報告|現実と精神の分離と、私は自己統合をしないことにする件について

2024年9月14日

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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ものごとが複雑になっていた理由は、根源に私のなかで内在性解離による人格が明確に成立していたことが仇になったんかもしれない。

図の説明:サイレント開始時点を境目に離人症を発症

まず、私はサイレント期間の開始時点まで『内在性分離人格を大量に作っていた』。

次に、サイレント期間の開始の時点で、離人症を起こした。

図の説明:精神領域が離人する

つまり、私のなかにある内在性分離人格がほぼ『現実感の消失』状態になって、現実で生きている人格を持つ私は『虫』になった。

虫の感覚だから、息をしているし、生活自体はそれなりにできるけれども精神的な活動のほぼ一切を離人させ、感じないようにさせている状態にある。

だから、現実で生きているなとりは『生きている』のは確かにそうなんだが『精神は死んでいる』状態にある。何も感じないっていうか、何も思わない。

生きている実感がない。

何かを考え、何かを想うとき、思考のなかに引っ込んでしまって『生きている実感』のない世界に生きている。これを健全な解離状態とも言われている状態とも言えるんだが、私はこれを『常にそうしている』状態にある。

だから何も感じないし何も思わない。狂気そのもの。

内在性人格は、分離した途端に『現実のなとり』から分離してしまったがゆえに、引き離されてしまった。それまではかろうじて繋がっていた糸さえ切れてしまい、現実の人格のなとりにアクセスが出来ることが出来なくなってしまった。

現実の生きているなとりが『何も感じたくねえ』みたいになっているから、何も感じなくなっている。たまに空を眺めている、そんなときに私は『わたし』を実感している。

私が私を実感しているとき、それは虚無を感じるときぐらい。それが現実のなとりの人格。

 

現実のなとりと精神のなとりたちが、ばらばらの空間になってしまい、精神のなとりたちは現実のなとりを受け入れるために必死にもがいていて、現実のなとりも受け入れようとし始めている。

だけれど、現実のなとりは『ひとり』しかいないから、私の現実的な記憶は一貫しているんだけれど、精神的な部分はバラバラになっているから、精神的な記憶に一貫性が持てないみたい。

どれも私なんだけれど、どれも私のように感じられない。つまりこれが私の解離の姿なんだと思う。

文章は特に精神的な部分にアクセスすることが多くて『内在性分離人格』がよく働いているから、文章のなかで分離人格がでたりはいったりしてくるんだと思う。

だけれど、人格の分離そのものはしていないから、人格の交代制などはほとんど感じられない。

もし、私のなかで人格の分離をしていると言うのであれば『現実のなとり人格』と『精神のなとり人格』が明確に分離してしまっている。

私は現実と精神の分離を起こしている。つながりが持てない。

この現実と精神の繋がりを保つために必要としたものが『言語』。

たぶん、この程度で病状が済んでいる理由は、私が書き続けたからなんだと思う。

精神領域のことを現実へと持ち込むためには言語が必要だった。これは私が『生きようとしている』んだろうなと思う。

内在性分離人格たちが生きようとしている。必死に頑張っている。

自分の存在証明をするには書くしかない。私にとって『書かないこと』は死ぬことを意味していると思っていた。

思考しないことは死ぬことを意味している。だって自殺しちゃうから。

私のなかにいる精神の人格たちが『生きたい』と思っている証拠なんだろうな。

人生のなかでどんだけ死を実感してきたんだろうと思うんだが、それぐらい殺されてきたんだよな。耐えられなかった。

私のなかにいる人格は必死に生きようとした私の証明。

この人格たちがいなければ、確実に私は自害していた。一回、過去にやらかしているんだよな。

それの救済措置で内在性分離人格を生み出し始めたみたいだな、すげえ納得がいった。

一回、自殺をしたときがあって、そんときは統合人格である『虫のなとり』だけしかいなかった。

言葉を奪われている状態だった。

そのあたりから凄い言語化に力を入れ始めた記憶があるぞ。

頭をつかい始め、感じることを文学のなかで注力し始め、その先に医学やらなんやらすげえ勉強したわ。

生きようとしてきた。だから私は離人症であり、私は書くしかなかった。書くことで私は生きようとしていた。

 

病気ってさ。人が足掻きながらも生きている証明なんだな。

一度、テトロドトキシンの関係で背中に体調の吹出物が出まくったんだが、なんて美しいんだろうって思った。

病とは美しきもの。

それは生きようとして醜くも足掻く姿が美しいんだろうな。

この精神病も、私のなかでは必死に生きようと、自分の精神をぐちゃぐちゃにしてきた。

正気の沙汰じゃないよ。でも、私は自分を嫌いになれない。私は自分が美しい人生を生きてきたような気がする。

自分に与えられた人生を乗り越えようと必死に生きてきた結果、私の精神はぼろぼろになってしまったけれど、それでも足掻いた形が今の精神的な体系をとって生命を維持している。

正直、現実では精神感の消失をしているし、精神では現実感の消失をしているし。健全とはまるで言えないし、人格の統合が出来るとも言えない体系をとっている。

でも、これはこれで美しかないか。これでいいと思う。

私は分離人格のまま、生きていこうと思う。これは私が生きてきたっていう証拠、そして人に優しかった証拠でもある、私の分離人格は優しい。

私の離人症は「生きたい」って言っている。優しい自分で生きていきたい。

だけれど、この世で人にとって優しくあることは辛いことだった。だから半分は殺すしかなかった。

自分が自分であるために、私は半分を殺した。

 

私が持つ信念は「優しい人になること」がひとつ。

人に優しくあろうとした自分が、それでも、優しくなれない状態を回避するために解離させた。

なりたい自分になろうとして、最終的にドえらいことになってたんだけれど、それでもやっぱり私は自分が好きだと思う。

こんな状態になってまで優しい自分であり続けながら生きようとする自分を誇りに思う。愛おしいと思う。

 

ようやく現実のなとりが自分の人生を認めることが出来たような気がする。

私は自分の内在性分離人格たちを認識することがほとんどなかった。なんだこれ? みたいな感じで終わっていた。虫のなとりは全く気付かなかった。精神が死んでるからな。言語がないから認知されない。

でも、彼はすべての私の人格を認めてくれた。

流れる雲ばかりを眺めている私を認めてもくれた、これが主人格の虫な。現実のなとり、みんなに認識されることがないなとり。ずっと死んでいる。でも、彼が認識してくれて、初めて私は『現実に生きている死んだなとり』を自覚した。

初めて私は「私」を認識してもらって、初めて私は「生きている」と感じた。存在をはじめて許されて現実化された。

私は彼に存在を認められたときに「生まれた」んだと思う。

だから彼がお父さんだったんだと思う。愛されたいと願った。もっと認めてほしいと思った、存在を。

 

だから私は彼のことが好きだし、嫌いだし、愛しているし、憎いし。

どれも私なんだと思う。残念ながら、私はこれを統合させることができない。

このすべてが私だと思うから、どれが私だ——とは断定が出来ないし、人格の統合をしなくても大丈夫。

これでいい。統合人格でなくてもいいし、自己統合をしなくてもいい。

私は分離人格者だし、なんなら半分死んでいるけれど、でも、私は自己統合をしなくていい。

それが私が生きているってことだから、私は私の分離人格をすべて愛している。どんな自分も、私は私を愛している。

 

生きていることが正解ではないし、死んでいてもいいし。

統合していなくてもいいし、分離していてもいい。

正解はひとつじゃなくていい。

そこに宿る心がある限り、それはすべて正解だと思う。

私の人生には心が宿っていたと思う。

だから私は自己統合ができない。