創造と妄想の違い(ツインレイ、創造主になろうよ企画③)
創造は何かをうみだすことに成功するが、妄想は何も生み出さない。
創造は対立をうまないが、妄想は対立をうむ。
まず、私たちの世界の『主』は妄想にある。こんな感じ。
秩序に対応しきれないほど、私たちは悲しみに暮れ、また苦しむことになる。
この地上におけるルールに適応が出来ないほど苦しいのである。それが時間や別れなど、自然に存在している節理である。
その節理に沿って生きることが私たちが『秩序の民』として地上に生きる存在としての在り方である。
秩序や節理に反するとき、私たちは『悲しみの世界』を広げていく。この世界観が強くなればなるほど、この世の摂理との対立が増えることになる。
いわば、他者との諍いが増え、世界が持つ道理と対立しなければならず、より一層悲しむことになるのである。
しかし、この秩序の世界を受け入れたとき、私たちは『悲しみの世界』を克服することができる。秩序に対応できていない自分自身が幸福をするのである。秩序への降伏であり、もしツインレイであれば、ツインレイの別れという秩序に乗っかり、ツインレイがいない今という現実を受け入れていくことなどである。
この悲しみの世界が存在している分だけ、私たちは『混沌』に触れることはない。理由は『妄想主』に書き換えている部分が『秩序』と『悲しみ』の対立世界を見せてくる為、私たちは混沌に触れることがない。
妄想とは『秩序』と『エゴ(悲しみ)』の対立した世界観であり、混沌とは『秩序』と『エゴ(悲しみ)』の混沌(ぐちゃぐちゃ)とした世界観なのである。
回避依存は『悲しみの世界を拒絶する』ことに繋がっており、自分の悲しみへの拒絶にある。秩序たる現実を直視することはできるが、人の心を理解することはできないし、自分の心への理解もなかなか難しかったりする。(なぜツインレイの相手が怒ってんのかわからないし、自分が怒っていることも理解できない感情喪失状態)
共依存は『悲しみとの一体化する』ことに繋がっており、自分の悲しみによる判断を行っている。精神を直視することはできるが、現実を理解することはできないし、自分が置かれている現実への理解もなかなか難しい。(ツインレイの相手と距離が置かれている現実を受け入れることが出来ずにエロトマニア化)
どちらも、妄想のなかにおり、自分の悲しみへの拒絶は拒絶した分だけ争いが生じ、悲しみとの一体化は妄想により相手を決めつけることにより争いが生じる。
創造主の知覚段階と妄想性
創造主の知覚段階では『自分の感情の感覚喪失』と『エロトマニア感覚』を持つように思っている。
人のなかには回避依存と共依存の両方を持っている。回避依存の人がやってくれば、自分は共依存となる。共依存の人がやってくれば、自分は回避依存となる。
ゆえに、ツインレイの段階で「自分の感情がよくわかっていない感情喪失感覚」と「エロトマニア的な妄想の展開」のふたつを抱え、このふたつを『抱き合わせていく』必要性がある。
ふたつが混沌としたとき、私たちは創造主を降臨させる。
そのためには、自分の感情に気づき、自分が持つ妄想性に気づいていかなければならない。
自分が持つ『悲しみとは何か』に触れ、その悲しみとエゴに触れていき涙を流すこと。
そして、自分が持つ『悲しみからの逃避による妄想性』に触れ、その妄想の払拭をし続けていかなければならない。
最終的には『自分の願い』がわかるようになる。
それは、自分の悲しみにより生まれた願いではない。それは自分の妄想により生まれた願いでもない。
真実なる願いは、私たちの創造へとたどり着くことになるだろう。私たちの願いは常に『創造』のために存在し、その創造力を持って混沌から願いを引きずり出してくるのである。
創造主視点による『闇の刺客』たる妄想
それは、妄想主である。悲しみの世界と秩序の世界を分離させてしまっている妄想を軸とした視点を持って生きている人が闇の刺客となる。(妄想性のやつですな。)
いかなることでも私たちは分離しきり、自分が成立してしまう限り『闇』は発生する。
ひとつの一極に偏るとき、もうひとつの一極が生じる。そして、対峙するのである。創造もまた妄想と対峙するのである。
私が混沌を善とするとき、もうひとつの対立を悪となる。この善悪もまた私のなかでは『対立』なのである。
自分のなかにある『妄想』と『創造』の違いに知覚が出来るようになったとき、闇の刺客が生じる。
自分のなかで、「問題のある自分」と「問題のない自分」の違いが理解でき、また、問題のある自分を抑圧しきったときに闇の刺客は生じるのである。
私の中にあった『妄想性』が消失し、また私は『創造主』となった。しかし、この創造は妄想を否定している。
だからこそ、私はこの妄想を抱きこまなければならない。否定はしない、受け入れる。その気質を。
今まで私のなかに存在していた妄想性を私は受け入れる。そして統合する。
私が『混沌』へ至るために。
闇の刺客による加害妄想と被害妄想
妄想の構造だが、『秩序』と『悲しみ』の対立により、被害者と加害者の存在が必要となる。
段階においての妄想の状態が、自己と他者の概念のとき『自分が被害者』となり『相手が加害者』となる。よくレイプ加害者は自分が被害者となる傾向が強いっていう話があるんだが、自分が加害者である自覚が取れないという客観性の欠落を感じられる。
この客観性とは『秩序』にある。自分が他者へ加害する自覚が持てないために、自分が被害者となってしまうのである。
これもまた『自己と他者』の概念のもとに生じることになる、ひとつ前段階の闇の刺客にある。
また、私たちは善悪二元論に縛られているとき、誰かを悪に仕立て上げなければ自分が悪になってしまうために『自分は被害者である』と主張するケースも多くなるだろう。
そして、その被害者意識が自分のなかに生まれる「たられば(もし、〇〇だったならば)」という思考や、愚痴などに繋がっている。(つまり、被害と加害の関係性は常に、そういった『悪』に繋がっているって話である。)
ツインレイのアダムとイブとリリスの関係性とツインレイの契約(盟約)と被害者・加害者意識について
この関係性による自己と他者の概念を逸し、客体化されたとき、私たちは「加害者」と「被害者」を見つけては、その審判をかけることがある。
つまり、加害者をしたてあげ、被害者をうみだし、この関係性のなかに『自分』という中立性を見つけ出そうとする瞬間がある。これが『妄想主』という概念にある。
簡単に言うと、私の言う「神さまごっこ」である。自分はすべてにおいて理解し、すべてにおいて判断でき、すべてにおいて『正しい』という考え方のもと『被害者』と『加害者』を生み出していく。
それは何の為なのか。理由は、自分の存在意義というものが被害者と加害者により構成されているためである。
被害者をかばう自分、加害者と戦う自分。こういった『被害者と加害者による構造のなかに生まれる役割』がある。
それが弁護士だったりもする。いわば、不幸のなかに存在する仲裁者。
誰かと誰かが争っていなければ、自分の存在が意味をなさないこともある。
たとえば『親』という概念も、子を守る意義により生まれているとき、私たちは悪を生み出さなければならない。
そんな風にして私たちは、悪を生み出し、その悪は『対立』として存在している。対立のなかにしか存在しえない役割も存在しているのである。
これが『弁護士』なわけであり、私たちの欲する『救世主』であり『正義』だったりするのかもしれない。
妄想主による加害と被害の構造
妄想主って段階に差し掛かると、自分が被害者になるわけではない。他者が被害者に仕立て上げられるのである。
被害者(と思い込みたい相手)に対しての信頼性を失っている状態とも言える。その存在が自立していると認めることができない心も関係性している。
根源には、被害者(と思い込みたい相手)と自己投影が行われている段階にある。自分が抱えている被害者意識が他者に投影され、その投影が他者への信頼性を失ってしまう。
これを『共感』と多くの人が感じているかもしれないが、これは単純に『思い込み』である。その人を被害者にしたてあげることにより、私たちは自己投影を行い、投影された自分を守りたいと思っているのである。(共感とは知的なものであり「なるほど」の理解にあり、感情的に行われていく共感は『同調』にある。)
これは自分と被害者たる存在の同化にあり、共依存にある。共依存を肯定したいがために、加害者を必要とする構造である。
ツインレイで理解する妄想主
私たちは、常に被害者となる。その被害意識とは『加害者』を必要とする。
ツインレイたちは『悲しみ』を抱えている。過去に抱えている自分が悲しかった経験を肯定しているとき「ツインレイの相手は悲しんでいる」と思い込む。そのように思い込むことで私たちは人に優しくなれるだろう。
そして、そのとき誰かを『悪』に仕立て上げなければならない。
その悪を持って、私たちは優しいのである。そして、その悪が『ツインレイ自身』へと変換されることもある。
私たちは自分の精神構造のなかに『誰かが悲しみを背負う被害者』が存在していなければならない。
しかし、私たちは本当にそうなのか? 本当に、誰かが悲しみを背負う人格が存在しなければならないのか。誰かが被害者にならなければ、私たちは存在することができないのだろうか。
考えてみてほしい。
ツインレイの相手もきっと苦労しているんだろう、自分の為に頑張ってくれているんだ。
ツインレイの相手はきっと悲しい経験をしてきたんだ、ツインレイの相手には傷があるから酷いことをしてきているんだ。
この思考回路そのものが『加害』と『被害』にある。
「自分が傷つけられる理由」を考えている限り、自分は被害者なのである。そして、それは自分に悲しみがあるからこそ、自分が傷つけられているのである。
いわば、自分が傷ついている限りは被害者と加害者の関係性を抜けていくことができない。
そして、自分が傷ついているとき相手も傷ついているし、どちらにも同じ傷が存在している。(これを私は課題の一致と呼んでいる。)そして、自分は傷ついていないと思っているとき、私たちは相手へ傷を押し付けるために、相手を被害者にしたり加害者にしたりしながら、自分の傷から逃げ惑うのである。
私たちは妄想を繰り広げている。
ツインレイを通し、ツインレイは同じように苦しんでいると思いたくて、ツインレイは同じように悲しんでいると思い込みたくて、そして、ツインレイは悪い存在でなければならなくて、ツインレイはダメな存在でなければならない。
なぜならば、そうでなければ私たち自身の存在意義が見つからないからである。
可哀想と思う弊害と間違いによる愛
これは私が認識していることだが「可哀想」と思うとき、私たちはその傷を背負う側になる。
背負えるもんじゃないならば、やすやすと人に同情など向けてくれんなと思う。背負いたいのであれば、その傷を背負ってやればいい。
同情ならば金をくれてやれ、そのほうが断然人としてマシである。何も提供もせず、行動もしない。同情の目を向けてくる人間の残酷さを知らないからこそ、人は「可哀想」だなんて簡単に言葉にする。
だから、その残酷さを理解するために、私たちは人の傷を背負わされる。
もし、それが本当に同情なのであれば、私たちはその人の傷を背負う。そうやって「同情」を精神上では行っている。そして、もし、相手へ本当の意味での同情でないのであれば口先三寸でしかなく、なにも背負わない。
ツインレイの相手を可哀想と思っていたわけではない。
私は、ツインレイの彼のいかなる傷をも背負い、彼が背負う傷を受け入れた人である。
これが体現されたとき、私はツインレイの彼が抱えている彼の言動、行動、そして私自身に向けられる刃のすべてを背負った。
彼が背負う悲しみ切れないでいる傷を背負うことで、私は彼を『愛した』のである。これはもしかしたら同情かもしれない。もしかしたら、可哀想と思ったのかもしれないし、その辺はよくわからないよ。
だけど、私は自分が「人の傷を背負う覚悟」をも持っていた人だと思っている。よくわからねえが、私はそういう人だった。人が持っているものをいっしょに背負う覚悟がある人だった。
したらば、彼の人生のなかで傷ついてきた経験を私の人生で反芻することになったよ。
そして私は彼を想う。彼がいかなる人生だったのかを私は体験し彼の心に触れた。
最後に「彼が彼でいること」を理解した。
私の同情である。これは『同じ情』なのである。同じように感情を感じ、同じように苦しみを感じた。それこそが同情にあり、私の傷にもなった。
私は彼が存在する世界へ自らを傷をつけ、落ちたバカである。彼と『いっしょになりたい』と思ったがゆえに、私自身が背負った業でもある。
『傷は半分こ』した。代わりに、私は私のなかに『彼』が宿った。それは今や立派に『アニムス』をやっている。
同情的だった私。同情は愛ではないぞ、そう言ったことがあった。否定は肯定しなければならない苦痛がこれである。
きっとこれは『間違い』である。しかし間違えた先にしか存在しない愛が存在している。私はとても強かな女性だったんだろう。
このときの私は確かに『女性』だった。
私は間違えて良かったと思っている。そうでなければ今の私はいない。今の私が『今』を構築していないだろう。
おかげでもうさびしくない。
私が人に優しく、また同情的であったことは私の孤独を救ってくれた。私はようやく『孤独』に耐えられる存在になったのである。
間違いは必ず愛により受け止められる。私は間違えたけれども、その間違いから生まれた歪みが愛という混沌へと繋がったときである。
愛しているよと言葉にして同情をした私は、彼の精神の負担をいっしょに背負った。
心から同情したんだろうな、マジで。めちゃくちゃ失礼な人に成り下がった。
私はそんな自分が好きだと思う。人の傷をいっしょに背負いたいと思う私を嫌いになんてなれないよ。
同じように彼も私へ同情したことだろう、これでおあいこなの。
ありがとうね、私を背負ってくれて。
同情が本当の意味で『真実』へ到達したとき、私たちは『愛』を持っている。そこにある心を受け取るとき、私たちは愛し合っているからである。
同情。それは「同調する心」である。同調するとき、私たちは相手の傷をいっしょに背負うことになる。それは愛である。
ツインレイによる存在意義とは
ツインレイたちは、自分の存在を他者のなかに見つけようとし続けている。
いいや、ほとんどの人間が自分の存在を他者のなかにしか見つけることができない。そんな世界に存在している。
そして、自分の存在を他者のなかに見つけたとき、私たちは『存在』を感じることができる。
これが『倫理的実存』の段階にあり、私たちの存在意義なのである。
しかし、私たちは倫理的実存を極めぬくとき、必ず倫理による破壊を受け取る。ニーチェは『竜』として表現したが、私たちはどうにもこうにも大きな間違いを犯してしまったのである。
それは自分の悲しみを癒したいがゆえに、それは誰かの悲しみを癒すために、私たちをより強く優しい存在へと築き上げたと同時に、私たち自身は常に対立を生み出し続けてきたことである。
私たちは、存在意義を他者のなかにしか見つけることができない段階を抜け、次には『自分のなかに存在意義を見つける』ことが出来るようになる。
私たちは、求められるようになる。私たちが私たち自身を求めているように、私たちは他者に求められるようになる。
それは、私たち自身が私たちを求めたとき呼び覚まされるような世界でもある。
私たちは、自分の存在を問いてきた。しかし、それは悲しみを自分が抱えていることに気づくことである。
そして、その悲しみを解明していくとき、私たちは真実なる欲求に気づく。
「自分で自分を求める欲求」である。自分の存在を求め続ける欲求は、私たち自身を常に創造へ導くことだろう。