すべてのタイムラインに存在している自分を理解する多次元思想

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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私のなかには複数の私が存在している。

私たちは他者から産み落とされた肉体を持っている。そして、その肉体を持って他者を演じ続け、またあるとき、それを自分だと理解してからは他者の道が自分の道だと、自分の人生を生き、最終的には『自分』となりては死ぬのである。

私たちは、この世に生まれるとき「他者」という概念しかないというのに、最後には「自分」という概念により死ぬのである。そして、他者のなかから生れ落ちるときの赤子は泣き、自分として死ぬ行くときの故人は他者が泣く。

私たちは私たちが涙するとき、赤子となる。そして、人を泣かせるとき、私たちは自分となっている。

このような世界に生まれ落ちた私たちは、他者と自分の関係性を「自分が泣くか」「相手が泣くか」のどちらかしか選べないのである。

しかし、私たち自身のなかにあるルールが『4次元的な時間に縛られていない』とき、私たちはこのときの意識を組み替えることができる。

私たちはあなたの涙を同じように感じられるようになったとき、そして、あなたが私と同じように心を動かすようになれたときに、私たちの心はもう少しだけ広い領域でモノを捉えるようになる。

そして生まれ変わろうとする。

私たちが0歳の私たちとなれたとき「涙を流さず喜びを感じる」のである。私たちはあなたに出会えたことに心から喜び、あなたを常に受け入れ続け、あなたになろうとする。

私たちが死ぬとき「涙を流さずに喜びを感じる」のである。私たちは自分が失われたことに心から喜び、私が私ではなくなるのである。

私たちは、先天的に、

  • 自分を通せば誰かが泣く
  • 他者を通せば自分が泣く

という感覚を持っている。

しかし、ワンネスの感覚へ到達した後、

  • あなたに出会える喜び
  • 自分を喪失する喜び

を理解するのである。

ツインレイは、あなたと出会い、私たちが出会った意味を知る。そして、最後には自分を喪失させ、あなたそのものとなったとき、私たちは「喜ぶ」のである。私たちは自分が失われ、あなたがそこにいることを喜ぶ。

そうやって、私たちは産まれてきた意味を再び学習しなおすのである。

 

ツインレイとは、自分のなかにある意識の人生観そのものを覆すための存在である。

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タイムライン上に存在している自分とは

私たちは、私たちのなかに複数の自分が存在している。

まずはタイムライン上から見てみようかなとは思う。

図の説明:タイムライン

私たちは一生のうち、0歳の生まれたてのときから、毎日の時間を過ごし続けている。これは3次元による瞬間を常に4次元により連続性を生み出すことにより、時間的概念を持つことである。

昨日の自分と今日の自分は確かに「なとり」という意識があるけれども、昨日のなとりと今日のなとりは違うなとりだよっていう感覚が存在している。

私たちは、昨日と今日のなとりは同じなとりを「3次元のなとり」として捉え、昨日と今日のなとりは別のなとりとして捉える意識を「4次元のなとり」として捉えている。

昨日の自分と今日の自分を同じとして認識する意識は『今』という概念のみに存在し、常に明日もずっと自分という感覚にある。これを自分として認識するのである。自意識的な感覚である。しかし、4次元のなとりは昨日のなとりに後悔をし、明日のなとりに不安を抱えている。

3次元の意識は、明日のことなんて不安でもないし、昨日のこともまるで忘れてしまっている事でもある。そもそも、そういう『事象』に囚われていない意識でもある。つまり、常に「存在」を意識された存在でもある。

しかし、私たちは常に「明日の自分」と「昨日の自分」について考えている。将来どうしよう——とかんがえるとき、私たちは4次元思想にある。3次元は明日については悩まない、そもそも悩みなんてもものもないし、なんなら生死とかの概念とかもない。常に「今という瞬間」という停止的な存在であり、意識すら生まれていない。

私たちは「時間」という概念のなかに存在しているからこそ、悩み考え、苦悩するのである。不安や恐怖もほとんどが『4次元的な悩み』なのである。

たいてい、過去のことでくよくよして、未来のことで不安を感じている。そして、これは他者という存在と関わることにより生じることでもある。

私たちは「他者」という概念そのものを『4次元』に見つけているのである。ゆえに、私たちは常に4次元的な存在なのである。

 

つまり、毎度毎度瞬間的に常に自分は生まれつづけている状態とも言える。この理解の元にいる「わたし」は数えきれないほどとも言えるが『無限』なのである。時間のなかに存在するなとりは無限に存在する。でも、与えられている時間は皆等しく同じである。

自他により生じる自分とは


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私たちは障害のなかで心理的な感覚を変化させていく。それが『自他認識』であり、また『異性の認識』であり、『神の認識』である。

私たちは一生において「他者」として生まれ「自分」として死んでいく。私たちは常に『自分が存在すれば死ぬ』のである。ゆえに、自分を殺し続けた人は『他者』としての赤子に戻るのである。(これが自己の喪失になり、エゴを捨てることである)

ゆえに、赤子の段階では『他者』という概念が生まれ、死の段階では『自己』という概念が生まれるのである。

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性別により生じる自分とは

私たちは赤子の段階で「他者という存在」しか認識しないが、その後、他者からの投影された自分を認識される。

私たちの意識はあるとき『父と母』という両性を理解し、その後『同性と異性』という意識を理解し、私たちは異性を意識するようになる。

その後。自分を自分の性別を生き、そして異性と恋に落ちることになる。私たちは異性を意識することが恋をするとして認識している。そして、その後に渡り、最終的に自分が持つ性別による「大人」という概念へと到達する。

  • 無性(赤子)・・・鉱物界
  • 両性・・・植物界
  • 同性と異性(異性との差を理解)・・・動物界
  • 中性・・・人間界

というように、私たちは私たちのなかに性別による成長を迎えていくことになる。

どうやら私たちは、このときどきにアクセスすることができるようになのであり、これらの人格のなかでも『中性の意識』『無性の意識』は忘れ去られているのである。

私たちは『両性である意識』を忘れ、自分のなかにある異性性を忘れてしまう。つまり、自分が持つ肉体に依存した性別を「自分」として認識する為、異性を「他者」として認識するのである。いわばこれが異物という感覚である。

この異物的な感覚は夫婦関係を不和にするきっかけともなりやすい。自分とは別の存在だから上手くいかないだろう——という先入観がまずはここに差し込まれてしまうのである。私たちが持つ根源的な差別意識である。

しかし、私たちには何も差がないことを理解するとき、私たちは『両性の理解』へと戻る。植物にはおしべとめしべがセットとなっているように、私たちのなかには「両方の性別が眠っている」のである。

両方の性別を理解し、私たちは「男性的にも」「女性的にも」生きられるようになったとき、私たちは生まれたての私たちを知ることになるだろう。

そのときの私たちは『鉱物』という概念のなかに存在し、常に「あなた」という感覚しかない世界である。あなたと私がひとつであり、常にあなたであり続け、あなたを投影し続けているのが自分であるため、このときの私たちは自分という概念が存在せず、また他者という概念すらない——。極めて「無」という感覚のなかに存在している。

私たちは「なにもないまっさらな意識のまま環境に適応する」のである。

 

ツインレイと出会い、私たちは時間を戻していく。あなたがどの時間にまで戻ったのか。それについて考えてみるといいかもしれない。

あなたのなかに「どの意識が芽生えているのか」「どの世界観のもとの自分が存在しているのか」である。

そして、その新しい概念を持った自分が「自分の世界に誕生した瞬間」に立ち会っているのがツインレイである。

私たちは、忘れてしまっていた昔に存在した自分を再び時間の上で成立させ、タイムラインを整えてみようとするけれども、まるでうまくいかない現状が生まれてしまう。

これが私たちが記憶喪失しているがゆえに、その時間による概念が抜け落ちているからこその世界線へ乗っかってしまっているのである。

図の説明:生まれてから死ぬまで

私たちは、赤ちゃんのときに意識が生まれ「他者概念」のもとに生まれてきている。そして、その後、新しい性別を受け入れ、その性別により『自分』を構築していく。

その自分が最低でも、この人生では四つぐらいは生み出されそうなのである。

そして、その性別による自分は常に「他者」に構成されているのである。私たちは常に「赤ちゃん」なのである。

図の説明:赤ちゃんは世界を認識している存在

私たちは性別や自分の意識などを「赤ちゃん」による世界からの影響を受け取って自分を構成している。ゆえに、私たちが繰り広げている世界とは「私たちを育てている親」なのである。そして、その投影が私たちに他ならない。

ゆえに、私たちはその世代による意識なども受け継ぐし、その世代による災害による意識なども持っているゆえに、世代ごとによる意識が違うのである。私たちは常に「そのときに生まれてつづけている」のである。

私たちが大人になるとは『自分を成立させること』になる。しかし、自分が成立することになれば、それは常に「死」がやってくる。私たちは自分を構成すれば構成するたびに人を泣かせているのである。

しかし、私たちの中でも「自分が泣くこと」にしてきた人たちは、自分の意識が何度も生まれ変わり続けているために、その心が赤子のように柔らかいものとなっているのである。これが柔軟的な心であり、他者との敵対を好まず、また他者そのものを内包していく意識である。

つまり、赤子とは自分の死であり、個人とは他者の死でもある。私たちは、他者という自分を構築している限り死ぬしかないのである。殺され、人に痛めつけられるのである。これが『死』である。

私たちは、この人生のなかで常に「他者に提供された人生を自分の人生を生きていると思い込んでいる人たち」でしかない。

最終的に、私たちは「自分が完成した!」と思った瞬間、それが他人としての人生を完成させ、死んでいくのである。

世界からの提供を全て受け入れていくこと

世界から与えられる葛藤のすべてを受け入れるとき、私たちは「他者そのもの」となるだろう。しかし、それこそが「自分の人生」なのである。そして、その自分の人生を丸ごと完成させるとき、私たちは「ほかの世界線の自分」とも横で繋がるようになるのである。

図の説明:すべての影響を循環させる

私たちは、行きの人生と戻りの人生がある。私たちは人生を先に進めれば進め、他者を内包すれば内包するほどに、自分の心が赤ちゃんへと戻っていくのである。

私たちが世界からの影響を受け取れば受け取るほどに、私たちは「赤子の本質」に戻ることになる。私たちは「まるで世界からすべての影響を受けていること」は「すべての愛情を受け取っていること」でもある。

私たちは自分のなかに「性別を持つ自分たち」を構築しきり確立させることにより『死』を迎えさせることができる。これは自分のなかに存在する概念が完成しきった瞬間にある。その後、私たちは死の次に再生を起こし『生』を迎える。

これぞ喜びにある誕生である。私たちは私たちのなかに「純粋なる自分」を産み落とすのである。

私たちは人を愛し受け入れ続けた結果、赤ちゃんだった時の自分に戻っていくのである。そして、そのときの私たちは、再び成長し始めては、大人になった時に得た「自分の性別」をすべて受け入れていくことになる。

もし、このときにツインレイという存在に出会ったのであれば、ツインレイは「自分とは違う性別」を持っている事だろう。私たちが進まなかったもうひとつの性別の道を生きた人がいたことを理解し、その人生を受け取りながら、私たちは心の人生を逆へと巻き戻していくのである。

そして、私たちが私たちとして生まれてきた起源を理解し、その起源を知ったうえで再び『生きる』という人生の折り返しターンに入る。

図の説明:赤ちゃんは世界になっている

私たちは人生のなかで、起点は「赤ちゃんという他者」という存在へとなっているが、折り返し、影響を受け取り続けると、次には「赤ちゃんという世界」という感覚を理解できるようになる。

私はあなたでした。この感覚は赤ちゃんの感覚であり、世界との一体化を感じるワンネス的な感覚である。

そして、その赤ちゃんは「世界の創造主」にもなれるのである。

赤ちゃんは他者への影響力を放つのである。なぜならば、最初の赤ちゃんは言葉や表現を持つことはなかったが、生まれてきた赤ちゃんは表現や言葉を持つからである。そして、それは『故人』という死の存在にも触れているため、霊的世界へのアクションも、この赤ちゃんによるエネルギーにより生じるようになる。

赤ちゃんは「影響を受け終わった」のである。私たちは私たちの人生のなかで「影響を受けたくない」と否定している何かがある限り、私たちの意識は赤子に戻ることはない。

私たちは他者を肯定的に捉えるときだけ、影響を受け取ることを肯定的に捉えている。

 

そして、この赤子の領域にまで達したとき、私たちはようやく『自分の人生を創造する』のである。今までの人生踏まえ、他者との共存の為に創造する。我がためにのみならず、誰がためにが我がために通じるように。

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ほかの自分の人生に気づくことと多次元性

私たちは、上記の通り「ひとつのタイムラインの上にひとりだけ」という状態で生きている感覚がしている。しかし、私たちはある側面では違う人生を歩んでいる。

その違う側面からみた違う人生に気づいていくことが「多次元的な自分」にある。

私たちは発達段階により、最初の「赤子の自分」も存在していれば、途中で「両性である自分」「肉体と同性の自分」という人生をひとつの人生のなかで生きている。

あるとき、私たちは「両性である自分の人生」に気づいたり「赤子の自分の人生」に気づくことがある。私たちは、その人生に気づいていないだけである。これが私たちがもつ「多次元的な人生」である。

私たちの肉体はひとつであるため、その肉体によって生まれる人生がひとつだけとなっている。ゆえに、認知がひとつの視点しか得ることができない。だけど、私たちの人生は、私たちのなかにほかの視点を持って『自分の人生』に気づくことができる。

あなたのなかにどれだけの自分を認識できているのか——。それがひとつの人生であるとき、私たちは肉体に依存した意識にある。しかし、ほかの自分に気づき、ほかの自分ともいっしょに共存が出来るようになったときの私たちは多次元的な自分をひとつの人生から見つけることができる。

まずは他者のなかに自分を見つけることから。そして、いつしか、その人生すべてが自分のなかに存在していることに気づいてくことは、人との折り合いを素敵な形に落ち着かせていくだろう。

あなたの人生を私は現実的には生きてはいないけれど、必ず私はあなたの人生を「私のなかに」存在していることに気づくときがやってくる。私はそんな風にして人の人生を受け入れていくことになる。あなたの人生は私の人生なのである。そして、あなたの使命は私の使命であり、いつも同じ使命のもとに生きている。

肉体としては違う肉体だけれども、いつだって同じなのである。

多次元とは「あなたの人生」を「わたしの人生」として認識したときに感じられる、自分のなかに存在する他者の人生を歩んでいる自分を理解するときに感覚として現れる。

そんなとき、私はあなたと私がうまく私のなかで共存が出来るように、私の中のメカニズムを組み替えていく。私は常に変わり続けていくのである。