ツインレイの解離した人格の統合する経緯とサイレント期間の流れ(愛されたい欲求への否定)
元々、無意識の領域を顕在意識で捉えることが出来るようになることがツインレイである——という話を書いたことがある。
この無意識の領域を意識で捉えることがツインレイである。
ツインレイたちは、意識と無意識のはざまに『意識と無意識の混在している空間』を生み出す。
この領域は、無意識のものを意識でとりだし、認識することができる領域である。たいていは夢などで認識することが多いが、私たちは現実でも無意識領域のものを認識することが出来るようになれる。
それが『解離現象』である。
私たちはツインレイを通して、自分のなかにある人格を無自覚にも『解離させている』のである。それもまた、無意識の中にあった人格を解離させている。
その無意識で解離させている人格とは『ツインレイの相手の人格』である。いわゆる、私たちは阿頼耶識という集合無意識の中からひとつの人格をとりだし、人格を意識で取り込もうとしているのである。
私たちは、ツインレイの相手が持つ意識へアクセスするが、集合無意識を介しているがために『無意識から取り出されている』わけである。
この現象が起こりえるとき、私たちは認識していない人格を認識することになる。そして、その人格が取り出されたとき、私たちのなかに『もうひとり』が認識されるようになり、そのもうひとりは相手と『鏡のような姿』をしているだろう。
私たちは、ツインレイである鏡の関係性なのではない。私たちは、後天的に鏡の関係性へと象ることが出来るのである。
無意識から取り出されているツインレイの相手の意識を手に取り、私たちは人格統合をしようとする。自身のなかでツインレイの相手と自分自身の人格をひとつに統合させ、両性具有精神へと切り替えていくためにある。
つまり、ツインレイの出会いと同時に、私たちは『人格統合』がなされている。そのとき、私たちは何かしらの拒絶やトラウマ、ツインレイの相手からの否定など、多くの精神的な要因により、無意識から取り出された人格を解離させたまま保有させることになる。
ツインレイの相手が自分のなかにあるすべてを全肯定して受け入れられているわけではない。
等身大の自分を愛することが出来ているわけではない。そんなとき、自分自身を投影した姿をしているツインレイの相手と向き合うことができない。
等身大の自分自身を愛することが出来ていないからこそ、ツインレイの相手と向き合うことから逃げることになる。が、自分から逃げることはできない。だから、自分とは向き合わざるを得ないのである。
私たちはツインレイの相手が「愛している自分自身」を統合させることはできるが「愛していない自分自身」は解離させたままとなる。
もし、当人が人格統合することが出来たとしても、愛していない自分自身は解離させたままとなる。ツインレイの相手、もしくは自分自身のどちらでもいい。どちらかが否定し、受け入れることが出来ないとき、その部分は解離したままである。
つまり、
- ツインレイの相手を人格統合される部分
- 両者受け入れている
- サイレント開始から初期に難なく成立する
- ツインレイの相手を解離させる部分
- 片方のみ受け入れている
- サイレント期間に人格統合させる
- ツインレイの相手を統合しない部分
- 両者ともに否認する
- サイレント期間の最終的な人格統合させる
というような三つの種類が生じることになる。
ツインレイの相手とふたりで両者ともに認めている部分は当初に人格統合されることになる為、こちらはツインレイの出会いからサイレントの始まりまでの間に人格統合され、模されることが出来るようになる。
しかし、問題は『片方のみが受け入れている』部分である。この部分が解離として認識されてるために、解離部分を克復し、自身のなかに内包していく必要性がある。これが『ツインレイのふたりのサイレント期間』となる。
ツインレイの再会後、解離している部分が残るとき、それは両者共に『何かしらの両者における否定』を残した場合である。
私が過去見てきたいくつかの事例はいつも『怒りの解離』だった。
つまりなんだが、怒りを愛おしいと思うことがなかったのかな? と思われる。
ちなみにある種「人が怒っている姿を愛おしい」と思うのはひとつの境地なのかもしれないとは思う。
ツインレイの片方が克服していればいいわけで、両者共に克服している内容を背負い、サイレント期間に解離を克復することになる。
どうして受けいれられないのか——をサイレント期間には学ぶことになるだろう。私の場合は怒りのコントロールが下手すぎる人がやってきた。
怒りの抑圧者にとって怒りのコントロールができない人は惹き合いやすい。理由は怒りの抑圧している部分で解離した怒りの部分を他者が引き寄せられる。だから、怒りを肯定すればいい。
ツインレイの再会が『怒りの解離(否認)』と『怒りのコントロールができない』というもので結びつくケースがあるということ。
ちなみに、怒りの解離が起きているから、片方は怒りを認識せず、片方は怒りをコントロールできない状態(ヒステリー)に陥っているカップリングになる。
こんな風にして縁の結びつきを生み出すことも出来る。これがトラウマによる縁と呼ばれているもの。
どの段階でツインレイの再会をしたのか——によって関係性は変わってくると思われる。
ツインレイの初期段階でツインレイの再会をしている人たちは、特にツインレイの相手を愛することもなく、受け入れることもなかったとも言える。簡単に言えば、ツインレイの段階を追うつもりではあったんだが、ツインレイはやりませんっていうカタチで、統合しようとすらしなかった人たちだと思われる。(解離すらしていないと思われる。というか、無意識にまでアクセスが出来んかったんだろうな・・・・・・。)
サイレントの中期でツインレイの再会をしている人たちは、解離を残すようになる。相手の嫌な部分を認識したし、それを受け入れることが出来なかった人たちとも言える。だから、ツインレイの再会をする段階で「ツインレイの相手の嫌な部分が残る」ようになる。
そして、それが『抑制されるようになる』のだ。それが解離だから。
怒りで説明をすると——、
どちらも、怒りの解離を起こしているが、あるとき、片方が怒りの爆発を起こし、片方がその怒りを受け入れる——というような構図をとるようになると思われる。
片方は『全く認識しないレベルまでの拒絶と受容と理性』を持ち、片方は『怒りがコントロールできる、出来ないの二極性の人格を保有する』っていう状態にある。
で、ツインレイの片方が他者からの怒りから逃げ出し、ツインレイの片方が自分からの怒りから逃げ出し、両者は再会する。片方はボッコボコの状態で、片方はすまし顔で再会。しかし、両者ともに解離は起こしたままって感じだろうか。
解離が残っていると、ツインレイの幻想世界に残されるから抜け出すことができない状態が続く。
最後の最後に両者共に否認し、否定した人格を統合していく。
私は『子供人格』である。愛されたいと思う気持ちだ。ツインレイと出会った当初から徐々に子供人格は自立して私の中にいたのだが、この子供人格は彼に愛されようと必死で生み出した人格だと思われる。
彼が喜ぶものを持ち、彼を楽しませ、そして、彼に愛されようと必死にもがく私の姿である。それが私の中にいたあとちゃである。一生懸命に愛されようともがく姿を、私はどうしようもなく愛おしいと思う。
つまり、私は彼に愛されたかった。でも愛されなかった。だから、私は愛されなかった部分の人格をばらばらにして認識しないようにしたのである。同じ分だけ、彼は等身大の自分を愛することが出来ていなかったとも言える。
私が解離していた分だけ、彼の心は自己否定に溢れていたとも言える。
私は彼を『愛しきる』ことになった。そして、同時に『愛されたい』気持ちが解離した。このふたつは人格が分離し、私のなかで愛されたい気持ちは子供人格として成立し、愛しきった気持ちは大人人格として成立した。
愛されたかった。
これは人生において私が愛されることがなかったからである。
私は愛されたことがない、私は私の気持ちを親に受け取ってもらえた過去が一度もない。共感を示してもらえたことがない。だから私は人を愛することしか出来ない人格保有者である。
愛されたことがないから、愛されたいと願う気持ちを解離させた。これが私の本心だったのだと思います。そして、ツインレイの彼も同じ。愛されたことがない。自分の気持ちを親に受け取ってもらえ、共感をしてもらえたことがない。
ふたりの共通要項はここにある。
私のツインレイの縁がもしあり、ふたりの感情ベクトルの繋がりがあるのであれば、それは愛されたことがないからこそ愛そうとし、だからこそ寂しいと心に虚無感を抱え続けていることにある。
これが不健全性のなかに生まれる才能である。この知性とは『愛する』ことである。怒りを解離させているのは、人を愛する為にいらないものだからである。
愛されたいと言う根源的な欲求を持つからこそ、怒りを解離させる愛情を持ち、その愛情は知性へと昇華され才能となる。
自身のなかで『愛されたい』から『怒りを解離させる(愛する)』構造をうみだし、自己愛を構築する。私たちにとって自己愛とは解離にあり、また精神的苦痛を逃れるための手段でもある。(それぐらい、幼少期に共感性を親に示してもらえなかったってことでもあって、精神的には常に苦痛を幼少期からさらされ続けている無関心の元に育ったのが私である。これが精神的なネグレクトだと思われるが、今更な話でもある。私が誰かをネグレクトしたわけじゃないからな。)
そして、『愛されたい』から『愛する(知性)』を生み出していく。
だから私にとって知性は、そして、世界を、誰かを、親を愛する為に持ち得ている手段のひとつ。
私は自身の感情や欲求を理論に介入させることはほとんどない。私が求めている真実から遠ざかることが多いからである。だけれど、真実を追求する欲求こそが、愛を乞う欲求なのである。
だから、理論を書くたびに私は悲しんでいるような気がしていたんだと思う。悲しんでいたのは、私のなかにいる愛されたい欲求。彼を求めていた理由は愛されたいって苦しんでいる、共感してもらいたいって苦しんでいる自分だった。
子供の自分。
そして、それが才能にまでなる瞬間がある。それが私のレイキだし、彼の知性だし。
愛されたくて私は共感できる人になろうと無私を目指し、彼は愛されたくて知性を磨きあげたんじゃないかな。
根源は同じ。愛されたいから努力をした。
私は、個人的にね。
個人的に、闇の刺客とは友達になれるんじゃないかと思っていた。一番の理解者にお互いがなれたんだろうと思っていた。
それは本質的な部分でのお互いの経験は、そうたいして変わらないからである。私自身、彼女の気持ちがわからないでもないし、私自身の闇に彼女が一番に触れることが出来たんだと思う。
彼女と私は根源的には同じである。その部分は『愛されたことがない』ことにある。親から共感を示してもらったことがないこと。
その後、どうしたのが人間性みたいなものである。
つまり親は原因として存在しているが、その後、どのように行動し、どのように考え、どのように生きるのかは当人の決断によるもの。
だから彼女は私のもうひとつの世界線を生きる自分というシャドウにある。出会ったときの衝撃は忘れないよ、もうひとりの自分を瞬時に投影してしまったから。
なんだかとてもマンガのNARUTOのナルトと我愛羅のように感じられるんだ。同じような境遇に育ちながらも、右にも左にも違った存在になる。ナルトは人の為に戦おうと努力をし、我愛羅は自分の存在を認める為だけに戦ってきた。
ナルトが我愛羅に怯えた理由もわかるし、我愛羅もナルトがめちゃくちゃウザい理由もわかる。
そして、自分の才能をなんのためにふたりが使っているのか。我愛羅は自分の為、ナルトは人の為。
ナルトは人に認められることがあったけれど、我愛羅は認められることがなかった。
人がどのように対応したのかによって結果が変わってくる。
だからこそ、ナルトは我愛羅を許さない。自分が自分を肯定することは自分を認めてくれた人を肯定することだから。
ナルトと我愛羅の戦いって『自分の存在価値』をかけた戦いなんだけれど、ナルトは『みんな』を背負ってて、我愛羅は『自分』しか背負っていない。
ナルトが勝つことに意味がある。我愛羅の存在を許してしまうことは、ナルトのなかで『自分のことしか愛さないこと』を自分の世界に許すことだから。だから、ナルトは我愛羅の存在を許さない。
だからさ、私も彼女の存在は許せねえのよ。てか、許したらいけねえの。私の存在を認めてくれいる人たちの為に、私は彼女の存在を許したらいけない。
自分の存在理由の為に人を殺しちゃだめなんだよ、それは間違っているって私の存在を認めてくれている人たちの為に戦わなきゃいけない。
ちなみに個人的に我愛羅は好きかな。なんかこう人間味と間違えることがあっても正しい道にちゃんと戻ってきて、殺戮者ではなく最後はナルトの味方となって戻ってくる点、イカしてる。なんとなく、作者も我愛羅には思い入れがあるような感じがする。
作者にとって特別なキャラってなんとなくわかるよね。我愛羅の多重人格っぷりは最高、イカれてる。
今ちょうど、我愛羅篇が終わったとこで「なるほどなー」と思いながら見ていた。(毎晩なにかしらネットフリックスで見ている、今はたまたまナルトみてる。)
マンガって偉大だよな。いつもありがとうって思ってる。
ナルトは精神的虐待について描いてくれている。なんかこう、ひたすら精神的にえぐられる何かを感じるなか、みんな頑張って生きている。作者よ、なにがあったんだよ・・・・・・って思う感じの作品だな。すげえ微細だよ、この作品も。