社会に存在する『地位や名誉』には価値がないこと。
題名の通り、社会に存在する地位や名誉にはあまり価値がないってことが、さきほど理解された。
残念ながら、まだ喜べないかな。特に何も思わないなって思った。彼が社会で活躍しているのは知っている。
けれど、それを見ても私は特に何も思わない。喜びがわいてこないし、なんならどうでもいいかな。
これなんだが、彼(という私の中にいる私兼彼)が『地位や名誉』について価値がないことを理解したのかな? と思った。
前記事に書いているアーリマン意識は、この地位や名誉を含め、簡単に説明すれば、死んだらなんの意味もなさないものへの執着がなくなった感じのことを意味していると思うんだが、それに対しての執着が彼のなかでなくなったから、私も、彼のことをみても気にならないのかも。
これ、どうでもいいことなんだよな。
だって死後の世界に、その地位も名誉も、なにも持っていけないから、特にそれは意味がないんだよ。そこに喜びはないもの。
じゃあ、人間的に価値があるモノって何? って話になってくるが、私はそれを『人間生活のなかにある営み』とか『夫婦の営み』だと思っているんだ。
衣食住という生活と、そして、ふたりという夫婦生活のなかに価値がある。そこに喜びがあるって感じかな。
地位や名誉を持ってても、女性は特に嬉しくないっていうか。地位や名誉があって女性の心は特に踊らないものだと思う。それがもし、アーリマンに犯されていないのであれば、私たちは、それに意味を見つけることができないような気がしている。
腐っても自分たちは人だってこと。人である限り、遺伝子を残していくことをまずは考えていくこと。
そして、それが喜びなんだと思っている。人が人としての喜びがここにある。そして、それが幸福。
私たちは生きているだけで幸福だって言葉にすることができるけれど、それじゃ現実感がわかないって感じな。
たとえば、幸せなことで胸がいっぱいのときってお腹いっぱい食べなくても満たされた感覚がする。これが大事で、それは夫婦だからこそできることだと思っている。
いっしょに食べれるだけで幸せ、いっしょに住めるだけで幸せ。いっしょにいられるだけで幸せなわけで、それが日常のなかにある。
日常を放棄してまで『何か』を得ようと遠くに出かけて行っても、正直、それって必要なものかっていうと、人にはそんなに必要がないものなんじゃないかなと思っている。
このアーリマン意識とルシファー意識の両方に感じたものが私は『慢心』だったんだよな。
この慢心を抑制するものは『異性』だったりする。
地位や名誉、何かしらを自分が持っているとき、その慢心を抑制してくれるのは、家庭の中にいる異性で、その異性を自分の名誉よりも大事にすることで慢心からは逃れられる。
社会よりも大事なものが家庭の中にあることも大事なことなんだと思うよ。
彼くんの課題はアーリマン意識だったのかな? 物質主義を終えること。
彼くんをあたいは内包しているから、あたいのなかにルシファー意識と、彼くんによるアーリマン意識が正常運転!