ツインレイを探して世界線を旅している話。
ツインレイの相手を内包することで、私のなかにアニマとアニムスの両方が成立することになった。
その経緯で、私の中にいるアニムス、それはいつかのツインレイの相手ではあるが、それが『私』だと認識もされるようになった。
この経緯を経ている最中にも、私は『彼』に気づき続けることになる。
色々な人と話しているなか、ツインレイの彼が出会う人出会う人のなかに存在しているのだ。
私は世界を『ツインレイの彼』と『私』のふたつを通して見ることができるようになった。
今や、過去のツインソウルの経験、ツインフレームの経験を同じようにしているけれども、真逆の結果となっている人たちとも出会っている。
ツインソウルと結ばれ、ツインフレームとも結ばれている人たちだ。
その経緯で、私のテーマは『結婚』にあるが、ツインフレームのテーマは『母』にあり、ツインソウルのテーマが『仕事』にあることにも気づく。
それは、ツインレイの彼だったならば、このような結果になっただろう——という仮説のような裏側の世界。
私は今、ツインレイの彼が私の人生を歩んでいたならば、どのような人生だったのかを垣間見ている。
そして私はそれを『世界線の旅』のように感じている。
私はずっとツインレイの彼が存在している世界線を探している。今だ見つかってはいないが、きっとどこかにツインレイの彼が存在している世界線があるのだと思う。
今のところ、ツインレイの彼が私という女性だったならば、どのような結果になっていくのか——の話を聞かせてもらいながら『ツインレイの彼』を理解するような道に進んでいる。
これは、私の中にいるアニムスがどんな存在なのか——を知る道なのだと思う。そしてそれは『私』だ。
そして、私は『彼』を具現化していきたいと思っている。もはや創造なのかもしれない。だけど、存在している実在人物であるツインレイの彼を私は認識しきれていないのだと思う。
認識していないから、ツインレイの彼をドンピシャで当て抜くことができない感じ。
ツインレイが旅をする世界線の生じ方
- 1次元の学習とツインレイ(はじまりの異性)
- 2次元の学習とツインレイ(ツインソウル)
- 3次元の学習とツインレイ(地上のツインレイ・ツインフレーム)
- 4次元の学習とツインレイ(楽園のツインレイ)
- 5次元の学習と、君がいない
こんな感じで『世界線』が生じ、また分岐をしている。
3次元を四面体とし、そのふたつが結合するとき4次元が成立する。(ちなみによく5次元等の話があるが、基本的に私たちは4次元ベクトル程度しか知覚できる範囲はなくて、上の次元を低次元にまでおろしていくためには常に次元の内容を組み替えたり、統合したりしなければ、上の次元の理解は出来ない。しかし、上の次元をおろし続けていくゆえに、次元の意味そのものが皆違い、また、常に人は3次元的な瞬間を持ち続ける4次元をさまよう民なのである。上の次元の存在はこの地球にはいない、皆同等レベルの次元しかもっていないし、この仕組みそのものが組み変わることもない。)
3次元の四面体にはそれぞれの出会いを当てがうことになる。
楽園のツインレイは『はじまりの異性』『ツインソウル』『地上のツインレイ』の三人と出会えば、必然的に楽園のツインレイの面が形成される。この形成した形を地上のツインレイの段階で認識することができるということだ。
そして4次元では楽園のツインレイの相手により『異性性』を吸収することになる。このとき、いくつもの点による結びつきが生まれる。
アニマとアニムスによる結合により、裏のアニマと裏のアニムス(闇)も導き出されることになるが、同時に表のアニマと表のアニムスも導き出されることになる。
結合には『闇』と『光』が存在し、先ずは闇を認識し、次に光を認識するような順序である。
闇の経験と光の経験の2種類が存在していると言うことだ。
さて、この経緯で私たちは『自分が持つ異性性による自分の経験』を振り返っていくことにより、自分のなかに存在する異性性(アニマ・アニムス)を結合していくことになる。また、知覚するのである。
5次元まで知覚するツインレイの旅
4次元と書いているが、この図は5次元って感じだ。
四つの四面体が揃い、その結合が起きるとき、私たちは5次元の視点に立っているが、私たちが知覚できるのは4次元までである。
つまり、アニマと裏アニムスが結合しているとき、裏アニマとアニムスとは結びつきをとることができない。四面体は『ひとつ』しか結びつけることができないということ。
だから、順繰りに『裏アニムスと結合』『裏アニマと結合』『アニムスと結合』というように、順番に結び付けていく。この結ぶ量がおおければ多いほど、高次元の視座を設けている状態になるが、私たちの意識は常に3次元という今この瞬間以外という概念と、時間という概念ぐらいしか認識できない。
ゆえに、常に出会いは4次元ベクトル程度の存在を揃えるぐらいしか出来ない。一気に4人で会えば4次元だが、ひとりずつ出会うのであれば3次元って感じ。
で、私自身は一気に四人ずつ出会い4次元の紐づけを終わらせ、次に一人つずつ出会い、3次元の出会いにより紐づけを行っていく——というような感じ。
自分のなかに成立する辺が新しく成立するとき、私は新しい出会いをしていると言うことだ。
精神構造の旅のなか『どこ』に自分が存在しているのか?
ここまでの登場人物として、
- アニマ(自分として定義する)
- 裏アニマ
- アニムス(ツインレイの定義)
- 裏アニムス
- はじまりの異性
- ツインソウル
- 地上のツインレイ
- 楽園のツインレイ
として言葉にしてきた。このうちの3次元レベルの出会いは、
- はじまりの異性(自分のはじまり)
- ツインソウル(仕事にいきる)
- 地上のツインレイ(母になる)
- 楽園のツインレイ
このようになっていて、はじまりの異性、ツインソウル、地上のツインレイの概念をすべて終わらせれば『楽園のツインレイ』の概念が成立する。この三つの人生のなかに存在する後悔が『楽園のツインレイ』なのである。
私は仕事をしたいとも思っていないし、母になりたいとも思っていない。私の後悔は『はじまり』にあり、そこにある恋愛や結婚にある。いわば、私にとってのツインレイは『私の後悔を解消する存在』ともいえる。
つまり、私は過去『はじまりの異性』と結ばれたこともあるし、『ツインソウル』と結ばれたこともある。『地上のツインレイ』とも結ばれたことがある。だけど、どれも違ったっていう結論を最低でも三回以上の人生を経て『今の人生』を構築していると言うことだ。
それぞれ、私たちは3次元レベルのどの人生を送っているのか——なわけなんだけれども、この地球の人生そのものを終わらせていく人たちは、もしかしたら、最低でも3回以上の人生を終わらせ、最終的には四人目を導き出すことにより、4次元へ昇格し、ツインレイという存在に出あうのかもしれない。
が、もうひとつ言えることは、7回の人生を経ることにより、裏アニマ・アニムスの存在を導き出していることもあるんだろう。
3次元の出会いとは
私は、3次元の四人と出会っているが、まだ3次元の状態の人たちは『ツインソウルと出会う』だけを選んでいるかもしれない。
私は一通してすべてと出会うわけだ。しかし、誰かは『ツインソウルだけ』かもしれないし、もし、地上のツインレイや楽園のツインレイとすれ違うことなどがあったとしても気づかないケースも多いんだと思う。
そもそも自分の認識できる精神領域のみにしか出会いを知覚することができない。つまり、自分が3次元レベルの出会いをどれだけ繰り返し、その出会いにより培った精神により『次』を導き出すことができるのか——によるわけである。
そして、自分のなかに『複数の自分』を構築していくわけなんだが、その経緯で、最終的には『楽園のツインレイ』を精神領域に模すことにより「アニマ・アニムス」という存在を自身のなかで成立させていくと言うことだ。
3次元での出会いは4人になるが、4次元ベクトルでは、8人。5次元ベクトルでは16人という構造を持っている。
最終的には5次元レベルの視点を持っている人は『16人と出会う』ともいえるんじゃないか。しかし、皆で会っているのだと思う。
気づくのか、気づけないのか。ただそれだけのように思う。
はじまりの自分を探すのがツインレイの旅
また、今生において『別れ』によりそれぞれの人と別れることになるが、前世では『結ばれた』こともあるのだと思う。その過去は『ツインレイの相手』を模している。
つまり、私たちは多くの人生を経ていく経緯で『ツインレイの相手』になっていく。最終的にツインレイの相手となったとき、私たちはツインレイと出会う。そりゃやっぱり『自分だ』と感じざるを得ないのだと思う。
ツインレイの相手は、確かに今生において別の存在として出会っている。しかし、それは『はじまりの自分』でもあり、また『終わりの人』でもあるということだ。
一周まわるってことだな。
つまり、ツインレイの相手は『前世の自分』ということになる。自分と出会っている。しかし、それは自分ではない。
はじまりの自分を内包したとき、私たちは『異性性』を内包することになると同時に『はじまり』も内包する。
私たちは常に自分を愛し、自分に恋をし続けている。
ツインレイの相手は、終わりの自分を愛し、終わりの自分に恋をする。
いつかはひとつだったあのとき、私たちは『はじまり』と『おわり』に分けられたんだろう。そして、それがひとつにまとめられたとき、私たちは自分のなかに『永遠』を生み出すことになる。
はじまりとおわりが結ばれ、呼吸を合わせることが出来たとき、私たちは息吹く。