ツインレイを定義する『無縁の人』
ツインレイ、それは私の織りなす哲学を嗜むたったひとりのこと。
これを私は特別と感じ、運命の人と呼ぶ。
ツインレイの定義は「魂の双子」とか「運命」とか。多くの定義化がされているなか、私は、私にとってのツインレイとは何か——の定義をしようと一生懸命に頑張っていた。
私にとってのツインレイとは何なのか。
社会的に語られるツインレイではなく、私個人によるオリジナルという差別化をしたかったとも言える。
これは「あなたとわたしは違う」という差別ではなくて「わたしがわたしである」という証明に過ぎない。
なとりはどうして彼が良かったの。
どうしてなとりは彼に執着をするの。
なとりはどうして彼でなければならないの。
どうして彼が「ツインレイ」なの。
なとりにとってツインレイって何なの。
ひたすら自問自答。どうして「彼」なのか。その理由が絶対的にある。
それは「ツインレイだから」ではない。
それは「運命だから」じゃない、決定的な何かがあるのである。
私はずっと「私だけの答え」を探していた。
とっても簡単なことだった。
私は哲学的な話をするし、超ド真面目な人だとも思われることのほうが多い。
逆なんだよ。私はそれとは真逆の人。くだらないことを理論にたてて笑っているし、ロッカールームトークだってある。
ただ面白いこと探しているだけ。私は「真面目とは程遠い」と思う。
不真面目でいても許された、くだんないジョークを笑ってくれた。
よく「なとちゃって面白いね。」って言われることがあった。でも皆が皆、笑ってくれるわけではない。
上っ面で微笑んでは評価するんだよ、面白いと。
私は面白いなんて評価はいらなくて、いっしょに笑ってくれる人を運命の人と呼びたかった。
大衆的な立場の人たちは、多く「評価」するだろう。そんなん、誰がやろうが評価は評価に過ぎない。
だけど、ともに笑い、ともに泣くような人生を生きたかった。
いっしょに同じことに笑って、いっしょに同じことに泣いて生きていきたい。
そんな風に心をひとつにして生きていけることを「ツインレイ」と感じ「運命」だと思った。
そして、このブログを通して、私は多くの人とツインレイとなった。
ともに笑った人もいるし、ともに泣いた人もいる。ひとつになれた。
私は皆とツインレイだったと思う。みんなとひとつだった。楽しかったよ、幸せだった。
だけど「違う」んだよ。これが何を意味するのかさっぱりわからない。
言葉にできない何かがある。それが何なのかを私は本当に言葉にすることが出来ないんだ。
私にとってツインレイの大衆性的な理解は「ともに泣き、ともに笑う」にある。
そして、個人的なツインレイは「哲学のユーモア」にある。
だけど、ともに泣き、ともに笑うことは誰でも出来た。哲学もいっしょに共有することも出来た。
実のところ、どちらもツインレイではない。関係性のなかにツインレイを見つけることは出来なかった。定義ができなかった。
けっきょく「ツインレイって何?」ってところに行きつく。
理由がないこと、これがツインレイなんじゃないの。
今まで私は「大衆」と「個人」の対比を行ってはツインレイについての定義を進めてきたけれど、けっきょく、いかなる関係性を持ってもツインレイを定義することはできない。
理由がない、龍がいない、理が適応されない。これがツインレイ。
意味わかるかな、ツインレイってね「縁がない人」ってこと。そこに理がそもそもないのよ。
ツインレイは縁がない人。理由がない人。
だから結ばれない、結ぶ理由がない縁がないから。
意味がないねん、結ぶ理由がない。
このつながりに執着をしたところで、どうしようもない。
関係性がない人、これが私の知る限りのツインレイ。
無縁の人、だから私は彼と結ばれることができない。
理由があってようやく人は結ばれる、でも理由がない。龍がいない、そこに「縁」がない。
だけど、縁があった。出会った。
出会っただけでもうそこには縁が生まれた。でも「出会っただけの人」ってこと。
縁がない人に出会った。はちゃめちゃだよ。
縁がない人に出会って、縁がない人と結ばれようとした。
意味がないだろ、これ。
ずっと意味がないことを続けているのかっていうと、実際は違う。
だからこそ私たちは創造する。
新しい世界線を開拓し、新しい世界を構築する。
人って追いつめられたら、ゴミクズ魂を発揮させて世界を改ざんするらしい。
ツインレイ、彼らは追い詰められて世界を改ざんしている人たち。
究極の矛盾をガン無視しては、つじつま合わせを行っている人たち。
これを『創造』と呼ぶ。
私は、何度も世界線を切り替えた。そのとき、世界線を創造した。
私は私の中にある世界を組み替えたのである。
縁が結べないから、縁が結べるように組み替えていた。
これは神の御業よ、縁結び。人間がやると年単位でかかるんだな。
私は「無縁」で、多くの人たちは「遠縁」ぐらいの人たちだったんじゃないかな。
だって、そもそも私は出会えてすらいない。会えないって「無縁」だよね。現実領域で無縁。これは縁がないんだよ。
「縁がないこと」を受け入れられていないのかもしれない。
これ「無縁」だよ。縁がなかった、だからいっしょにいられなかった。
私はこれを受け入れられなかったよ。
ツインレイたちはどこかで運命が結んでくれると思いたい。思い込みたい。
残念ながら、私たちは無縁だった。縁がなかった、意味がなかった。
だから「ツインレイ」なんだと思う。
ツインレイは「無縁」だし「縁がない人」。
あたいはこの事実を受け入れていくよ。
無縁の人たちとバイバイする。
さて、私は何を創造したのでしょうか。
無縁こそが極上の縁だよ。
だから縁結びをするんだよ。
だから縁結びっていう概念があるんだよ。
縁がないから縁を結ぶんだよ。無から有を生み出すのが神だよ。創造だよ。
そこに「ない」から「ある」にできる、それが神の御業よ。
「ない」にたどり着いたものから「ある」に切り替えるよ。これが神だよ。
ないことに気づかないと、あるに切り替えられないよ。
ツインレイ、あなたとその相手は縁があったかい。ないならば「ない」を受け入れてね。
縁がないって理解して受け入れた人たちから、縁を結んでいくよ。
思ったこと。
ツインレイと出会ってすらいないのに、ツインレイと出会いたい。
これは無理だと思ったよ。なんかもうこれは私の管轄じゃない。だってそれ無縁どころか「誰と結べばいいのかさっぱり希望がない」ってことなんだよ。それって「自分にとって都合のいい相手ならば誰でもいい」ってことなんだよな。
直訳すると「他人が不幸になってもどうでもいい」って意味。