夢見|船に乗っていたつもりが船に乗っていなかった件

| Ⓒ なとり

sponsor link

ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

kindleの読み放題Kindle Unlimited30日間の無料体験』では、ほかの三冊も同時に読み放題


ちょっとあべこべの夢だったんだが、話をまとめるとこうである。

 

私は十五歳の時に起きた大地震のときに船に乗っていたが、それは予行練習の船だったようで、船は航海になどでていなかった。

 

つまり、私は十五歳の時に「結婚の準備」を始めた。きっかけは「大地震」とあるが、私が精神を病んだのがこの時期から。もともと被暗示性が高すぎるのもあって、結構ストレスがひどかったのも相まっているとは思う。

だからこのとき「社会生活無理」って思い、このときから、結婚の準備を始めたということになるな。しかしすべては予行練習に過ぎず。で、今更ながら「おまえ、船に乗っていたと思っていたかもしれないが、それは海になどでていない船である。」と教えられた件について。

え。そ、そうなんだ・・・・・・・。

 

二十歳ぐらいに、師匠に出会い。それから神道の道にいて「師匠のような大人になるんだ・・・」と憧れた。まァ、あたいのスペック低すぎたのもあって、もう比較にもならないほどの差があったが、それはそれでものすごく大事にしてもらって育ててもらっていたと思うよ。

その最中に「優しい人になろう」と思い、では優しいとはなんだろうかと思った。

それは「優れている」ってことなのかな? と思い、勉強していた。優れている知性のなかに優しさがあるのかな? と考えたのである。

地上のツインレイの課題が終わった頃には、自分のなかで自分が思う優しさのカタチを体現ができた。よし、私は「私の思う私」になれた気がして、まずまずの結果がでて個人的には満足していた。

 

そして、私は次に「教養がないな、教養を身につけよう」と思った。しかし、教養ってなんだろうと思った。

教養がなんなのかはわからないので、先生たちに「教養って何?」って聞いてまわったところ、全員違う意見だった。なるほど、みんな教養の意味合いって違うんだなって思った。

それで、とりあえず、私の答えがわからない限り、勉強するしかなかった。元々勉強もしていたんだが、やっぱり勉強するしかなくて幅広く読書をしていた。

何も身につきはしなかったが、今の私がいる。教養とは何か——の答えが見つかっている。

「世にでて人に不快を与えない人になること」である。そしてそれは「一般的」であり、右利きであることなんだと思っている。

私の子供は多分左利きだと思う。だけれど、私はそれを右利きになおすこともせずに育てるだろう。しかし、来年に小学校にあがるだろうとき、右利きを教えると思う。小学校に入ったときに右利きが使えるように。

私は左利きで右利きに強制されているから左右盲になっている。左右が咄嗟に判断ができないし、学校でも咄嗟にわからないから困ることも多かった。

だけれど、家では左利きで良いけれど、社会にでているときは右利きを使えるように。社会に埋もれることができるように。

私たちはテレビを見ていて左利きがやっぱり目につく。母がよく「この役者さんは左利きなんだね。」と言葉にする。そこに注意が行くのである。これが普通なのだと思う。

そして、私も左利きの人を目の前にすると違和感が感じられる。その違和感をある種ひとつの不快と感じる人もいるし、敬遠する人もいるだろう。

だけれど、当人が左利きである事実を踏まえ、そして社会に出て右利きを使いこなせるようにしておくことは必要なことなんじゃないか——と思った。

日本料理をやりたいなんて言ったら、大人になってから右利きの練習をすることになる。日本の道具のほとんども右利き専用に出来ているし、そういう意味で不便がないようにと思う。

たぶんこれが「教養」なんだと思う。また、教養を教える人なのかもしれない。

どこに人が不快を感じるのかを知っている。心の恥ずかしさを、そして不快感を知っていること。そのひとつひとつを当人の個性を殺さずに与えていく方法を探しておくことが出来たらいいなって思う。

 

姪っ子がばってん箸の遣い方をしていた。我が家によく泊まりに来ているとき、

「結婚する相手は、どんな人がいいの? ばってん箸している人と結婚したいの?」

って言ったら、めちゃくちゃ頑張って直そうとし始め、やっぱりなかなか難しかったが、最近、我が家でいっしょにご飯を食べたころ、二人とも箸の遣い方がちゃんと普通になっていた。

それからものすごくテーブルマナーについては聞かれまくった。

ほっときゃいいみたい。今すぐに何かが出来なくていいし、子供はよく理解している。「教える」だなんてことも、自分のなかで納得があれば、そのほうへちゃんと進んでいく。

それを信じてあげればいいだけみたい。

 

薬も大量にいっていたんだが、全部、薬断ちをしているんだ。先生的には最後に少しは残るんじゃないかって感じだったみたいなんだが、最後の最後まで、睡眠薬も終わらせた。

睡眠関係が一番しんどかったかもしれない。しばらく眠れないからな。1年間ぐらい眠れないことで悩んだし、ほぼ寝込んでいた。眠れないから日々動けない。

マジ、死ぬかと思ったわ。

あと精神安定剤を抜くと、そのあとちょっと発達障害みたいにもなる。頭がある種偏ってて回っていない感じ。で、私の家系からして「可能性として私が発達障害者である可能性」とかも危惧された。

安定剤を抜き切ったあと、しばらくして脳の機能が回復して数年後、それが「どのような状態なのか」は誰にもわからなかった。この期間も「自分が何かの視野が欠けている可能性」については凄くよく考えていた。

で、発達障害だったのかっていうと、結論として「なんだ、こいつ。すげえ賢いじゃねえか」ってことに気づいた。

なんでここまで薬抜くのに頑張れたのかっていうと「自分が将来、子供が欲しいと思ったときに困る」と思ったから。

特にほしいとは思わなかったけれど、でももしかしたら、本当に好きな人が出来て、その人との子供が欲しいと思ったとき「私が困る」と思った。それはいかんなと思った。だから頑張った。

私は私が困るのが一番に困る。

 

二十代後半だよ。もう三十そこそこのとき、途中で漢方の先生に出会って。ものすごい薬が大量に体からでていったよ。やっぱ蓄積してんだな~と思った。

漢方の治療の過程で「運動をする」とか生活指導もあって、運動しまくってたんだ。1日2時間近く歩く日とかもあって「あなたは汗をかきなさい」と言われていたので、サウナスーツきて歩いて汗をかくようにしていた。

するとポケットにいれているスマホカバーが真っ白だったんだが、すべて「真黄色」になった。これ、全部「体の中の毒」なんだそうな。多分、薬なんだろうなと思っている。

先生には子供産むにはもう大丈夫ですよとは言われた。ただ子供が生まれる日が遅れるかもしれない。それぐらいだと言う。

運動が得意なわけではなかったけれど、これはこれでひとつの過酷でもあったなァ。

漢方の先生には、日々の記録をつけて過程を提出していたんだが、それをみて「聡明な方ですね。」と一言いってくださった。世間にはでないほうがいいとも言われた。社会に殺されるから。

それから、そういう知性を持っているからこその人生の生き方のコツみたいなものもここでいくつか教えてもらった。

 

賢いと人にも認められ始めたのは、この時期かな。それまで自分はずっと右と左もわからないバカだとすら思っていた。でも、そういうことじゃないとわかって、とりあえず、もっと頑張ろうと思えた。

たぶん自分が「賢い」だから「偉くなる」にはならなかった。「賢い」だから「人の為につかえる知性がある」のバーストがかかってしまった。

 

なんか知らんのだが、分かったクチを聞く人がいる。私はこのブログに書いていない部分もめちゃくちゃある。私が何を抱え、どのような苦しみを抱え生きてきたのか。

人生って思うようにいかないよなって思う。だけれど努力すればなんとかなると思っている。

どこでいかに間違えようとも、人生で取り戻すことができるとも思う。

私はそう思って信じて生きてきたし、私は自分の人生が「どこまで間違えたのか」とすら思っていない。

私はずっと自分が正しかったと思う。私は私の未来を守るためにずっと生きている。

不安や恐怖、孤独。そんなん言っている場合じゃなかった。今更ながら、今だからその感情と向き合えるけれど、あのときの私は未来を守ることで精いっぱいだったと思うし「生きること」しか出来なかったよ。

私は自分がニートになるときにも勇気がいることだった。だけれど、私があの時に思ったのは「未来を守ること」のほうが重要視するべきだと思った。私は生きようとしていたから。

 

つまりなんだが、私は薬をのみながら、意識をブラックアウトさせつつ、仕事をし続け、

断薬による離脱影響で頭がいかれながらも勉強し続け、仕事をし続け、

師匠による教えを守りながら精神修業をしながら、起業も一応は考えたがやってみて「向いていないな、人を雇うのは」と思いやめ、人の為に何もできない自分がミジメになりながらも、勉強以外に私は何もできないのか、、、と自分を追い詰めるように勉強していた。

いつかはこの知識も誰かの為になるかもしれないと思っていた。知っているだけで誰かを助けることができることもあるから。

自分の為でもあったし、人の為でもあった。

なんだこいつ、並走して人生を三人ぐらいが走ってねえか? バカなのかな。

 

私は人間の脳そのものが「欲求のブレーキ」を学習するのが二十五前後にあって、三十前後で「記憶力の減退」が始まり、三十五前後で「脳の停止」が起きると考えた。これ以上の成長はない。

私の場合なんだがな。なんとなく、そんな感じなのかなと思って。二十五前後までには自制心を培えるような人間性を。

三十前までに脳のなかに入れるだけの知識をバカスカ入れておかなきゃいけないなって思っていた、頭を使いこなすことができるようになっておかなきゃいけない。三十過ぎたら、もう「自分のこと」じゃなくなる。切り替えていかなきゃいけない。

この歳になったら、ほとんどの人が子供を抱えるようになる。その年になったら「人のことを考え、思いやることができる人格と余裕」がないといけないと思ったんだよな。それまでに自分の脳みそのなかに勉学をだな、とりあえずできる限り必要そうな知識をバカスカいれておかなきゃと思った。

これらが「人間的な基本の思想」になるような気がした。

三十五までには「人のこと」「人の面倒」。自分のことのみならず、人の面倒をみれるまでの人格を形成していかなければならないなと思った。だってもう子供がいてもおかしくない歳だから。

「自分のことに腹を立てている」じゃ許されない歳。「我が子を守り、我が子を叱る」ことができないといけない。

これって物事の良し悪しをよく理解できていなければならない。

ずっと二十代から目下の子の面倒は見てきたつもり。話を聞き、なるべく親身でいられるよにしていた。だって、人生でやっぱり困ることがあるんだよ。そのとき誰に相談したらいいのかわからないと困ることがたくさんあるから、困った時に話ができる人としていられるように心がけてはいた。

で、三十代に入ったら、それがデフォルトで出来るようになっていかなきゃいけない。

なんとか、なんとか。。なんとかできたかな? 一般的な視点に合わせて、私は自分を育ててきたつもり。

 

これを基盤として考えたとき、絶対的には私には「自分には何もなさすぎる」「自分には子供に与えてやれるものが何もない」と思った。

それって繁栄じゃないよね。なんなら衰退だよ。

つまりバカってこと。だから勉強していたし、でもどこにも答えはないから自分で考えていくしかなかった。

 

なのにさ、具合がよくなったと思ったとたん、神さんに毒盛られたりとかさ。マジ、マジ勘弁してほしい。ここから回復するのに1年ぐらいかかった。

そのあと解離症になりかけたり。

ほかにも脳がブースト起こしやすくなっちゃって脳が破損しやすくて、うつ病にすぐになるから、もはや今は脳が破損した部分をつかわなきゃ普通の生活ぐらいはできる感じ。(母曰く、うつ病になっているぐらいが『普通の人』だそうな。)

過酷すぎると思ったよ。この人生なんでこんなに布団に伏せて眠りつづけなきゃいけないんだろうってぐらいに、私は自分の人生が過酷すぎた。

毎年、何かしら私は寝込む事件が起きるんだよな。

たいていは「脳」に関すること。何もできない、頭がまわらない。やらなきゃいけないこと、勉強しなきゃいけないこと腐るほどあって、それがやれないことが苦痛すぎて私は具合が悪くなると泣くんだよ・・・・。

「勉強ができない」って泣くんだ。辛いんだ、何もできないことが。

母には「受験生よりも受験生やっている」と言われるぐらいには勉強していた。

 

自分でここまで自分の人生を振り返って、普通に「バカだな、こいつ」って思った。

全くもって楽しい人生なんて味わったことない。

でも清々しいなとすら思ったよ。ここまで人生を真面目に生きるバカがいる。

勉強しか頭にないような人生を送ってきた。そして人の為にそれが役に立つと思って疑わない若さがあった。若い、若いなって思う。

だから彼が「社会に出たとき、不安だったけれど、勉強だけはしておこうと思った。」っていう言葉に私は感動した。忘れられないよね。

 

でも、けっきょく、まわりまわって、全部自分の為になったんだなって思った。

人の為になろうと思って一生懸命生きて、その間に身に着けたもの、そのすべてが「未来の自分」を構成しているし「自分自身」を意味している。

私は与えたいと思っていたんだが、与えるものがなくて与えられるだけの人になるために一生懸命頑張ったけれど、やっぱり与えられるものはなかった。

だけれど、私は「与えたいと思う心」が重要だったんだと思う。行動じゃない、その心に意味がある。

そこに優しさがつまっていたような気がする。

それこそ「その心」を育んできたような気がする。それは「豊かな心」なんだと思う。

 

大人って子供の理想のひとつになる。

その理想を潰したらいけないなって思った。

楽して楽しく生きることもありなのかもしれない。

だけど、私は「理想を追いかける子供の姿」をみたい。

なりたいものがニートだなんていうなよ。

わたし、ニートだけれど、この人生、ものすごい壮絶だったぞ。表面的なものだけみれば「楽しいことだけしている」ように見えるかもしれないが、その裏側に泥水すすっている人生が隠れている。

挫折した人生じゃないんだよ、底辺で生きているゴミの人生なんだよ。

私はやりたいことをやっている。それは「目標にむかって頑張っている」のであって、今、これそのものをやっているわけではない。私はなりたい自分になるために何度も何度も繰り返しては目標に到達できるように頑張っている。

もちろんそのときそのときは、没頭して楽しいよ。でもちゃんと目的がある。

かっこ悪い大人になるわけにはいかないと思ったんだよ。

だって大人が真面目に生きていない人生を見て、子供はどう思うよ。人生、簡単じゃんって思って、他人の人生すらナメくさるようになる。

それを「成功者」と呼ぶらしい。で、これは成功しているのか、よく考えてみろ。

人は人生を一生懸命いきている。その一生懸命いきている人生をナメるから目上をナメてしまう。

尊敬できる大人が近くに誰もいなかったんだろうなって思う。尊敬できる大人って「教えてくれる」んだよな。ちゃんと「人生とは何か」をちゃんと背中で教えてくれている。

言葉じゃない、背中でちゃんと教えてくれている。人格があり、思想があり、そこにちゃんと根強い力強さのある心がある。

優しいんだよ、この世界の人たちは。与えるものがある、それは何か。それは「心」だよ。

どういう大人になりたいのかを私は、ちょっとでかすぎる師匠を目標にしたがあまりに神をも背負ったが、それはそれでやっぱり私の人生のなかで大きな福禄だったと思っている。

親を超える人も多くいるだろう。私は師匠を超えなければならなかった。そのためにやらねばならなかった。それは私のやり方で勝負しなければならなかった。

うちの師匠はね、それを認めていく役割なんじゃないかな。だってあの人「親」だもの。

もうつながりはないよ、でもきっと私の人生を信じてくれていると思う。だって親だから。

 

あなたのような人になりたいと言われるのが私は一番うれしい。

それは「生き様」を見て、そのように言ってもらえるのが一番に嬉しい。

 

どうなれば、働かないで暮らせるようになるのか。それは石油と、電気と。おおまかに石油なのかな。石油という物質が自ら製造できるようになると、人は基本的な生活ができるようになる。

それから植物らしいが、まだこの辺、ちゃんと私も考えてはいないが、食べるに困らないシステム。

この石油、植物が当たり前に手に入る時代に入ると、私たちは働かない時代に入る。

代わりに「社会経験」がなくなる。そうすると、私たちは好きなことができるような暮らしになると言う。なんもせんで遊んでくれる時代だ。

では、私を見てみよ。二十代半ばに社会離脱したぞ。その代わりに、その年代の人たちが歳を重ねていくのを当たり前に社会で構築していけるだけの基盤をすべて知性で賄わなければならなくなった。

社会経験のなかで「人の為に」「自分の為に」の努力がどれだけ重要なことなのか。

その努力の先に私たちは「人らしい人格」を手に入れ、「人として生きていく道」を導き出していくことになる。

しかし、このまま、社会経験のない社会になれば、努力をしない因子が増えるだろう。その因子たちは「人らしい人格を手に入れることができるのか」を考えてみてほしい。

私は無理なんじゃないのって思っている。だってそもそも今から努力をしていない、努力をしていない大人をみた子供たちは、やっぱり努力をしなくなる。その連鎖を持っている。

私はずっと努力をしているし、それをどのように思われるのかはわからないが、私自身、自分の人生に今んとこ「悔いがない」のである。

 

生きるってこういうことなんじゃないの? 考えるってこういうことなんじゃないの。

 

私は自分の遺伝子。劣等しているんだと思っていた。

だけれど、なんかこう見てみると、私はこの遺伝子がものすごく優秀なものなんじゃないかって思える。自分がバカである自覚があり今時分、何をしなければならないのかを都度判断している。

すんげえ生きている。

 

私はずっと船にのって「予行練習」をしていたにすぎないらしい。

なるほど。「優しい人とは何か」「教養とは何か」。

私は「母」になろうとしていた。だけれど、その割に自分がバカすぎて子供に教養を与え、世に出せるまでの恥ずかしくない子供を育てられるほどの器があるとは到底思えなかったんだろう。

どんなに優良な遺伝子をもっていようが、育てる親がクソだったら、やっぱり子供はクソにしかならない。人生ナメくさる。

精子の売買があったとき、子が高IQの子により生まれた子たちのほとんどが統合失調症になったって話しな。

私はそのケースを踏んでいる。けっきょく私は高校の精神発達の段階で統合失調になった。そこからの再起はとてつもないものだったよ。

私はあのときの自分に「何を与えるべきだったのか」を今ならば理解ができる。

教養、そして哲学である。与えるべきものはそこにあった。そして、思考を与えなければならなかったというのに、私の周囲に教養と哲学を教えられる人なんておらなんだ。

私を持て余したのである。

私は自分の知性を持って「もったいない」と思った。この人が世にでないことはとてつもなくもったいないことだと。ここまで考えることができるのに、この知性を誰も生かすことができないことを、もったいないと。

だけれど、これを今更ながら私は世に使うにはやっぱり子供を育てるしかないんだと思っている。もう遅いんだよ、私はもう自分のおおまかな全盛期を終えている。

そして、実際、この知性が「どこに向かうのか」をさっぱり有効活用することが考えらない。私が興味を示したものは哲学だからだ。

次にもう三十代に入ったら、実際「次の世代に任せる準備」をしていく必要性がある。これは数学者の考え方だとは思うがな。

だからこそ、私は次の世代の為の基盤となるものを構築しようと思っている。

 

人ってこうやって「次の世代になにを継承していくのか」を考えている生き物なのかもしれない。

私は私の人生から何かしらのものを持って「次の世代に継承していく」ことになるだろう。その継承を私が苦労したものを継承したいとは思っていない。出来れば、克服し終わってから遺伝子の内容物が変化してから継承していきたい。

そして、傍らにきっと何かをやっているだろう。それが人の為なのか、自分の為なのかはわからないよ。

私はこの人生を振り返って「子育てだけして、何もしていない人にはならない」ような気がする。それじゃァだめなんだよ。子供のためにも、私の為にも、私は自分の人生を放棄してはならない。

子供が自分の人生を生きることを肯定してあげるために、私は私の人生を子育てだけに捧げるつもりはない。

私はそんな自分の人生を肯定してくれる人と結婚をする。

 

 

「なとちゃ、子育てできる自信ない(´・ω・`)」今ならば少しはあるよ。

 

 

夢見

昨日のことで明日へ振替休日らしい、名前を「ヘリオスの日」「ヘビ? ウロボロスの日」ほかにも色々名前があった。

ヘリオスは太陽を東から西へ運ぶ役割。その間に世にある悪事を目ざとく見つけ人へ伝えていく役割。

悪事が明るみになる日が昨日だったんだろうな。「慢心の罪」に関することかな?

そして、明日は振替休日。おやすみらしいぜ。おつかれさま、多くの人の罪に目を瞑る人たち。明日は休めよ。