと思うんだが、性別と現実と精神のくだりでは『結合(結合)』をさせる。
統合させていいのは、統合させられるものだけ。結合でないと困るものはいっぱいある。
両性が成立するのは結合だし、精神と現実を統合しちゃったら、それただの妄想性人格障害者だから。
で、今回は『自己結合』の話である。
ツインレイの自己統合の流れ
- ツインレイの出会いからサイレント開始・・・自己分離
- サイレント中・・・自己統合
というのがデフォルトにある。そもそもツインレイの出会いからサイレント開始までの間に『自己分離』させておく必要性がある。
自己分離とは、自分自身のなかにある後天的に培った人格や性格などを自己分離させる。
サイレント中に行われている自己統合とは、自己分離させた人格を育て上げ、ふたたび、自己統合させることで当人の力量をあげることができる。
ツインレイの自己統合の経緯(人格統合の経緯)においては
こちらの記事のまとめておいた。私の自己結合の経緯がわかる。
ツインレイの『男性』と『女性』の自己結合
私自身がやっているのは、ツインレイの男性性と女性性の統合においての両性具有性のことについてである。
ゆえに、私自身のなかでは『ツインレイ男性』と『ツインレイ女性』の両方が成立している為、ランナー&チェイサーが両方成立している。
こちらが先ずはツインレイ男性である。
きっと私は誰かと結婚したとき、誰かとの子供が生まれたとき、私はどこかで必ず家族を不幸にするだろう。
その不幸を想うと、私はあんまり気が進まないというか。私は自分が抱えている問題を理解しているつもり。これはもう根っこの部分にある『あたりまえ』の定義がトチ狂っている。
だから逃げた。ランナーである。
次にツインレイ女性である。
もし、好きな人の心にほかの誰かが棲まうなら、さっさと悪い女になって誰かに渡してしまいなさい。
それがサイレント開始したときの私の姿。
引用:報告|私の目が開いた。
このふたつが私のなかに両立している。どっちがどっちってわけじゃない、私の場合は両方必要とする。両性具有性の精神への到達が目的だったようだから。
だから捨てた。チェイサーである。逃げたいなら逃げなさい——と相手を逃がす人格。
男性であるランナーは、相手を幸せにすることが出来ないと理解し、逃げる。
女性であるチェイサーは、相手が逃げたいのであれば逃げたらいい。
どっちがどっちでイイっていうわけじゃない。なにが正解っていうわけでもない。ただすれ違っただけの人格が私のなかに二体生まれる。
こちらは最終的に『ツインレイの結合』となる。男性性と女性性が結合される——ということ。統合はしないと思われる。理由は男性と女性は別の存在であって、それがひとつに統合されたところで無性になるだけ。
つまり両性とは結合でしか成し遂げられないから。
そして、両性が結合として成立するとき、無性と言う『無私』の人格が成立する。
引用:真我までの到達の経緯と『めっちゃぼんやりの統合した無私人格になるか』『めっちゃ現実を忙しくして現実人格に交代するのか』
ツインレイの『精神』と『現実』の自己結合
精神領域のなかでランナー&チェイサーが成立し、どちらも現実から逃避する構成をとっている。
このとき、サイレント期間に突入することになるんだが、人格そのものは『現実逃避している人格』に依存することになる。
つまり、ランナー人格、チェイサー人格、現実人格のどれかになるしかない。
私の場合は、サイレント中に記事を執筆している時間は『ランナー人格』、または『チェイサー人格』を主体とさせることになる。
ランナーは逃避していくし、チェイサーは待ち続ける——という人格で、どちらも『現実人格からの逃避』みたいな構造をとる。この逃避とステイが成立するとき、ツインレイたちは『離人症』になる。
つまり、私のなかにある内在性分離人格がほぼ『現実感の消失』状態になって、現実で生きている人格を持つ私は『虫』になった。
虫の感覚だから、息をしているし、生活自体はそれなりにできるけれども精神的な活動のほぼ一切を離人させ、感じないようにさせている状態にある。
こちらも結合にほかならない。
自分自身の現実と精神は『統合』しない。
現実と精神が統合するとは妄想性人格障害者ってこと。精神領域のことは精神領域のことだし、現実領域のことは現実領域のこと。
精神での活動性を現実には持ち込まないという分離的感覚を生じさせることは、自分の精神内による分離人格たちの幻視や幻聴を否定することによって成立する。ので、ツインレイの幻想世界からの脱却は大前提の必須となる。
現実で起きたこと、やったこと。それをなかったことは出来ない。でも、それがなかったことにできる。これは精神と現実の乖離状態に当たる。
つまり、現実逃避の仕方にも、男性は『解離』を呼び起こし、女性には『妄想』を呼び起こす。
精神や記憶を解離させてしまうことで忘れようとする。だからランナー。ツインレイの相手から遁走する。
女性は現実を受け入れられないがゆえに、精神的なものを現実と統合させてしまい、妄想性が発揮される。だからチェイサー。
どちらも共通して『現実逃避』が起きているということ。
すべて自己結合させると『真我』が現れる
『有私(エゴなどを含め、両性具有性質・精神領域の人格たち)』が対立させるようにして『無私』が成立する。
『無』という統合人格の真逆は『エゴ(有)』という分離人格ということ。この両軸が成立し無いといけない。だから精神構造は多重人格みたいならないと無私は成立しえない。
最終的に、このふたつは反転する。現実が無私であり、精神がエゴとして存在している段階ではなく、次に精神が無私となり、現実が真我という状態に反転される。
いわゆる、真我とは、多くの自分自身のなかにある多くのエゴイズム人格を無視することにより無私にまで昇華されることで成立する人格である。
つまり、エゴをガン無視し続けたら、真我が成立するよっていうのが真我への到達のコツって話。(これ以外にやり方はないと思われる)
無私が到達点ではなく、真我を生み出すだけの無私が成立する必要性がある。自分のことではなく先ずは人のこと——を優先するような人生は自分を無視し続けることになるため、真我への到達が出来るようになる。
究極の自己統合は真我があらわれること
結局のところ、自己統合をし続けていく経緯があって、それすら終わると、次に自己結合していき、最終的には真我があらわれるようになる。
自分が自分に成る——という経緯が自己統合ということ。
私たちは育ちの過程で自分ではないものを多く吸収している。それをすべて解離させて吐き出しておく。育ちの過程で得たものこそが『エゴ』とも言える。いわば、私たちが執着しているものは『この世で得たエゴイズム』であって、別に私たち自身ではないのに、でも、親を肯定する為にもエゴには執着してしまう。
親への愛といったところだろう。だけれど、親への憎しみがあり、復讐心などは特にエゴが成立するようになり、この世へ未練を強めるとも言える。
実際、私たちが執着する自分自身とは、別に自分じゃないんだけれど、自分だと思いこまれているものでしかない——ということ。
でも、人生において私たちは「自分だと思い込まされているもの」に対して、手放したいと思う心を持つことで手放せないロジックにはまる。そもそも肯定して『持っているもの』として認識していないものを捨てることは出来ない。
手に持っているものはポーイって捨てられるけれど、持ってないものは捨てられない。
だからまずは『自己肯定』をしなければならない。自分の人生を全て肯定する。肯定している風に見せかけても意味がない。精神は明確に理解しているから。フェイクには意味がない。他人は騙せても自分は騙せないってこと。
自分の人生を全力で肯定して「ねじまがってんけど、これで生きていく!」と力強く手に取ることができる時、私たちはそれを『捨てる権利』を手に入れる。
そもそも持ってないのに手放すことなんて出来ないよね。持ってないものを手放せ手離せって言われても、ずっと手離したままのものはそもそも手放されているものなんだよな。手放されているものへ執着しちゃっているから手放さなきゃって思うのであれば、だったらそもそも手に持て! って話をしている。
自己統合は、足元にぼとぼと落ちている、身に覚えがない知らんけれど自分らしいものを手に取り、それを遠くにぽーい! って捨てる作業を何度もし続けていくことにある。
だから何度も『自己肯定』をしていく必要性がある。そのときに必ず『否定』がある。否定を否定してようやく肯定される。このメカニズムを成立させることで自己肯定により手に『荷物を持つこと』が出来、荷物を持ってようやく『荷物を手放す』という経緯が起きる。
真我への到達とは「今までの自分を全部捨てる」行為の先にあるんだが、そもそもほとんどの人が「今までの自分を全部捨てられない、そもそも手に取れない」状態にあるとも言える。
それは今までの自分と向き合うことが出来ていない——というよりも、今までの自分の人生の責任をすべて背負う覚悟が決まっていない。そして、その人生をこれからもずっと続けていく——という覚悟。
結婚がしたいわけで。でも、結婚が出来ていない未来がこれからもずっと続くわけである。その結婚ができない未来を覚悟して受け入れることが出来なければ、私たちは自己肯定が出来ているとは言えない。ずっと自己否定をつづけている。
旅のトランクのなかには覚悟だけが入っていればいい。でも、自分の人生を否定している限り、私たちは未来にポンポンと身の丈に合わない将来を求めてしまう。そもそも自分の人生を肯定することも出来ていないのに、自分以外の人生を手に取っていいよだなんていう都合のいいことは起こらない。
これからもこの人生は続く。
これからも今の状況がずっと続く。
それを受け入れられるのか?
ツインレイの再会はやってこない。ツインレイは戻ってこない。
それを受け入れられるのか、今の人生が『ずっと続くこと』を受け入れられるのか。
覚悟を決めなければならない。今の人生がずっと続く覚悟、このゴミみたいな人生がずっと続くんだよ。
ほとんどの人が「嫌だ」と思う。それこそが現実逃避している自分の姿に他ならん。
自分の人生を先ずはすべて肯定されるとき、未来は絶望と化す。絶望したとき、私たちは必ず自らの人生を受け入れている。自らの人生が絶望していることを受け入れられないから、未来にありとあらゆる希望を生み出しては欲望を高めている状態が続く。
自分が自分の人生に絶望していることに気づき、絶望を受け取ることが無ければ私たちは『自分の思い通りの未来』なんて得られない。だから、絶望しなければならない。絶望により新しい自分を再構築していく機会を得ていかなければならない。
真我とは「絶望しきった」のと「自分を生きる覚悟がきまった」とも言える。
自分を生きる覚悟が決まれば、次にようやく新しい扉がやってくる。自分を生きる覚悟が決まっていないうちは人のせいにしていると思う。すべてにおいて人が悪い——と言って自分の責任を自分で背負うことから逃げ続けていると思う。
足もとに落ちている荷物のほとんどが『人のせいにしたもの』である。