セフィロトの樹とツインレイの使命と『父性』『母性』『男女』『子供』の概念化

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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ツインレイの記事はもう書かんとか。世明けのツインレイはもう更新しないとか書いていたんだけれど、考えてみりゃセフィロトの樹のカテゴリーってツインレイカテだったんだな・・・・・・。

なぜか、セフィロトの樹はずっと追いかけてきたんだけれど、ここにきて結論的に理解ができるとは露知らず。

とりま、わかったことは更新して出しておこうと思う。

でも、なんでこんなに私はツインレイの理論を出しているんだろう? なんか意味があるんじゃろうか・・・・・。楽しいからいいけどね。

図の説明:精神と現実の相関性

引用:セフィロトの樹から読み解く創造性へ到達(ツインレイの願いはすべて叶えられる仕組み)

このように書かせてもらった図が一番にセフィロトの樹がわかりやすいのではないか? と思われる。

セフィロトの樹が善悪二元論に傾倒するとき、私たちは善悪の実を食べた人類ということになる。この善悪の実をセフィロトの樹へと組み替えていく必要性があるんだが、そのときにクリフォトの樹が介入してくると言える。

セフィロトの樹は純粋なる楽園に生えているもので、これを『願いを叶える実がなっている』とする。セフィロトの樹は生命の樹なのだが、それはこの世のありとあらゆる生命たる存在を愛するとき、あなたの願いを叶える楽園を構成する実を授けよう——みたいな解釈でいいと思われる。

 

さて、セフィロトの樹がどのように構成されるのか——である。

図の説明:セフィロトの樹とクリフォトの樹

セフィロトの樹はクリフォトの樹と対立している。それは投影の世界とも言え、セフィロトの樹が『善』であるとき、クリフォトの樹は『悪』となる。

しかし、これは善悪二元論的な世界観であり、本来はクリフォトの樹が善悪であり、セフィロトの樹が統合である。

とはいえども、これも少々語弊があるな~と感じられる。

この世には邪悪の樹と、善悪の樹と、生命の樹の3種類があるのではないかと考えている。

いわゆる、善悪を『邪悪』と『生命』に結びつけるがゆえに、私たちは、そこに投影世界を生み出しているのではないかと思われる。

本来は生命の樹と邪悪の樹は統合された『クリフォトの樹』だったのではないかと思うんだ。

いわゆる、このクリフォトの樹は存在していないはずなのだが、私たちが善悪の判断をするがゆえに投影世界が生まれ、クリフォトの樹が生まれた。

最終的には邪悪と生命が統合されしとき、私たちは本当の意味で『セフィロトの樹』を理解するのだと思われる。

私たちのなかに存在しているものが善悪だからこそ、クリフォトとセフィロトが必要なのであり、善悪を超越し理解し終えた瞬間、クリフォトの存在は必要がなくなり、セフィロトに統合されていく。

クリフォトの樹は邪悪の樹とされ「ありとあらゆる邪悪」を教えてくれているが、この闇こそ、この影こそ、私たちにとって本当に向き合いたくないシャドウを形成させる。

向き合わなければ向き合わないだけ、私たちはクリフォトの樹を構築していくことになる。それは光への傾倒ではないだろうか。

そして、私たちが最終的に気づくことは「自分自身が悪だと思う存在だとしても、神に許されてこの世に存在している」という個人の善悪を超越したところに『存在への無条件の愛』が存在していることを理解する。

私の蜘蛛の糸のターンだと思われる。

そして、邪悪を受け入れていく姿勢がクリフォトの樹そのものであり、クリフォトの樹とは『生命愛』なのかなと思う。

いかなる存在をも愛している——という姿勢がクリフォトの樹。クリフォトの樹は、そんな心を育ませてくれている樹なのだと思う。

 

さて、こんな経緯がおおまかなる大筋かな。つまり、投影からしか『邪悪』は理解できない。他者のなかにしか悪は視えず、その悪は自分の悪でしょう? って話をされている。

次にツインレイたちについてを書いていきたいと思う。

であるがゆえに、ツインレイは常にシャドウと向き合い続ける必要性がある。他者のなかにある悪は自分のなかにある悪であり、しかし、行動そのものは社会のルールに沿わせていないものは悪だよねって話。

だけれど、その邪悪に触れたとき、あなたはどういう判断をするのか? についても『慈悲』が関わってくるのではないかと思う。

図の説明:セフィロトの樹を考えてみる

たいてい、この二元論に縛られているとき、

  • 自分が偉い、誰かは偉くない
  • 理解できることが善、理解ができないことが悪
  • 知識を持っていることが善、ないことが悪
  • 自分に厳しい、他人に甘い(自他)
  • 自分がよければよく、他人はどうでもいい(自他)
  • 肩書きがあれば善、なければ悪
  • 勝者と敗者
  • 裸の自分が善、仮面をかぶっている自分が悪

というような意識を持っているような気がする。

実際は、別にどっちでもいい・・・・にいたると、

  • 自分に誇りがある
  • 理解力と知識力があれば知恵が生まれる
  • 肩書きにこだわらず平等意識があれば調和が生まれる
  • ありのままの自分でいられる

というような状態になる。表は現実的には『調和』が表立ってくるけれど、調和の裏側には『智恵』がある。

知恵って何? っていうと、たいてい『理解している』『知識がある』とすれば、そのシーンごとにどうしたらいいのかは明確に理解が出来るようになってくる。つまり、知識はそのままじゃ使えないことが多いんだけれど、知識を本当の意味で理解している人は、その知識を使いこなして現実適応させてくる。

現実適応させてくることが「智恵」に至っていると考える。だから、ダアトは隠されている。だって、知識と理解があるだけでは「使いこなしている」とは言えず、それは知恵とは言えないから。ただのパクりになっているってこと。

図の説明:知識を本当の意味で理解して知恵が生まれ、平等を本当の意味で理解して肩書きを得て調和を生む

セフィラが生まれる順番も関係しているとは思うが、単純にそれぞれのセフィラを理解することが無ければ、最終的に『智恵』も生まれなければ『調和』も生まれない。

 

ツインレイは『智恵に到達しているもの』と『調和に到達しているもの』という登りと降りの関係性にあるのではないかと思われる。さて、このふたつが出会うことにより生じるセフィラが『自己超克』と『慈悲』にある。

知恵と調和が交じり合うことにより、それは自分を乗り越えていく、運命を乗り越える自分への厳しさとなるがために運命を超克していくことになる。

知恵と調和が交じり合うことは、同時に慈悲をも生み、他者への共感を生み出す。それはいかなる存在へも存在する意味があり、そこには犯罪者であろうが慈悲の心を向ける必要性があるってこと。

ここには『自分へ向けられる厳しさ(父性)』と『他者へ向けられる優しさ(母性)』によるセフィラが成立していく。

自分へ向けられる厳しさは、他人へ甘くもなるが、他人へも厳しく接することも重要であることことを学ばなければ父性は成立し無い。

他者へ向けられる優しさは、自分を自己犠牲することにもなるが、自分へも優しく接し、共感することも重要であることを学ぶと母性が成立していく。

母性とは「自分に共感し、自分を浄化していくこと」に関係しているのもあり、個人的には自己超克はトラウマの克服であり、慈悲はトラウマへの共感によるカタルシスを呼び起こすものではないかと感じている。

  1. 父性によるトラウマの自己超克
  2. 母性によるトラウマの浄化(慈悲)

というように、先ずはトラウマを超克することがなければ、浄化することも出来ないとも言える。

 

トラウマを乗り越えていくとは『現実を受け入れること』である。現実が受け入れられないでいるとトラウマを抱え続けていくことになる。トラウマとは過去のことであり、過去のことを現在も引きずっているからこそ生じている現象にある。

『現在』と『過去』が混同してしまうことがトラウマとも言える。時間的概念の欠如が生じ、このままだと未来危ぶまれ、未来が妄想で犇めくようになる。

トラウマを乗り越えた先には『トラウマを受け入れること』が必要となる。トラウマを受け入れることは浄化であり、慈悲であり「よく頑張りました」と自分の努力をたたえることでもあるが、同時に、その裏側に所持る苦しみや悲しみを全て引き受けることが『慈悲』にある。

セフィロトの樹の中心には、

  • 知識を理解したからこそ生じる知恵(現実的な知性)
  • 肩書きと平等思想を受け入れているからこそ生じる調和(理想的な現実)
  • 過去を乗り越える自分(父性)
  • 過去を受け入れる自分(母性)

という四つの材料が揃うことになる。

図の説明:マルクトという創造が発揮されるとき

さて、ここでツインレイ女性とツインレイ男性としたんだが、これどんな人たちか——というと、

  • ありのままの自分を受け入れている存在
  • 誇りをもった自分でいられる存在

を定義している。

図の説明:創造をするために必要なもの

過去を乗り越え、過去を受け入れている存在は『そのままの自分』になっていくのがツインレイ女性であり、ツインレイ男性は『誇り高き自分』へとなっていく。

上から来たツインレイ女性は地に足をつけて「そのまま」を受け入れることができる。下からきたツインレイ男性は天にたどり着いては「がんばった誇り高い自分」を理解する。

最終的にツインレイ男性は「偉い人」ではなく「神」でもなく。「自分が自分であれたことに誇りがある」状態になる。

ツインレイ女性は「恥ずかしい人」でもなく「神」でもなく。「今までの自分をすべて解消してはそのままの自分」へと立ち返る。

男性は発展だけれど、女性は元祖返りを起こすようなものかなとは思う。過去の捉え方が違う。男性は肥やしにするが、女性は無に還す。男性は蓄積させるが、女性は無に帰し、ゼロへと還る。(子を産むからだとは思うが)

ツインレイの男女は出会うとき、ツインレイ男性は『調和を愛している』のであり、ツインレイ女性は『智恵を持っている』と言える。

それは人生経験からして、ツインレイ男性のなかで『肩書きの理解』『勝敗への理解』をしてきた最終結論として「調和」を構築してきた。

ツインレイ女性は『知識』と『理解』を深め、最終的には、知識を理解したが故の智恵をももたらしていると言える。

また、このふたつをもツインレイは人生のなかで構築している。私たちのなかには男性も女性も存在しているからこそ、私たちは常にツインレイという意識を飼っている。

上からと下からやってくるふたりの性別に依存したセフィラを担当し、それぞれが認識できるようになっているが水面下では別の理解をも深めている別の視点が育っていることが分かる。

ゆえに、ツインレイ女性が智慧に到達したとき、女性のなかに存在するアニムスは調和へも到達している。なぜならば、肩書や勝敗への知識として理解したとき、智恵に変換されれば『調和』が導き出されてしまうからである。

逆も然りである。肩書きを平等にした視点を構築した存在は『智恵』を持っていると言える。

いわば、私たちは真逆の方向から歩いてきているけれど、どちらも同じ結論を導き出すのである。

 

ツインレイの出会いから、私はアダルトチルドレンの課題を感じられた。

そのとき、過去を乗り越える力をトラウマ克服能力とし、父性を自己構築し、過去を受け入れる力をトラウマ浄化能力とし、母性を自己構築していく。

自己構築をしていくことにより、私たちのなかには新しい『父性』と『母性』が生まれ、私たちはツインレイではなく『父』と『母』という概念を自己のなかに構築していくことになる。

その先にあるのは、中心に座した『マルクト』である。本来の図では一番下に描かれているのだが、個人的にはこれ中心だろうって思っている。

なぜ下にしたのかもなんとなく理解ができる。確かにこのほうが「わかりやすい」のである。セフィラとしては最後に誕生する為だ。

しかし、立体的理解をセフィロトの樹から捉えることが出来るようになったならば『中心』として描くことが一番に理解が早い。

中心にある『創造』とは、智恵、調和、自己超克、自己浄化の四つにより『女性性』『男性性』『父性』『母性』を構築し、この中心には『子供』が生まれる。

創造とは『子供』である。

父と母は『過去』乗り越える象徴として存在し、現在には男女という『現在』をいかに生きるのかの象徴として存在する。

そして、子供とは『未来』である。これから生まれてくる未来の為に、私たちは過去乗り越え、今現在を知恵を絞り、調和を導き出していく存在でなければならないのである。

ツインレイの出会いは、智恵を絞り合っては「どうにか調和してやっていこうとする」という今に向けての協力体制が必要であったはずだ。しかし、離別を迎えた私たちは協力をすることが出来なかったはず。

その理由は『父性』と『母性』の欠落にあった。私たちは未だに過去のトラウマを乗り越えてはおらず、過去のトラウマを受け入れることが出来ずにいた。

しかし、過去のトラウマを乗り越え受け入れたとき、私たちは再び再会することができたならば、きっと知恵を絞り合い、大事な調和と共存を導き出しながら、新しい未来を創造していくことができるだろう。

 

私たちは未だにスタートラインにすら立てていなかったのである。

なぜならば、私たちは『誇り』を知らず『そのままの自分』を知らなかったからである。そこにあるべき『自信』が存在していないことが大きな間違いにある。

 

創造とは未来である。そして子供である。

私たちは過去に引きずられて今大事にするべきものを大事にすることが出来ずに、未来を破壊してしまった。

その破壊者となっているのが『父と母』という概念にある。

私は、それを悪とは感じられない。これが因縁にあり、また私たちが背負うべき宿命でもあった。

しかし、今、目の前に運命を目前とした私たちがするべきことは、父と母という宿命を破壊し、自らの父と母に据え変えては宿命を切り替えようではないかということだ。

もしかしたら、これがインディゴチルドレンの思想とも言えるだろう。

なんのために私たちがこのようなことをするのか。

それは、この国の未来を愛し、自分の子供を愛しているからである。

もし、これを『使命』というのであれば、確かに私はこの宿命の破壊を行い、自分の時間を使ったのだから『命を使った』とも言えるだろう。

このときの私たちは、自分の人生を破壊するカルマを愛している。そして宿命を愛して受け入れている。

私たちが今までの人生に誇りを感じているのは、このカルマがあってこそのこと。すべてが悪じゃない、すべてが私のなかで終結する。

 

すべては未来の為だった。

新しい未来のために過去の因縁へ区切りをつけていくために必要な時間だった。

すべては未来の為だった、それは私が愛したものだった。