ツインレイの真の自我性の成立とツインレイの統合(シュタイナー理論から)

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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シュタイナーは『真の自我性』を人類は獲得するとして考えていた。

シュタイナーがすごいなと思うのは、私自身が体験したことをすべてにおいて理論で提唱していること。

つまり、彼は私自身が経験したことを同じように経験していたのか。または理論で構築させたのか。どちらかなのかはわからないけど、彼の理論は私の起こしているツインレイの現象と酷似している。

そのために、今回、説明のためにシュタイナーの『真の自我性』を採用されてもらおうと思う。

本来ならば、シュタイナーの本をがっつり読みこんで理解し――という経緯が必要なんだが、むずかしい。シュタイナーの本むずかしい。読み終わらない。今、離脱して古代日本史やってる。そのうちシュタイナーに戻る、けど戻る予定は未定。

ゆえに、本記事の真の自我性の理解のための参考はネットにあがっているサイトになる。そのサイトの内容を私は真偽にかけない。

 

真の自我性っていうのは『自他同一性』と『自己独立性』の両側面により生じている。

このふたつのうち、先ずは『自己独立性』という自身のアイデンティティの構築が必要となる。

その経緯で、次に『他者』を取り込み、『自他同一性』を構築していくという二段階が必要となる。

ツインフレームの段階で、私たちは自己独立性を手に入れる。いわば、私たちは『自分は自分である』というアイデンティティを手に入れ、独立した個の存在として成立することができる。

そして、この次に『自己独立性』があるがゆえに『他者』という概念が生じる。

『自己』と『他者』という概念は、自己が成立してしまえば、他者が成立するということ。

いわば、私たちが『自分は自分である』という自己を認識したとき、同時に『ツインレイの相手はツインレイの相手である』という分離状態を生み出すことになる。

私たちは『自己』と『他者』による分離意識が大前提にある。

ツインレイとは常に私たちにとっての他者である。

今まで出会った相手は常に『他者』である。それはすべて『ツインレイ』である。

ツインレイの統合は『自分』と『他者』の統合であり、このふたつを統合することが自他同一性ということである。

私自身が昨晩、この事実に気づいて混乱しながら整理をつけた記事はツインレイの統合――経験が無となり人格消滅を起こし、無を愛へ昇華させるまで。(削除済み)の記事です。
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自己独立性を抑圧させ、他者による自己を形成する

ツインレイは『自分は自分である』という概念たる『自己独立性』を先ずツインフレームにより生じさせる。いわば、このタイミングでエゴイズム的な自己が成立するのである。

その後、私たちは自身の精神領域に『他者』を迎え入れる準備をしなければならない。

このとき、他者と自己は対立した状態にある。私たちは『自己独立性』を成立させたとき、他者を統べて排除した意識状態になると言うことだ。

この状態から、他者を迎え入れるために『自己の抑圧』を行っていく。いわば、自己独立性を抑圧させつづけ『他者のスペース』をつくっていく。その段階では常に他者愛を重んじ、エゴを捨てていく段階となっている。

エゴを捨てていく段階のさなか、私たちは『自己』を喪失し、最終的には『他者による自己』という存在へと切り替わっていく。

いわば、他者により生み出されるアイデンティティを自己のなかに樹立させていくのである。

それは『自分』ではない。他者に望まれた自分である。その自分を形成し、その自分を丸ごと受け入れることにより、私たちは『他者』を受け入れる土壌を生み出すことができる。

しかし、このとき、私たちの精神領域では自己、または他者によるどちらかを選ぶことしかできない精神状態にある。

つまり、自己をとるか、他者をとるのか。このふたつを問われている。そして、他者による自己とは『常に他者であり続けること』である。ここで自己の喪失を生み出す。

当初は自己の抑圧は、自己を殺すことにあるが、次の段階では『自己の喪失』を望むことになる。

他者と自己における独立性が拮抗するなか、他者による自己が優位に立つとき、私たちは『元来の自分』へさよならをすることになる。

 

この経緯を経て、私たちは『ツインレイという他者』を受け入れる土壌を生み出す。

ツインレイという他者の受け入れ

ツインレイという他者を受け入れていく経緯で、私たちは『ツインレイの人生をトレース』することになる。

精神領域では『他者による自己』が形成できるような空っぽな状態となっている為、ツインレイの人生は『他者の人生』であるために、丸ごと受け入れることができる器の状態になっているということだ。

いわばツインレイとは究極の他者である。そして、ツインレイを受け入れるだけの器は『他者による自己』を確実に形成していなければならない。

いわば、ツインレイという他者を受け入れるためには『他人になっている自分』が必要なのである。それは『他者を愛した人』でしかたどりつくことない境地にある。

 

ツインレイの人生を丸ごと飲み込み、そして、ツインレイの人生を数年をかけ追従することになる。私たちはこの経緯で性愛についてや両親から受けたツインレイの人生を丸ごと体現し、ツインレイの精神を自身の精神領域へ体現することになる。

この状態で『ツインレイの相手と人生がひっくり返る』という現象がおきる。

この現象が生じたとき、私たちは――。否、ツインレイの相手が同性の親を愛するというタイミングを迎えている。私たちの最愛は『親への愛』である。子であるが以上に、生じる愛をすべて終わらせ、私たちはツインレイとふたりで『親からの決別』をむかえる。

このとき、サイレント期間へ突入し、ツインレイの自我を『成人』へと成長させていく。

 

ツインレイの人生を受け入れ、ツインレイの人生を再び体現することにより、ツインレイは『ツインレイの相手』となり替わる。

そのために、私たちは人生の経緯でまずは『自我独立性』を成立させ、その後、自我の抑圧をし、抑圧により生じたスペースへツインレイの人生を入り込ませる。

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ツインレイの統合は『自他同一性』

ツインレイの統合と同類語である『自他同一性』を生じさせる経緯で、私たちは『悪の内包』を行う。

善へと偏り、愛しぬく人生であったがゆえに『悪』の欠落が生じている精神へ、悪を内包させることにより、自由の権利を手に入れることができる。

自由とは『善と悪のどちらかを選ぶ』という選択による自由を手に入れることができることだ。

その後、自由の権利を手に入れた私たちは、同時に「心」を手に入れたいと思っている。それは『愛』である。

私たちは、心があると思っている。しかし、心は私たちに存在していない。あるものは『善と悪の意識』である。そしてその根源にあるのは知識である。

この知識により生じた意識を、私たちは心と誤解しているところがある。この意識を排除させる。

この善悪による衝動を『神の精神』として私は捉えている。神は人へ与え、人が真の自我性を手に入れるまでの自意識として持つための親から子へ授けた愛である。

しかし、人が真の自我性を手に入れたとき、私たちは神の精神ではなく、自分自身の心を手に入れることができる。

人が与えられている神の精神とは『束縛のなかにある自由』と『善悪の理解』である。

自分自身が構築する心とは『善と悪の選択による自由』と『人を愛する心』である。この構築されるまでの精神は『束縛による自由』と『理解』により人生を構築していくことになる。

 

前座が少々長くなったが、愛と自由を手に入れるために、ツインレイは『自他同一性』を構築せねばならない。

ツインレイの統合の段階で、私たちはようやく『自分(自己独立性)』を取り戻すことになる。そして『他者』を自己のなかで分離させ、私たちの精神は『天使と悪魔』に分離したような精神構造になる。

他者愛と自己愛の争いである。そして、自己愛と自己犠牲でもある。

自己独立性である自己愛を取り戻したとき、自己犠牲の意識は『他者』ではなく『自己』へ向かうことになる。他者は自己に膝をおり、自己のために他者は犠牲となる道を選択する。

なぜならば、自己犠牲の成立を『ツインレイの相手』により生じさせているのである。いわば、ツインレイの相手の人生は愛する人生であったがゆえに犠牲の人生だったのだ。そして、その犠牲の精神を自身のなかで取り込むことにより、それがようやく『愛』となる形に着地することができる。

 

さて、この精神状態は『自己独立性』と『ツインレイによる自己独立性』のふたつをひとつにまとめていくことが『統合』である。

この統合の経緯により、私たちは今までの経験を無に還すことになる。

人生経験はすべて『無』にかえり、私たちの自己独立性も、内包するツインレイによる自己独立性も。いわば、自己愛も自己犠牲も無くなる精神世界へと突入する。

なぜならば、愛も犠牲のふたつは『愛があるから犠牲がある』『犠牲があるから愛がある』ゆえに、どちらをも抱き合わせてしまえば、愛も犠牲もなくなるからである。

私たちは、愛した経験を、そして犠牲となった経験を『無』に還すために、ツインレイの統合をする。

そして、私たちは無となり、それを愛でもない犠牲でもない『心』とする。

ツインレイの統合は『心の成立』にあり、心とは真の自我性である

ツインレイの統合は『心を手に入れること』である。

私たちは、真の自我性を手に入れるとき『心』を手に入れている。

『他者は自己である』。この感覚は『人を思いやること』だと書いている。

しかし、私たちは『思いやる』わけではない。そんな意識的な行いでもない。

すべてが自身のなかで『完結的』になる。自身における現象のすべて。そのすべてが『自分の責任』なのである。

愛とは何か。人を愛したとき、私たちは必ず手を差し伸べることになるだろうが、それは本当に愛なのかと考えたことはあるだろうか。わ愛の道を進む人は、きっと『愛しているがゆえに手を出さない苦しさ』を知っている。

いわば、身の程を知っているということでもある。他者の経験を奪ってはいけないという考え方もある。

私たちは『愛しているからってなんでもかんでもやっていい』わけではない。

その学習をするためには、愛さねばならない。

だけど、手を出さないことも手を出すことも、どちらも時に愛である。

そして、起こることのすべての現象が『自分のこと』である。自分の精神領域や自身の罪。他者とは常に自己である。他者に手を差し伸べることができるのは、それは『他者を他者』と認識しているからである。

この真の自我性を確立した人間は、ある種のとてつもないエゴイズム性である。そして、それを『愛』だと理解し、心を持って理解している。

つまり、一周まわると言うことだ。

私たちはエゴイズムであるとき、他者へ迷惑をかけていると考えている。

しかし、それは迷惑なんかじゃないのである。愛おしいものなのである。

私たちは常に他者に迷惑をかけてきた。そして、それは愛おしいものであり、自分自身の人生のみならず、他者に振りかけられる迷惑でさえも愛おしいと思う瞬間がやってくるのである。

 

それは『他者を他者』として認識するのではなく『他者は自己の一部』として認識している。

真の自我性を持つ人は、他者を見捨てることもある。それは愛があるからである。

他者を見捨てないこともある。それが愛があるからである。

どちらも同じことなのである。

不幸とは幸福なのである。幸福とは不幸なのである。どちらも『幸せ』なのである。

矛盾を起こしている。その矛盾を体現することができるのが真の自我性の成立にある。

 

ツインレイは愛さない。ツインレイは愛している。どちらも心があってこその行いであり、ツインレイは神にひざまずくことなく、神と対等な存在へとなっていく。

神に愛されて育った私たちが、今度は私たちが神と対等に立ち、一人前となっていく経緯が、このツインレイの統合である。

 

そのために、ツインレイの統合は経験を無とし、その無を『心』とする。

言葉にできない領域に足を引っかけ、言語で説明することが出来ない。

 

土があり、草が生え、そして、生い茂る草原の草を無慈悲に踏みつけることを私たちはなんとも思わないように。

だけど、私たちは『自然を愛している』と言う。

私たちは生きている人間を踏み台にして存在している。そして私たちは言葉にするのである。『人を愛している』と。

人は神を模して作れられた。ただ、真の自我性を手に入れると、私たちが動物やかくたる自然に対して感じていることが「人」に向けられたような感覚になっていくような感じなんだと思う。

そのために、必要なのが『和魂』『荒魂』の統合ということだ。私たちは地で分離してしまった意識をトレースして、ひとつにまとめていく経緯で神に近しい存在へと魂を戻していくにすぎない。

新しく真の自我性を構築しているわけではない。私たちは巻き戻しているに過ぎない。そして、巻き戻した状態と、巻き戻される前の状態は同じだけど、同じではないのである。

 

言葉につくせないけど、ツインレイは最終的に『ココ』にいくつく。

それがルドルフ・シュタイナーが答えを導くためのヒントを書いてくれている。